平成21年(2009年)の高杜神社の例大祭は、10月17日(土)に宵祭が行われ、翌18日(日)の午後に祭事が執り行われました。
前年まで10月16日に宵祭、17日に祭事と決まっていたものが、氏子の要望によって土曜の夜に宵祭が行われることになったことによるものです。
時代の移り変わりとともに、祭礼の開催日も変わってきました。
江戸時代の例祭は、真夏の7月25、26日(旧暦)に行われていましたが、養蚕が盛んになるにつれて、9月17日の神嘗祭(かんなめさい)に行うようになったようです。
明治5年(1872年)の太陽暦改暦で、伊勢神宮と宮中が新暦9月17日に神嘗祭を実施するようになると、それに合わせて新暦9月17日に行ったようで、 明治8年(1875年)に明治政府が布告した「神社祭式」に従って明治10年(1877年)に県へ提出した祭日届には、例祭は9月17日となっています。 このときの年間の祭日は例祭も含めて9日でした。
ところが新暦の9月17日では新穀がまだ収穫できず、神前に奉納できないため、明治12年(1879年)以降は月遅れの新暦10月17日に神嘗祭が行われるようになりました。 大正3年(1914年)1月に政府が布告した「神社祭祀令」に従って、同年4月に郡役所に提出した祭典届によると、例祭は10月17日になっています。 古老の話によると例祭が10月17日に行われるようになったのは明治35年からと伝えられています。
祭典名 | 明治10年 | 大正3年 | 現在 | 備考 |
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歳旦祭 | 1月1日 | 1月1日 | 1月1日(元旦祭) | 祝日・中祭 |
元始祭 | 1月3日 | 1月3日 | − | 祝日・中祭 |
紀元節祭 | − | 2月11日 | 2月11日(建国祭) | 祝日・中祭 |
祈念祭 | 2月4日 | 4月27日 | 4月27日 | 大祭 |
大祓 | 6月30日 | 6月30日 | − | 小祭 |
風鎮祭 | 8月20日 | 8月21日 | 8月21日 | 小祭 |
御射山祭 | 8月27日 | 8月21日 | − | 小祭 |
天長節祭 | − | 8月31日 | − | 祝日・中祭 |
例祭 | 9月17日 | 10月17日 | 10月第3日曜 | 大祭 |
新嘗祭 | 11月23日 | 11月27日 | 11月27日(感謝祭) | 祝日・大祭 |
大祓 | 12月30日 | 12月30日 | 12月30日 | 小祭 |
平成21年10月17日の宵祭では、午後2時から社務所で行われた抽選の結果に従って、南大門からは千本松区が先頭で杉並木を進んで行きました。
江戸時代には灯籠揃いで境内に入場する順番が決められていました。
鳥居をくぐって杉並木の参道を通り、神楽殿の南から入場する南側は、久保組の先灯籠の後に堀之内組、水沢・中善組の先灯籠と続き、小灯籠が同じ順番で進みます。千本松組は堀之内組と合同でした。
神楽殿の北側からは、荒井原組の先灯籠、下赤和組、上赤和組、紫組、二ツ石組と続き、その後から各組の小灯籠が入場します。
文化8年(1811年)の灯籠揃いで下赤和組の灯籠の出し方について荒井原組、紫組、二ツ石組ともつれ合いになったことから、新たに順番を決め、1番が荒井原組、2番が下赤和組、3番目は紫組と二ツ石組、上赤和組が1年交代で順番を変えることになりました。二ツ石組は紫組と合同することになり、紫組と上赤和組が1年交代になりました。
文化13年(1816年)7月26日夜の灯籠揃いでは、久保、堀之内、水沢、中善、千本松の南5組と、上赤和、下赤和、荒井原、紫、二ツ石の北5組が「先例の祝儀挨拶」で激しく対立し、一方が途中で引き上げてしまい、翌日、出役人と村役人が取り成したということがあったようです。
文政7年(1824年)には「灯籠揃いのとき、久保組、堀之内組、水沢・中善両組は、鳥居前で待ち合わせる。そこから久保組が先頭に立ち、順々に庭へ入り、所定の場所に灯籠をささげるとこ」と決められました。
文政11年(1827年)7月26日夜の入場の順番を忘れて騒ぎが起こり、くじ引きで順番を決め紫組が先と決まりました。 ところが祭礼が終わってから前年も紫組が先だったことが判明したため、翌年と翌々年は上赤和が先に入場し、以降また1年交代になったそうです。
明治13年(1880年)9月5日に「献備物順序につき八組の約定なる」とあり、献灯神楽の順番が抽選で行われることに決まったようです。
灯籠揃いに奉納される灯籠の種類、飾り、数、竿の長さなどは各組が競い合ったり規制し合ったりして徐々に形態が決まってきました。
文政3年(1820年)に下赤和組は「組内銘々の灯籠を横竿につけ、一緒にして」奉納しました。 組内銘々の灯籠とは小灯籠のことで、翌年からは小灯籠を立竿につけて奉納するように北五組で取り決められました。
各組が先灯籠の本数や竿の長さ、小灯籠の大きさなどを競うようになったことが領主役人の目に止まり、文政8年(1825年)に御出役人から村役人に注意があったことから先灯籠に付いての規制がされました。
組 | 竿の長さ | 備考 |
久保組 | 3間1尺 | |
堀之内組 | 3間 | 千本松組と合同のときは3間1尺 |
水沢・中善組 | 3間1尺 | 両組で1本 |
荒井原組 | 3間1尺 | |
上赤和組 | 3間 | |
下赤和組 | 3間 | |
紫組 | 3間 | 二ツ石組と合同のときは3間1尺 |
但し書き
・大灯籠は二重無用、一つに限る
・涌綱は使わない
・笠鉾・天幕は絹に限る
文政10年(1827年)に荒井原組が「もってのほか尺長」の竿の灯籠を出した上に、笠鉾付きの灯籠を10本も出したことが問題となり、翌文政11年(1828年)に小灯籠の大きさと竿の長さの取り決めがなされました。
・軒別小灯籠の大きさは長さ3尺、横1尺4寸とする。ただし、それより少ない分は苦しからず
・竿は2間半に定める。これも少し短いのは苦しからず
・笠鉾・作花などは小灯籠につけてはいけない
江戸時代には境内には桟敷が設けられ、村の有力者、支配役人、村内の寺、神官、祭礼の主催者などが座って奉納される出し物を見物しました。
灯籠揃いと獅子神楽のほかに、神楽囃子、屋台、狂言、三番叟、踊りなどが奉納されました。
俳人・小林一茶が文化6年(1809年)7月27日に長沼村の弟子松井松宇を連れて狂言を見物に来たと記録されています。
明治初期には8組の中で当番を決め、素人芝居で「義経千本桜」等を奉納したそうです。
古老の話では、観衆の場内整理を堀之内組の常右衛門氏が担当したとのことです。
また、久保組の勝山善助氏は女役の名人で、これを記念する為、長女に役者に因んだ名前ということで初菊と名付けたという話もあります。
昭和10年頃までは、戸隠から楽人を招き、天照大神が天の岩戸にお隠れになり、天宇受売命の舞や手力男命の活躍する場面などが演じられました。
昭和20年代には、獅子舞の終了後、仕掛け花火や青年団による演芸会や映画の上映が深夜から明け方まで行われていました。
堀之内区では「白波五人男」を毎年演じたと言われています。
また翌17日に神事が行われた後に、余興として河藤流の踊りが演じられたり、神主が面をつけて舞う太々神楽も行われていました。
しかし昭和50年代以降、祭の担い手の多くが勤め人になるに連れて、これらの出し物は姿を消して行きました。
拝殿の前に立てられた「高札灯籠」は、祭礼の変遷を静かに見守っています。
最終更新日 2015年10月27日
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