久保の家
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道陸神と屋敷神

久保区内には旧郷社の高杜神社と村の鎮守の久保神社のほかに、いくつもの神様が祀られています。


道陸神(どうろくじん)

道祖神  集落の中程にある火の見櫓前の三叉路を右に曲がり、急な坂道を上っていくと四つ角に道陸神さんが立っています。
←久保の道陸神さん
道陸神さんとどんどん焼き  かつては1月15日の小正月にどんどん焼き(どんど焼き)がこの前で行われていましたが、近年、成人の日の祝日が1月15日ではなくなってからは不定期に実施されています。
←道陸神さんの前に立つどんどん焼きの櫓

道祖神信仰

道祖神は一般に「さえのかみ」と呼ばれているが、この近在では道陸神(どうろくじん)さんといっている。 一般的にいって村ざかい、橋のたもと、峠の上などに祀られている。 私たちの村では主として村(昔の部落)ざかいや道路の交差点などに祀られている。
 外部から来る敵や悪病から部落民を守る神として祀られているのである。 また人間界と幽明界の境をつかさどる神ともされている。 本来支那から入ってきた民間信仰であるが、仏教と習合してさまざまな形態をとるようになったという説もある。
 道祖神さんは「道祖神」と自然石にきざんだ文字碑が普通であります。 「日本書紀」に猿田彦命は「ちまたの神」と記してあるところから道祖神は猿田彦命であるという説がよほど広くいわれています。 それで「猿田彦命」ときざんだ文字碑の道祖神さんがあります。
山岸善一「道祖神信仰(一)」より

どうろく‐じん【道陸神】:
 道祖神(どうそじん)に同じ。
どうそ‐じん【道祖神】:
 道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では、「さえのかみ」と習合されてきた。くなとのかみ。たむけのかみ。
さえのかみ【障の神・塞の神・道祖神】:
 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉(よみ)の国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女(よもつしこめ)をさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神。  邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、近世にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神ともなった。みちのかみ。道祖神。さいのかみ。
どんど:
 小正月(1月15日)に村境などで行う火祭。門松・竹・注連縄(しめなわ)などを集めて焚く。どんどやき。とんど。
どんど‐ば【どんど場】
 どんどを燃やす特定の場所。多くは村境の道祖神を祀った道祖神場(さえのかみば)であった。広辞苑

講中など

久保三峯神社

三峯神社  明治43年(1910年)、久保地区に赤痢と腸チフス病が蔓延し、さらに翌明治44年(1911年)にかけて火災が9回も発生したことから、村中が戦々兢々となっていました。
 そこで明治44年6月、有志29名が三峯講を発足させ、社殿を造営して災難を逃れるよう祈念しました。
↑久保三峯神社
 久保三峯神社は通称「三峯さん」と呼ばれ、3月19日に当番の方が秩父の三峯神社にお参りし、御眷属(ごけんぞく)の拝借と、御祈祷・火防・盗賊除の神霊三品を配布され、帰宅してから当番の方のお宅で災難を防ぐお祭が盛大に行われます。

三峯神社:
 埼玉県秩父にあり、景行天皇が皇子・日本武尊命(やまとたけるのみこと)を東国に遣わした折、命が甲斐から上野を経て碓氷峠に向う途中、 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)を偲んでお宮を造営したことが創まりだと伝えられています。
 聖武天皇の時代、国中に悪病が流行したとき、天皇が病気の平癒を祈って勅使を派遣し「大明神」の神号を与えています。

日吉山王社

日吉山王社  久保の日吉山王社は通称「山王さん」と呼ばれ、当初は信徒数18名でしたが2名減少し現在は16名です。
 戦争等でしばらくの間休んでいたお祭を再開し、毎年4月15日に信徒の家に順番に宿をお願いし、1年おきに神官さんを招いて盛大に行い、家内安全をお願いしています。
 石祠は弘化年代(1844年〜1847年)に勝山紺屋の屋敷神として創建されています。
←日吉山王社

日吉山王神社:
 文明10年(1478年)江戸城築城にあたり太田道灌公が城内に奉斎した日枝神社のことで、江戸時代は歴代の将軍に尊崇あつく、山王祭りは神田祭りと共に天下祭りといわれ、御輿山車の列は城内で将軍の親拝を得ていました。
 四代将軍家綱によって星が岡に移遷され、江戸第一の大社で日吉山王大権現とも呼ばれました。
 日枝神社(東京都千代田区永田町)の神幸祭は6月14日から16日まで行われますが、15日を本祭とする日枝神社は俗に「山王(さんのう)さん」と呼ばれ、それが祭礼の名となり、神田祭と共に江戸の二大祭とされ、天下祭・御用祭とも呼ばれてその豪華さが有名でした。
 祭列が江戸城内にまで入ることを特色とし、将軍が観覧したこともあり、最盛期には山車の数は60台にも達したと伝えられています。

山の神

山の神 ←山の神石祠
 「山の神」は肥料用の草や薪炭材料を採取する土地を共有する団体で、山林及び原野・田畑・宅地等5町5反あまりを38名で保有していました。
 かつては戸狭(とばさん)地籍に立派な社殿がありました。 祭神は家都御子神(けつみこのかみ:熊野本宮大社の祭神・素戔鳴命(すさのおのみこと)の別名)と伊邪那美命(いざなみのみこと)です。 通称は「山の神さん」で4月21日に諸事の安泰と山林の繁栄を祈念したお祭が行われています。
 大正3年(1914年)に原野3町8反あまりを38区画に区画し、それぞれの区画を個人が採草地として利用していましたが、昭和に入ると採草地はカラマツやスギが植林されて山林となり、共有者も18名に減って、石祠は現在地に移動されました。

 平成20年から「山の神」の土地に砂防ダムを建設する計画が持ち上がりましたが、土地所有者の合意が得られず中止になりました。

やま‐の‐かみ【山の神】:
 山を守り、山をつかさどる神。また、山の精。民間信仰では、秋の収穫後は近くの山に居り、春になると下って田の神となるという。 広辞苑

屋敷神

天満宮

天満宮 ←天満宮
 大宮南地籍にある勝山典郎家には、勝山本家の屋敷神として学問の神・菅原道真が祀られています。

てんまん‐ぐう【天満宮】:
 天満天神(菅原道真)をまつった神社の宮号。北野天満宮・太宰府天満宮など全国各地にある。
すがわらのみちざね【菅原道真】:
 平安前期の貴族・学者。是善の子。宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任、894年(寛平6年)遣唐使に任ぜられたが、その廃止を建議。 醍醐天皇の時、右大臣となったが、901年(延喜1年)藤原時平の讒言により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所に没。
 書をよくし、三聖の一。「類聚国史」を編し、「三代実録」の撰に参与。詩文は「菅家文草」「菅家後集」に所収。 死後、種々の怪異が現れたため御霊(ごりょう)として北野天満宮に祭られ、のち学問の神として尊崇される。 菅公(かんこう)。菅丞相(かんしょうじょう)。菅家(かんけ)。(845年〜903年) 広辞苑

おしめ神社

小布毛(おふけ)地籍の月生田家の屋敷神として、家都御子神と熊野牟須美大神(くまのむすみのかみ、伊邪那美命(いざなみのみこと)の別称)が祀られています。

大十二(おじょね)神

持田本家の屋敷神として、山の神、熊野牟須美神が祀られています。

猿田彦大神

昭和22年(1947年)頃、大宮南地籍の勝山家の屋敷神として祀られました。
 4月と10月に祭礼が行われています。

さるたひこ【猿田彦】:
 (古くはサルダビコ) 日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨の際、先頭に立って道案内し、のち伊勢国五十鈴(いすず)川上に鎮座したという神。 容貌魁偉で鼻長7咫(あた)、身長7尺余と伝える。俳優・衢(ちまた)の神ともいう。
 中世に至り、庚申の日にこの神を祀り、また、道祖神と結びつけた。広辞苑

坐神(いますかみ)

家都御子神が祀られ、昭和35年(1960年)に大宮南地籍の勝山本家の屋敷神として分神されました。
 4月と10月に祭礼が行われています。


参考にさせていただいた資料

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