久保の家
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井鴻山の大幟

井鴻山の大幟  明治12年(1879年)の秋、久保組は厚地の木綿織物五反を縫い合わせた長さ6間半(約11.8メートル)、幅5尺(約1.5メートル)の「五反幟」一対を作製して高杜神社の例大祭に掲揚奉納しました。
 これ以来130年以上に渡って、例大祭や御柱祭の都度、幟竿を鳥居の前に立て、大幟を掲揚することが区の主要行事の一つとして受け継がれてきました。

明治以前にこうした幟旗はなく、どのような経緯で大幟を作製したのか定かでありませんが、明治12年から伊勢神宮と宮中で10月17日に神嘗祭が行われるようになり、これに倣って10月17日に行う高杜神社の例大祭に合わせて製作・奉納したものと思われます。

←井鴻山揮毫の「五反幟」


大幟の作製

 『杜神社』の文字は小布施の井健(鴻山)(文化3年(1806年)〜明治16年(1883年))が揮毫しました。

作成時の様子は不明ですが、同じように幟旗を作製した余所の資料から推定すると、稲藁の”みご”を束ねて筆を作り、何日もかけて墨をすって準備したようです。

東側の幟旗  一対の幟旗は向かい合わせて掲揚します。
 東側(鳥居に向かって右側)に掲揚する旗には右上に朱色の関防印『延喜式内』が押され、中央に『杜神社』、下に『紀元二千五百三十九年巳卯十月』と記され、右端に27枚の”乳”が縫い付けてあります。

←東側の幟旗

西側の幟旗  西側(鳥居に向かって左側)に掲揚する旗は、中央に『杜神社』、下の右側に『井健書』、左側に2種の落款印が記され、左端に27枚の”乳”が縫い付けてあります。

←西側の幟旗

製作費

高杜神社幟制作経費取立帳 高杜神社幟制作経費取立帳
↑「高杜神社幟制作経費取立帳」
 総製作費は46円10銭で、その4割が戸数割、残りの6割は資産別で徴収されました。
 76戸の平均は60銭7厘で、最高額のお宅は2円48銭5厘となっています。

当時の1円が現在の2万円程度とすると、総制作費は約100万円かかったことになります。
 明治3年(1870年)の資料では久保組に極難渋窮民が12軒、54名も存在し、明治4年(1871年)には中野騒動で13名の殉難者と多数の徒刑者が出たにもかかわらず、8年後に多額の制作費を全戸から徴収できた経緯については伝えられていません。


複製

複製幟旗  作製してから100年以上経過して老朽化して破損しやすくなっていることと、貴重な文化財としての価値があることから、久保区では昭和58年(1983年)に複製を製作して掲揚するようになりました。

←複製幟旗の掲揚

幟旗の虫干し  原作は区の文化財として保管し、毎年、虫干しすることが久保区長の任務の一つになっています。

←公会堂の大広間で虫干し


幟立て

10月16日午前5時半、まだ南の空にオリオン座が見えているうちから久保区民各戸1名が高杜神社の鳥居前に集合して幟竿を立てます。

幟竿立て  普段は鳥居に上がる石段の両脇に敷いてある縞鋼板製カバーを取り除くと、地面に埋設した基礎の石が現れます。
 石には前後に二つの四角い穴が穿ってあり、穴に溜まっている雨水を空き缶などで掻い出してから、幟枠を組み立てます。 幅1尺6歩(32cm)、厚さ5寸6部(17cm)、長さ7尺2寸6歩(2.2m)、重さ27貫(約100kg)の欅の”控柱(ひかえばしら)”を奥の穴に、”添柱(そえばしら)”を手前の穴に落とし込んで建てます。
 昔の若者はこの”控柱”を一人で担いで運んできたという武勇伝が伝えられています。

ちなみに東京佃の住吉神社では3年に1度の大祭に立てる大幟の枠を「抱木(だき)」と呼び、普段は川底に埋めて保存し、本祭の際に掘り出して組み立てるそうです。

長さ10間(約18m)、根元の直径7寸(約21cm)の杉の幟竿を数名で担いで運び、幟旗を掲揚するときに幟竿と幟旗を連結するための”箍(たが)”を幟竿に通し、立てたときに”添柱”よりも高くなる位置で括り付けておきます。
 幟竿の根元を”控柱”と”添柱”の間に置き、鉄パイプ製の心棒を”添柱”、幟竿と”控柱”の穴に通して結合し、抜け防止のボルト・ナットを取り付けます。

幟旗が風を受けて自由に回転させるための”くるり”を組み立てます。 杉の丸太の中を刳り抜いて筒状にした”くるり”の四角い穴に、幟旗を水平に引き上げるための”簪(かんざし)”を差し込み、抜け止めの鼻栓を打ち込んで固定します。 ”くるり”の先端と”簪”の先端をロープで結んで幟旗の重量で”簪”が垂れないようにやや持ち上げ気味に支持し、”くるり”の先端に、神様が降臨するための杉の枝葉を括り付けます。

”くるり”を幟竿の先端に差し込み、幟旗を揚げる”揚げ綱”2本を”くるり”と”簪”の滑車に通し、両端を幟竿の下部で”箍”と一緒に縛り付けておきます。
 3方から幟竿を支持する”こうみょう”にするロープを”くるり”の下部で幟竿に二重に巻き付けてから、「ねじ結び」でしっかり縛りつけます。
 ”控柱”の四角い穴に、彫刻の施された枠の”象鼻”を片側だけ差し込み、込み栓で仮止めしておきます。

幟竿建て  準備ができたら区長の合図で西側(鳥居に向かって左側)の幟竿の先端を数名で担ぎ上げ、3本のロープを引っ張って引き起こします。 2本のロープが幟竿を引き起こす動力を伝える”引き綱”で、もう1本のロープは幟竿が立ち上がるとき左右に振れないように調整する”舵綱”の役割をさせ、安全に作業を遂行します。
 幟竿が立ち上がって”控石”と”象鼻”の間に入ったら、もう一つの”象鼻”を”控柱”に差し込み、”込み栓”を打ち込んで固定します。
 ロープを3方に引っ張って幟竿が鉛直になるように調整し、基礎の石の穴と”控柱”の隙間に楔を打ち込んでしっかりと一体化します。

幟竿立て  次に東側(鳥居に向かって右側)の幟竿を同じようにして立てます。

2本の幟竿が立ったら、一対の幟旗が向かい合って掲揚されるように”揚げ綱”とロープの位置を調整しながら幟竿を平行に立て、ロープを道路に埋め込んであるアンカーや桜の木、庭木、電柱に縛りつけます。
 このロープを”こうみょう”と呼び、道路を横断する”こうみょう”にバスなどが引っかからないように赤い布を垂らして注意の目印にしておきます。

幟旗の掲揚

幟旗の掲揚  奉納の日程に合わせ、空模様を見て幟旗を掲揚します。
 『杜神社』と書かれた一対の幟旗は、『紀元二千五百三十九年巳卯十月』と制作年号が記されたものを向かって右側に、『井健書』の署名のあるものを左側にして向かい合わせます。
 幟旗の上端の”乳”に竹竿を通し、弛まないように両端を縛り付け、”簪”から下がっている”揚げ綱”の先端を竹竿に括り付けます。
 幟旗の縦側の”乳”に通した綱を”箍”に二重に縛り付けながら”揚げ綱”を引っ張って掲揚し、”揚げ綱”は幟枠の”象鼻”に巻き付けておきます。

例大祭の日の午後2時から高杜神社の本殿で祭事が執り行われ、祭事が終了したら速やかに幟旗を降ろし、”箍”と”揚げ綱”をほどいて外します。
 雨が降ったり風が強いときも幟旗は掲揚せず、穏やかになるのを待ちます。

幟返し

幟転ばし  10月17日午後4時ごろ、幟竿を撤収します。
 はじめに東側(鳥居に向かって右側)の幟竿を倒し、次に西側(鳥居に向かって左側)を倒します。
 代理区長の合図で、先ず、倒す反対側に”引き綱”を引っ張って幟竿をやや傾け、幟枠の”象鼻”を固定している”込み栓”を半分だけ抜いてから、倒す側の”象鼻”だけを引き抜きます。
 ”引き綱”を少し緩めて”舵綱”を引っ張って倒す側に幟竿を引き起こし、”象鼻”を通過したら”舵綱”で方向を調整しながら2本の”引き綱”を緩めて幟竿を倒します。
 東側の幟竿を倒すときは、西側の幟竿に寄りかからせるように導きます。
 ”くるり”の”簪”が地面に触れる前に支えて破損を防ぎます。

幟竿の格納  ”控柱”と幟竿、”添柱”を連結している心棒を抜き、”くるり”を幟竿の先端から抜き、3本のロープを取り外してから、数名で幟竿を担いで格納庫まで運びます。
 ”控柱”を固定している楔を抜いて基礎の石の穴から引き上げ、軽トラックの荷台に積んで格納庫まで運びます。
 幟竿と”控柱”は杉並木の下の格納庫で次回の奉納まで安置し、幟旗と”添柱””くるり””箍”と込み栓、ロープ、楔、などは公会堂の物置で保管します。
 基礎の石の上にカバーを被せて作業終了です。


大幟の奉納

祈念祭(春の例大祭)

春の例大祭  4月27日に執り行われる高杜神社の春の例大祭に掲揚します。
 春は神楽の奉納がなく、幟旗の下を通って参道の杉並木を登る人はいませんが、例年『水中のしだれ桜』の見頃と重なり、多数の県内外からの車がこの前をひっきりなしに通過します。
 幟立てと幟返しの作業中は通行止めにし、田んぼの中の農道を迂回するように交通整理をしています。

御柱祭

御柱祭  寅(とら)と申(さる)の年に執り行われる高杜神社御柱祭に掲揚します。
 宝船の山車と記念撮影
 2004年4月29日

例大祭

秋の例大祭  10月16日と17日に執り行われる秋の例大祭には大幟と門灯籠を奉納します。
 2008年10月17日
花火  幟旗の間から打ち上げ花火が見えていました。
 2011年10月15日


幟竿の常設

幟竿が老朽化して幟返し作業中に破損したことや住民が高齢化して幟立て・幟返し作業が危険になってきたことと、道路の拡幅によって幟竿の位置が交通の妨げになっている等の理由から、幟竿を立てる位置を変えて恒久化することが久保区の永年の課題でした。
 このため平成26年(2014年)に幟竿建設研究委員会(会長・勝山茂美氏)が発足し、村内外の実態や神社本庁の規制、村の条例などを調査して具体案を策定し、その結果が区長に答申されました。

建設場所の決定

建設場所の選定  平成27年3月の定時総会で答申案について説明が行われ、それに基づいて秋祭までの竣工と具体的な進行は幟竿建設委員会(会長・勝山茂美氏)に一任することが承認されました。
 平成27年(2015年)4月25日、幟立て作業が終了後、建設委員が建設場所の選定を行いました。
建設場所の選定  建設場所は高杜神社の敷地内とし、神社本庁の指示に従って石垣は崩さず、幟旗を掲揚したときに既存の施設に接触しない場所を選定しました。

配置図  基本設計と費用見積を勝山昌宏委員に委嘱し、できあがった図面を元に委員会で検討した結果、石垣の両側で鳥居と平行な位置に建設することが決定しました。

←配置図

概要

立面図←立面図

名称 材質 主な仕様
幟竿 アルミポール 昭和電工アルミ販売 Gタイプ 埋込式
地上高 14,850
根元ポール φ200×t5.0×5,000(地上部) 擬木塗装
2重管外管  φ214×t4.5×2,000(地上部) 擬木塗装
中間ポール φ120×t3.0×5,000 擬木塗装
先端ポール φ90×4,000 擬木塗装
回転部   φ90×850 擬木塗装       
幟枠 控柱 御影石 埋込 330×250×1,980(地上部)
添柱 御影石 埋込 190×120×430(地上部)
象鼻 既存象鼻を一部改造

地鎮祭

地鎮祭  平成27年(2015年)6月12日、施工業者・株式会社北条組と区役員、建設委員が出席し、勝山神官によって工事の安全祈願と地鎮祭が執り行われました。

竣工

幟竿完成  平成27年(2015年)9月に常設工事が完成しました。
 幟竿は高山村景観条例に則って自然木の風合いを持たせた「擬木塗装」のアルミ製ポールを採用し、基礎に固定して自立させています。 メーカーの標準品に五反幟用はなく、特注仕様になりました。
幟竿と幟枠  従来の幟枠と同じように、幟竿を挟んで大小の御影石の角柱を埋め込み式で立てています。
 幟竿とは連結せず、負荷がかからない構造にしています。
象鼻  『昭和十年八月 大工 勝山助吉嘉矩』と彫られている幟枠の”象鼻”は、幟竿を両側で支える本来の用途は不要になりましたが、一部を加工し、幟旗を掲揚するときの装飾として取り付けます。

入魂式

入魂式  平成27年(2015年)9月23日、施工業者・株式会社北条組と区役員、建設委員が出席し、勝山神官によって入魂式が執り行われました。

新設された幟竿のお魂入れに続き、これまで幟竿と幟枠を支えた基礎の石のお魂抜きが行われました。

記念撮影

記念撮影  平成27年(2015年)10月17日の朝、常設工事が完成した幟竿に幟を掲揚し、7年前に完成した門灯籠に障子戸を立て付けてお祭りの準備を整えてから、鳥居の前で記念撮影をしました。

←竣工記念撮影

平成28年4月の御柱祭からは、区民総出の幟立て作業はなくなります。


井鴻山の幟旗

高井鴻山記念館によると、井鴻山が揮毫した幟旗は北信濃の各地で34対ほどあるそうです。
 同館「文書蔵」には下高井郡豊田村(現・中野市)永江神社に奉納された「七反幟」と使われた筆が展示されています。

依頼状  昭和61年(1986年)に小布施町が町史・『高井鴻山伝』を編纂し、その際、同町教育委員会から久保区長に久保区所有の幟旗の内容調査を依頼しています。

←小布施町教育委員会からの依頼状

出展の礼状  昭和62年(1987年)5月に小布施町で開催された「高井鴻山生誕百八十年記念特別展」に久保区所有の幟旗も出展され、当時の葦澤町長から礼状が送られてきました。

←小布施町長からの礼状


高杜神社北大門の幟旗

荒井原区の幟旗  高杜神社の北大門には荒井原区と赤和区が隔年で交代に幟旗を掲揚します。
 平成25年(2013年)までは高杜神社の例大祭の度に農道の交差点に幟竿を立てていましたが、道路の拡幅に伴い、平成26年(2014年)に場所を変えて幟竿が恒久化されました。
 荒井原区は明治13年(1880年)に井鴻山が揮毫した幟旗を揚げます。

←高杜神社北大門の幟


「福島天神社大幟(ふくじまてんじんしゃおおのぼり)」

福島天神社大幟  平成27年(2015年)10月24日に須坂市福島町で「福島の大幟」が掲揚されました。
 福島天神社に奉納する大幟は明治13年(1880年)2月25日に井鴻山(当時73歳)が揮毫し、長さ12間余(22.5m)、巾2間1尺2寸(4m)の「15反幟」で国内最大級といわれ、須坂市指定有形文化財に指定されており、現在は複製が掲揚されています。
福島天神社大幟  長さが20間余(36.5m)の杉の幟竿は2代目で、昭和13年(1938年)に高井村牧の黒岩吉郎治氏と黒岩龍作氏が奉納しました。
 初代の幟竿は高井村の宮前伊作氏が奉納し、長さが21間余(38m)ありました。

←「福島天神社大幟」

福島天神社大幟の幟枠  幟枠の彫刻は亀原和田四郎の弟子である長野市長沼の武田常造と長野市妻科の山崎義作の傑作と伝えられています。

←幟枠と彫刻

大幟は明治13年3月25日に初めて掲揚され、以後、明治時代に7回、大正時代に2回、昭和時代に4回掲揚され、平成5年(1993年)3月には上信越自動車道須坂長野東インター開通記念で掲揚されました。
 平成27年(2015年)10月の掲揚は通算15回目になります。

遺作

井鴻山は「福島天神社大幟」の完成祝いの宴席で中風に倒れ、これがもとで明治16年(1883年)に亡くなりました。
 鴻山は慶応2年(1866年)に幕府へ1万両の献金を約束し、先祖伝来の田畑を質入れして3千両を支払ったものの、大政奉還で借財だけが残ってしまい、井家は明治8年(1875年)に破産しています。 さらに明治11年(1878年)には居宅が大火に遭ったこともあり、幟の揮毫で生活費を賄ったのではないかと言われています。
 このため「福島天神社大幟」が最後の揮毫幟となりました。


水中八幡社の幟旗

井辰揮毫の大幟  高山村水中の八幡社では祭事の際に井鴻山の子・辰二が揮毫した幟旗を境内に常設した幟竿に掲揚しています。

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参考にさせていただいた資料

最終更新日 2023年 2月13日

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