久保区民がおおぜい集まっているところで「勝山さ〜ん」と呼ぶとほとんどの人が「は〜い」と手を上げる、といわれるほど「勝山姓」のお宅がたくさんあります。
最近は団地ができて余所から移転してこられたお宅あり、以前ほどの割合ではなくなりましたが、それでも60余戸の約半数が勝山さんです。
また高山村内や須坂市にお住まいの勝山さんも、もともとは久保地区のご出身だという方が何人もいらっしゃいます。
そこで土蔵や墓石に刻まれた家紋から勝山さんの系統を辿るとともに、勝山寛さんが『会報たかやま』に寄稿された「勝山」姓にまつわる解説を紹介します。
↑明治初期の久保の地図(クリックすると拡大表示します)
長野県立歴史館蔵【高井村図】部分; 掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
水越地籍に2軒並んでいる勝山家は古い時代に本家と分家に分かれたとされています。
勝山与作家の墓誌には高井村収入役などを務めた勝山与作氏の辞世の歌が刻まれています。
御仏の招きに応じ吾は逝く 健固で暮せみんな揃って
蓮ひらく音を頼りにぼつぼつと 弥陀の浄土を探し求めて
肌寒し冥土の旅は道遠く 友をも連れず一人寂しく
限りある人の命ぞ大切に 力に応じむりをせぬよう
勝山家の墓石には【蔦】が刻まれています。
明治初期に制作された高井村地図には水越地籍に3軒の家が描かれており、そのうちの1軒で須坂市に移住した勝山氏も同族の可能性があります。
火の見櫓の立っている交差点の角にある勝山家は昔から「辻の家」と呼ばれてきました。
須坂市立東中学校長(昭和38年〜)、同墨坂中学校長(昭和40年〜)、高山村公民館長をなど歴任された勝山袈裟次氏は「辻の家の先生」と呼ばれていました。
←勝山袈裟治氏
↑勝山袈裟次氏の作品「南志賀の秋」(クリックで拡大)
勝山袈裟次氏は新構造社準会員としても活躍され、大きな油絵が村内に何枚も残されています。
勝山袈裟次家の墓石には【違い柏】の紋が刻まれています。
久保公会堂を過ぎ、右折して久保川を渡ってすぐ左側に石碑が立っています。
これは宝生流謡曲の師範を務めた勝山旭宝(直二)氏の弟子によって立てられたものです。
勝山直二家の墓石にも【違い柏】の紋が刻まれています。
勝山竜雄家の屋敷には明治44年(1911年)に三峯講の信者によって建てられた「久保三峯神社」の社殿があります。
←久保三峯神社社殿
勝山竜雄家の墓石には【木瓜】の紋が刻まれています。
←「勝山氏」の墓地
高杜神社から勝山の中腹を通る昔の道を辿って東に進むと、台石に「勝山氏」と刻まれた墓石のある墓所に至ります。
←【違い鷹の羽】
苔むした台石には【違い鷹の羽】の紋が刻まれています。
←「高等官の屋敷」の門と土蔵
久保の集落に入ってしばらく進むと、道路の左側に石垣の上に聳える土蔵と立派な門が目に入ります。
←【違い鷹の羽】
白壁の土蔵には【違い鷹の羽】が描かれています。
ここは「高等官の屋敷」と呼ばれ、明治初期に高井村村長を務めた勝山宇三郎氏と、子息・信司氏が所有していた屋敷跡です。
←勝山宇三郎氏(1851年〜1914年)
明治5年(1872年)に久保組の勝山宇三郎氏が弱冠20歳で高井野村名主に選任されました。
明治3年(1870年)12月に勃発した「中野騒動」の首魁者として高井野村名主・内山織右衛門をはじめとする村役人が逮捕されたことから仮名主として荒井原の越伝左衛門氏が選任され、翌年7月に越伝左衛門氏が辞職したため、高井野村名主の総選挙が行われて当選したものです。
8月1日に名主の引継が行われ、10月24日に長野県庁より高井野村名主として補任されています。
宇三郎氏は明治12年にも村長を務めています。
宇三郎氏が書き留めた「村沿革材料蒐集記」は明治初期の様子が記録された貴重な資料です。
←勝山宇三郎家の墓地
勝山の中腹にある勝山宇三郎家の墓地には多数の墓石が並び、古い家系であることが分かります。
近年立てられた墓石の台石には【違い鷹の羽】の紋が彫られています。
勝山宇三郎家は信司氏が跡を継いだ後、信司氏の子息・信一氏は東北帝国大学医学部に進んで学位を取得し、茨城県で医師を務め、生家に戻ることなく亡くなりました。
そのため勝山家の住宅は土蔵と門を残して昭和40年代に取り壊され、屋敷跡は現在ゲートボール場として利用されています。
平成24年7月、横浜市にお住まいの勝山信一氏のご遺族が屋敷跡の土地と土蔵を高山村に寄贈され、村内に残る勝山宇三郎家の財産は山林などわずかとなりました。
←勝山栄三郎家
高杜神社本殿をはじめ、上高井地方一円に数多くの神社仏閣と彫刻を残した高井の名工・三代目亀原和太四郎嘉博氏は、久保組の勝山重左衛門氏の末子・市蔵として生まれました。
母親は初代・亀原和太四郎嘉重氏の娘で、二代目・武平太嘉貞氏の実妹にあたります。
勝山重左衛門氏が亡くなったため、母親は重左衛門氏の位牌と子供二人を連れて上赤和の実家に戻り、市蔵氏は武平太氏の養子に迎えられ悦蔵と改名しています。
久保組の勝山家は悦蔵氏の兄の栄三郎氏が跡を継ぎました。
勝山栄三郎家の一蓮塔の側面には「六代目勝山栄三郎」と刻まれています。
苔の下に【違い鷹の羽】が見えています。
←算子塚
「高等官の屋敷」の奥の畑の隅に「算子塚」と刻まれている石碑が建っています。
これは高井野村久保組が生んだ和算家・勝山弥兵衛義政氏が没した翌年の嘉永6年(1853年)に、義政氏の徳を慕うに門弟によって、久保組入口の熊野神社境内に建立された頌徳碑です。
義政氏の孫・清八氏の代に2回の火災に遭って義政氏の作品や書籍などの遺品の大部分が焼失してしまい、日記などがわずかに勝山宇三郎家に伝わっているだけでした。
←高杜神社拝殿
勝山氏の総本家が諏訪明神を勧請したと伝えられる高杜神社の神紋が【立梶の葉】です。
高杜神社の敷地に隣接する勝山安三郎家は高杜神社と古くから関わりがあったと伝えられています。
高杜神社の杉並木と村道が交差点の右上側に立派な石碑が立っています。
宝生流教授
勝山袈作翁寿碑
能楽宝生流の教授を務めた勝山袈作(かつやまけさく)氏の徳を称え、氏の教えを受けた弟子らによって建立されたものです。
共同墓地には勝山安三郎家の古い墓石が並んでいます。
台石には高杜神社から授けられたという【立梶の葉】が刻まれています。
勝山安三郎家の屋敷には「天神社」が屋敷神として祀られ、高杜神社の祭神である多加毛利神(たかもりのかみ)との関連もあると考えられます。
←天神社
←高杜神社元旦祭
高杜神社の専任神主を務める勝山神官家は明治の中頃まで久保地区に居住し、古くから高杜神社を支配していたと伝えられています。
「勝山家は太古から高杜神社神官で、諏訪祝(ほうり)に随従していたが、元和8年(1622年)勝山忠吉の代から吉田家の門人になった」 明治8年、1875年長野県への報告より
旧家「勝山家」
高杜神の後裔、高井縣主大神廣前の末葉なりと伝う、代々高杜神社神官たり。
『上高井歴史』より
勝山の中腹に、昭和時代に設けられた立派な石碑の建ち並ぶ勝山神官家の墓所があります。
ご子息に伺うと、当時の当主・勝山忠虎氏が「これまでの場所は杉林の中で日当たりが悪いから、日当たりのいい場所にする」といって現在の場所を選定されたのだそうです。
台石には【立梶の葉】の紋が彫られています。
←勝山中腹の墓地
高杜神社の大鳥居脇にある勝山家の家紋が【立葵】です。
明治時代にこのお宅は地区の中程にありましたが、明治43年(1910年)から翌年にかけて火災が頻発したため現在の場所に移転したと伝えられています。
村内で勝山姓といえば、久保と思われる位、久保区には勝山性が多いが、私が知るところでは、日本代表姓氏によれば1032番にはいり、長野県下では318番で344戸、高山村では、6番位で約50戸位と思います。
さて、久保区内の勝山は、大別して3家系から成っております。 現在私達個人の血縁関係などは、ほとんどわからない程昔よりの姓名ですが、小山、丸山、山岸、勝山、山田というように長野県下には山姓と沢姓が多いのです。 久保区内の裏の山が勝山という地名である所から非常に関係があると思います。
そして高杜神社との関係も、勝山の姓には深く係っている思いがいたします。 地名で大宮北、大宮南、裏には勝山(山名)、鷹放があり、これが神社と深く係わりがあると思います。 その中で久保の勝山性は大宮南の内に一族として住んでいたのだと思います。 そして地名と姓名が同じである所に住むというのは非常にめずらしいといいますが、各地にあることはあるのですが、なにか不思議な気がします。
信州の人の考察ということで苗字のない頃は日本中央部の海抜の高い信濃国、いわゆる、信州といわれる現在の長野県に居住する人々をあえて信州人と狭義的に考える場合ですが、 遠い昔、人類が地球上のあるところで発生し、そして繁栄し、その生活する場所が世界の陸に広がっていきました。 いつの頃からかこの日本にそしてこの信州にも人間が住みました。 最初海岸沿いに、次に河川に沿って上陸へとさかのぼり、この信州の山の中に入って来たものと思われます。 この信州は川魚獣木の実類などが多く、生きていく糧がたくさんあったことでしょう。 第一に外敵に襲われる心配がなく生命と安全とが保たれ、食糧が豊富な事などいろいろの条件が揃っていて、この地勢はすこぶる険峻で四季の気候の差のはげしいところでありながら、有史以前から人が住みついていたのです。 大宮遺跡(南か北)とまではいかないが遺の跡らしいのもその一つでしょう。
先住者も後住者も共々必要に応じ、あろ時は結び、ある時は争いながらも、歴史上に見ることのできない長い歴史を綴ってきたものと思います。
そこには、自分の土地の豊かさや戦いの勝ちなのりや、優しさ等を含めた中での勝山姓に連ねて考えられると思う次第です。
勝山寛「苗字、勝山について」より
6種類の勝山家の家紋の由来です。
【蔦】 |
日本の十大家紋の一つです。 八代将軍・徳川吉宗や大名の藤堂氏、旗本の松平諸家などが用いています。松平氏は同族の徳川氏をはばかって、葵から蔦に紋替えしたといわれています。 石川・新潟・富山などの日本海側に多く見られるそうです。 当村の勝山氏に用いられた経緯は不明です。 |
【違い柏】 |
柏紋は日本の十大家紋の一つです。古代には柏の葉にご馳走を盛って神に捧げていたことに由来して柏が「神聖な木」と見られるようになりました。 神事の際に使われた事から神官の紋に使用されるようになり、全国の神社を支配する京都・吉田家の家紋は抱き柏です。 信濃下水内郡豊井村(現・中野市)発祥の勝山氏が違い柏紋を用いており、当村から距離的に近いことから姻戚関係があると推定されます。 |
【木瓜(もっこう)】 |
日本の五大紋の一つで、瓜を輪切りにしたその断面や鳥の巣を図案化したものといわれ、子孫繁栄を祈る家紋です。 神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様だから「もっこう」と呼ぶようになったといわれています。 戦国時代の越前朝倉氏、尾張の織田氏などが用いています。 下野芳賀郡勝山邑(栃木県芳賀郡)発祥の勝山氏も用いていますが、当村の勝山氏との関連は不明です。 |
【違い鷹の羽】 |
鷹の羽は日本の五大紋の一つで、古来、武人の象徴とされてきました。 元日の節会や御即位の式などには、左右近衛の両陣に鷹の羽を掲げたといわれ、中国においては、武人は冠に鷹の羽をさす慣わしがあったともされています。 鷹は俊敏で、数いる鳥のなかでも群を抜いて誇りに満ちた姿であることから、武士の間で尊ばれました。 安芸広島藩の浅野家が用い、肥後国の阿蘇神社の神官である阿蘇氏も鷹の羽紋を用いていました。 安房平群郡勝山邑(千葉県安房郡)発祥の勝山氏が鷹の羽紋を用いています。 美作勝山藩(岡山県真庭市)の妙円寺の瓦には鷹羽紋が見られます。 |
【立梶の葉】 |
梶の木は神聖な木とされて神社の境内に植えられ、神事に用いられたり供え物の敷物に使われたりしていました。
それが神社の紋となり、神官はもとよりその神社に奉仕する家々が家紋として使用するようになりました。 神紋としては信州の諏訪神社の「諏訪梶」が有名で、上社が四本足で、下社が五本足です。 |
【立葵】 |
葵紋は京都・賀茂神社の神紋で、賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきました。 徳川幕府の譜代大名・本多氏は祖先が京都・加茂社の神官であったと伝えられ、【本多立葵】と呼ばれる丸に立葵の紋を使っています。 信州善光寺の寺紋は【右離れ立葵】で、難波から如来像を背負って信濃国に運んだ本田善光に因むといわれています。 加賀前田藩の勝山氏が【丸に立葵】の家紋を用いています。 |
五大紋(ごだいもん):
日本の家紋のうち、一般的に特に多く分布する藤、桐、鷹の羽、木瓜、片喰の5つの紋のことを指す。
十大紋:
蔦、茗荷、沢瀉、柏、橘などを加える。
Wikipediaより
最終更新日 2018年 5月11日
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