農耕が始まって以来、厳しい農作業に従事してきた農山村の人びとは、地域の中でともに支え合って生きてきました。
農作業の省力と効率向上に必要な農機具なども、高額で個人では購入できなかったり、使用頻度が少ないため個人個人で保有すると無駄の多いものは、親戚や親しい仲間同士で共有したり、地域で設立した組合が導入したものを利用してきました。
←味噌釜とつぶし機(『分館報久保』より)
二宮尊徳(天明7年、1787年〜安政3年、1856年)が説き広めた『報徳思想』を規範として明治41年に設立された「久保報徳会」は、農機具の共同利用などで農民の困窮を救い、農業の発展に寄与してきましたが、経済が豊かになり農業の機械化が進んだ平成5年当時も会員23名がおり、会の資産である味噌釜の管理をしていました。
←尊徳像(大日本報徳社資料より)
にのみや‐そんとく【二宮尊徳】:
江戸末期の篤農家。通称、金次郎。名は尊徳(たかのり)。相模の人。 徹底した実践主義で、神・儒・仏の思想をとった報徳教を創め、自ら陰徳・積善・節倹を力行し、殖産の事を説いた。605ヵ町村を復興。(1787〜1856) 広辞苑
報徳の思想を形成する四つの柱は、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」という言葉であわらされています。
【報徳思想】:破綻した農村を救済すべく全精力を傾け、その行動から培った知恵を二宮尊徳が体系的思想として唱えた。
幕末から明治に至る日本の近代化黎明期、二宮尊徳の唱えた報徳思想の普及を目指し、道徳と経済の調和・実践を説き、困窮にあえぐ農民の救済を目指した報徳運堂が全国に広まりました。 大日本報徳社案内(掛川市)より
設立に至る経緯が記録されています。
「明治41年(1908年)2月15日、高井小学校長・清水菊太郎先生と訓導の海野平内先生を聘し、当区事務所に於いて報徳講話会を開催す。聴講者約百人あり。」
「同年4月3日午後結社式を挙行し名称を高井徳社とす。
初代社長・西澤榮吉
費用は入会山へ薪の伐採に行き調達する。出勤出来ない者は金30銭を出金すること。
其の他、材木の運搬等を請負い資金を作り、報徳金として高杜銀行へ定期預金をした。」
結社の趣意書によれば、
「二宮先生を信じその徳を慕うにあり、次いで其の遺訓を遵法して徳を積むべし。」
とあり、社員へは申し込みにより貸し付けも行われました。
大正11年(1922年)4月3日に「久保農事小組合」と改名しています。
村農会の監督指導を受けて事業を行い、農機具を購入し、共同利用をして農業の発展をはかることを目的としていました。
昭和11年(1936年)3月9日に全区一致で設立された農家組合に事務が引き継がれ、「久保農事小組合」は「久保報徳会」と改称しました。
勝山実「久保報徳会について」より
耕作地の大部分が畑地で水田の少なかった久保地区では大豆と小麦などが主な作物でした。
収穫した大豆は「報徳会」の味噌釜とつぶし機を利用して自家用の味噌に加工されました。
あらかじめ米で糀(こうじ)を作っておきます。
大豆を洗い、水に漬けて一晩ほとばしておきます。
←味噌煮
水を含んでふくらんだ豆を、味噌釜で煮ます。
指でつぶれる位に柔らかく煮えたら豆を取り出し、つぶし機で一気につぶします。
つぶれた豆を”半切(大きな浅い桶)”に受け、冷めないうちに円柱状の味噌玉を作ります。(味噌玉の直径と高さは20センチ位)
茣蓙(ござ)の上に味噌玉を並べ、乾かないように菰(こも)で覆をしておきます。
2〜3日たつと味噌玉の表面にカビが出てくるので、半切の中で味噌玉を壊し、塩と米糀を加えてかき混ぜ、味噌樽に詰めます。
2年寝かせて熟成した味噌を2年味噌、3年寝かせたものを3年味噌と呼びます。
毎年8月の第1土曜日に高山村役場の駐車場で「信州高山まつり」が開催され、大釜で煮た”ひんのべ”が参加者に無料サービスされます。
初期には「報徳会」の味噌釜が”ひんのべ”煮込み用に貸し出され、その貸料が会の貴重な収入になっていました。
近年、自宅で味噌を仕込むお宅が減り、「報徳会」の味噌釜の出番はめっきり減っています。
また、麦や大豆畑だった畑の大部分がリンゴ、ブドウ、オウトウ、スモモなどの果樹に変わりました。
←スピードスプレヤーの入魂式
久保区内にはこうした果樹消毒用のスピードスプレヤーを共同で利用する組合が2つあり、週末の早朝には、2台のスピードスプレヤーがあちこちの畑の中を走り回っています。
←ブドウの消毒
最終更新日 2015年10月27日
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