現在、高杜神社の神官は須坂市の勝山神官さんが務めておられますが、久保地区には神官さんにまつわる話がいくつか伝えられています。
昔の高杜神社の神主の先祖は、上州からやって来た祭文(さいもん)語りの子供が賢さを見込まれて大鳥居の傍らの勝山氏の手で育てられ、神主になったと伝えられています。
←鳥居と勝山家
←杉並木と勝山家
高杜神社参道入口の鳥居の隣にある勝山常太郎氏の屋敷には立派な石塔と、いくつかの自然石が並んでいます。
←石塔と石
石塔の正面には「先祖精霊碑」、両側面には戒名、後面には「文化二年 施主勝山勘七」と刻まれており、今から200年前の1805年に立てられています。
石塔の笠には「立ち梶の葉」の家紋と「右万字」が彫られており、昔の高杜神社の神主の家の墓と伝えられています。
←笠の紋
←高杜神社本殿
高杜神社の神紋は「立梶の葉」です。
古来「梶の葉」は諏訪明神の神紋とされ、諏訪社系統の神社及び関係者や信濃・甲斐地方の武家が用いており、諏訪明神を勧請したと伝えられる勝山氏の総本家も「梶の葉」紋を使用しています。
群馬県内にある富士塚には「右万字」の彫られた石碑が各所にあることから、右万字紋は富士浅間信仰と関連があるようです。
伝承の神主の先祖は上州からきた修験者だったと伝えられることから、上州の富士浅間信仰の影響も推定されますが詳細は不明です。
平安時代後期、日本古来の山岳信仰と仏教などが融合した神仏習合の「修験道」が発達しました。
各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入って厳しい修行を行うことにより超自然的な能力「験力」を得、衆生の救済を目指す実践的な宗教です。
この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから「修験者」、または山に伏して修行し、諸国行脚の際も山野に臥すことから「山伏」と呼ぶようになりました。
修験者は修行の実践の場として里に下り、自己の研鑚を開示して帰依する信者を獲得し、檀家として加治祈祷を行いました。
また、里に下りたまま、神社の神官になった例も多くあるようです。
中世になって山伏が修行や勧進のために諸国行脚をする際、地方の民家に宿を借り、依頼によって加持祈祷を行なう時の願文に祭文を用いたことから、彼らの読み上げる祭文を「山伏祭文」と呼びました。
さらに、山伏が加持祈祷の後の直会(なおらい)の余興で身に付ける錫杖や法螺貝などを伴奏として用い、世俗的な内容を祭文形式にして語ったところ、娯楽性の乏しい山間部や農村部の民衆に喜ばれたことから、これを「山伏祭文」とか「もじり祭文」と呼び、山伏を「祭文語り」と呼ぶようになったといわれています。
しゅげん‐どう【修験道】:
役小角(えんのおづの)を祖と仰ぐ日本仏教の一派。 日本古来の山岳信仰に基づくもので、もともと山中の修行による呪力の獲得を目的としたが、後世の教義では、自然との一体化による即身成仏を重視する。 中世に天台系の本山派と真言系の当山派が確立した。
さんがく‐しんこう【山岳信仰】:
山に超自然的な威力を認め、あるいは霊的存在とみなす信仰。 日本では古来の土俗信仰としてあったものが民間信仰として生き続け、また、のちに仏教とも習合して修験道などを生んだ。
さい‐もん【祭文】:
1)祭祀の際、神前で奏する中国風の祝詞。告祭文。さいぶん。
2)歌祭文(うたさいもん)のこと。
3)祭文読(さいもんよみ)の略。
さいもん‐かたり【祭文語り】:
祭文読に同じ。
さいもん‐よみ【祭文読】:
歌祭文を語って銭を乞う遊芸人。さいもんかたり。
うた‐ざいもん【歌祭文】:
江戸時代に行われた俗謡化した祭文の一種。山伏が錫杖(しゃくじょう)を振り法螺貝(ほらがい)を吹きながら唱えたが、後には心中など世俗の出来事を取り上げた。祭文節。でろれん祭文。
【広辞苑】
中世、上州と信州をつなぐ主要な道で、善光寺詣りの経路でもあった「毛無道」の上州側の起点である嬬恋村門貝(かどかい)には、鎌倉時代ごろから熊野神社が祀られていました。
熊野神社は山岳に籠って修業することを目的とする修験道の霊場で、その信仰は熊野御師(山伏)とされる人たちによって各地に広められました。
久保組の鎮守社は、明治41年(1908年)に高杜神社に合祀されるまでは熊野坐神社(くまのにますじんじゃ、熊野本宮大社の別称)が祀られていたことから、
上州門貝の熊野神社を拠点にしていた熊野御師が、毛無峠を越えて高井野に布教にきた影響があると想定され、祭文語りの伝承との関連も伺われます。
高杜神社の専任神主を務める勝山神官家は明治の中頃まで久保地区に居住し、古くから高杜神社を支配していたと伝えられています。
←高杜神社元旦祭
高杜神の後裔、高井縣主大神廣前の末葉なりと伝う、代々高杜神社神官たり。
勝山家は太古から高杜神社神官で、諏訪祝(ほうり)に随従していたが、元和8年(1622年)勝山忠吉の代から吉田家の門人になった
【吉田家の裁許】
江戸時代、地方の社家は神主として所管の神社の祭祀を行う際、京都の神社伝奏家である吉田家から神道裁許状をうけ、それによって初めて正式な社家として神務を執行することができた。 吉田家は社家に神道裁許状の下附のみならず、官職名、位階等についても執奏の上、下附した。
神道裁可状は跡目相続(家督相続)の際、次代神主がまず燭頭社家へ神道裁可の下附願いを行い、燭頭社家は寺社奉行の認可を得たのち、神社伝奏家である吉田家へ申請、その後、下附と言う複雑な手続きを踏まねばならなかった。
さらに、その手続の終了後いよいよ上京することになるわけであるが、道中往復の運行保証書の入手、路銀の準備はもとより、上京中に一定期間の修行を行い、一定の礼金を吉田家へ納入しなければならなかった。 吉田家への礼金は、社家みずからその費用が賄えない場合は氏子の村落が負担した。 それ故、村落の経済が充分でない近世前期には、地方の社家による神道裁可状の受領はきわめて困難で、こうした苦難と費用をかけて吉田家からの裁許状を得ることによって、はじめて神職としての身分が保証され、地域における神事を行いえたのである。
「吉田家の神道裁許の社家について」より
代 | 名前 | 官職名 | 裁許状取得年 |
初代 | 勝山忠吉 | 若狭守 | 元和8年(1622年) |
二代 | 勝山忠重 | 因幡守 | 寛永18年(1641年) |
三代 | 勝山忠次 | 伯耆守 | 明暦2年(1656年) |
四代 | 勝山忠正 | 若狭守 | 元禄15年(1702年) |
五代 | 勝山忠行 | 伯耆守 | 享保19年(1734年) |
六代 | 勝山忠勝 | 紀伊守 | 寛延3年(1750年) |
七代 | 勝山忠信 | 紀伊守 | 安永10年(1781年) |
八代 | 勝山忠明(明治6年没) | 紀伊守 | 文政7年(1824年) |
九代 | 勝山健雄 | 若狭守 | 安政4年(1857年) |
十代 | 勝山忠三(昭和29年没) | 宗教法人令による宮司 | 昭和21年(1946年) |
十一代 | 勝山忠虎(昭和43年没) | 宮司 | 昭和29年(1954年) |
勝山とく(平成25年没) | 宮司代務者 | 昭和44年(1969年) | |
十二代 | 勝山昭(令和元年没) | 平成25年 |
勝山神官家の墓地は2カ所あります。
↑高杜神社奥の墓地
中世には高杜神社境内の拝殿の南にあったものが、江戸時代になってから本殿奥の勝山神官家の所有地に移転したといわれています。
元禄以降の墓碑の間に、五輪塔と宝筐印塔が数基見られます。
←勝山中腹の墓地
昭和時代に勝山の中腹に新たな墓所が設けられました。
子孫の方に伺うと「従来の墓所は日陰だったので、日当たりの良い現在の場所に移した」との由。
台石には【丸に立梶の葉】の紋が彫られ、諏訪明神の系列であることを示しています。
勝山神官は高杜神社の専任神主であるとともにいくつかの神社の神主を兼帯していました。
近年は日曜日に例祭が行われることが多いため、多い日には5カ所も掛け持ちで神事を執行しています。
村 | 神社 | 記録 |
高井野村 | 高池明神(千本松)、八幡宮(堀之内)、山神社(荒井原)、神明社(紫)、八幡社(水沢)、天神社(堀之内・千本松)、権現社(久保) | 宝暦9年(1759年)の文書 |
奥山田村 | 諏訪大明神(宮村)、午窪温泉王大権現(山田温泉) | 安政3年(1856年)の文書 |
黒部村 | 大立大権現(黒部) | |
中条村 | 諏訪大明神(小布施町中条) |
明治12年(1879年)、長野県令によって須坂町の墨坂神社(芝宮)の神官に高杜神社の神官であった勝山氏が任命され、これ以来、勝山神官は墨坂神社と高杜神社の神官を兼任するようになったといわれています。
←芝宮墨坂神社
明治13年(1880年)、須坂藩旧家臣を中心として須坂藩初代藩主・堀直重と13代藩主・堀直虎を祀った神社が造営され、明治維新後、第14代藩主・堀直明が旧姓の奥田に改名したことから奥田神社と名付けられました。
勝山忠三氏、忠虎氏が宮司を務めました。
←奥田神社
文政7年(1824年)、高井野村の高杜神社と赤岩村の高杜神社が京都吉田家に式内社の社号の認定を出願し、いわゆる「社号争い」が勃発しました。
この争いは、翌年、赤岩村の高杜神社は裏山の高社山の「高社」を加えて「高社高杜神社」とすることで決着しましたが、
文政7年に勝山忠明氏が吉田家から神官裁許状と官職名を受領していることから、吉田家に多大な貢献をした見返りとして高井野村の高杜神社に社号が認定されたと見ることもできます。
明治12年ごろ、政府の命令によって各町村が作成して県に提出した『町村誌』の「高井村」には、編輯人・勝山健雄と記載されています。
同氏はまた神社における恒例祭・臨時祭及びその他の神事について記した『祭典略解』上下巻・別記を明治16年(1883年)に出版しています。
←高杜神社の勝山忠三宮司像
大正2年(1913年)に作成された『長野懸上高井郡史』の編輯人として勝山忠三氏(昭和29年没)の名が記され、同氏は大正4年(1915年)に『上高井歴史』『日本神佑史』を著すなど、勝山神官家は歴代、郷土史や神道史に造詣が深かったことが分かります。
しかし明治の中頃、勝山神官家が現在の勝山茂美氏宅の屋敷から須坂へ転出したとき、土蔵にあった古文書などは競りに掛けられて散逸し、久保区内には古い資料がわずかに残されているだけのようです。
※伝承の神主と勝山神官家との関係は不明です。
最終更新日 2020年 3月23日
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