久保の家
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狼煙(のろし)にまちがえられた話

火葬の場所を示す案内板  久保地区では明治の初めから昭和40年代まで、亡くなった人を火葬にせず、村の共同墓地に土葬していました。
 これは、明治3年12月に久保地区で行われた火葬の煙が一揆の合図の狼煙(のろし)にまちがえられ、これがきっかけで北信州最大の農民一揆「中野騒動」が発生し、久保地区から多数の殉難者を出したことから、それ以降、火葬をしなくなったのだそうです。


「中野騒動」

旧暦明治3年(1870年)12月19日に発生した北信州最大の世直し一揆で、もと天領の一揆であったことから徹底的に弾圧され、多大な犠牲を払ったにもかかわらずなんら益するところのない一大悲劇となりました。

背景

幕末から明治2年(1869年)まで全国的な凶作が続き、米価は上がる一方で、年貢金(石代金)も上がった。 明治3年の年貢金は2年前の2倍、3年前の3倍になっていた。
 日雇い・貧農・小作人などは窮乏生活を強いられ、高井野村の「窮民極難之者」(餓死寸前者)は203人、55軒という惨状であった。

多量の贋金が持ち込まれ、貨幣流通が大混乱していた。

旧幕府の天領だった中野県(東北信六郡にわたる旧天領の地域、県庁は中野町・現中野市)の指導で、 豪農・中農から出資金を集めて高利貸し商社が設立され、中野県内の豪農・中農層に貸し付けられた。 商社の役員(商社員)は県役人につながる特権的豪農が就任していた。

高井野村には「窮民極難之者」が多数おり、贋金による打撃を受けた者も多かった。

明治3年9月に中野県が発足し、高石大参事は増税策を次々と打ち出した。
 ・閏10月18日までに官員の給米(給料)にあてる「置米」納入を命じた。
 ・11月 貢租皆済期限の短縮。四分納2月皆済を三分納12月皆済とする。
 ・11月 当年の年貢石代を金1両あたり1斗7升1合8勺とすることを村に提示する。
 ・12月4日 助郷村(すけごうむら)を廃止し、宿々入費を全村一律に負担させる。
 ・12月8日 斗安(とやす)石代(貢租の三分の二を石代より安くする)廃止を決めた。

明治3年11月と12月に農民達は主に年貢の減免を求めて中野県庁に嘆願したが却下された。

松代藩(藩主は真田氏、現在の長野市松代)と須坂藩(藩主は須田氏、現在の須坂市)で相次いで一揆が起こり、 松代藩では焼き打ちによって農民の要求が通っていた。

こうした情報が伝わって、中野県でも一揆によって要求をかなえようという機運が高まっていた。

発端

火葬の場所  旧暦明治3年12月19日夕刻、久保組の宮前勇左衛門の葬式があって荼毘の煙が上がり、これを一揆の合図と間違え、村の入り口の千本松地区に続々と農民が集まった。
 これが引き金になって高井野村のほか、同じ中野天領の井上村、米持村、九反田村、栃倉村、亀倉村、米子村(現・須坂市)が一斉に蜂起した。
←火葬した場所

経過

中野県下南部の村々から押し出した一揆勢約2,000人は、現在の小布施町に集結して、 中野県への要求項目と、一揆の行動基準を確認した。

要求項目
 一 年貢石代(県指令 1斗7升1合8勺)は3斗とする
 一 斗安は例年通りとする
 一 安石代は例年の通り実施する
 一 宿々伝馬入用の勘定は止める
 一 商社出資金は残らず村へ割返す
 一 年貢上納皆済期日は2月15日とする

焼打ちの対象
 ・商社員12人
 ・旧幕府の郡中取締役
 ・小前百姓を苦しめる者
 ・上様を偽り勝手私欲に走った者
  これらの親類でも容赦はしない

行動基準
 ・他家へ類焼した場合は直ちに消し止め、恨みのない家をみだりに打ち壊したり、不法・乱暴行為をしてはならない
 ・願いの筋は頭取に従い、願いが聞き届けられたときはすぐに全員が村へ引き上げる
 ・酒食の強要や不法をしてはならない。そのような者がいたら仲間内で取り押さえ処置する

一揆の群集は三隊に分かれ、本隊は中野町に入り、制止に駆けつけた県の役人を惨殺し、目標の家に火をかけた。 さらに中野県庁を焼き払い、門番を打ち殺した。

このとき高石大参事は年貢金を下役人に持ち運ばせて裏門から脱出し、逃げのびて松代藩に保護された。

他の一隊は中野→山ノ内→木島平まで進んだ。 もう一隊は中野→柏原(現・信濃町)まで襲った。

高石大参事の後を追った一隊は、12月20日早朝、小布施で中央政府から出張してきていた篠塚弾正台に行き会い、名主と年寄役外3名が代表者となって交渉し、要求項目をほぼ認める証文を15通手に入れた。 この証文はそれぞれのブロックに分けられた。

一隊はさらに各地で焼き打ちをかけ、20日の夕刻から深夜になって中野町に戻ってきた。

被災

県庁だけでなく商社役員、富豪、豪商、女郎屋などが襲われた。
 焼失家屋486軒、被災者1926人、周辺の40か村110軒余が被災

結末

翌明治4年(1871年)1月8日に政府役人が中野に入り、9日から一揆参加者の召し取りが行われ、山中に逃げ込んだものもいたが、結局600余名が逮捕された。

篠塚弾正台の出した約定は反故にされ、約定証文は回収された。

1月30日付けで「嘆願を聞き入れる件は破棄し、これを承知せずに万一心得違いをするような者があれば、当人のみならず村役人まで厳罰に処するという申しつけを、村民一同恐れ入って承知しました」という内容の証文を中野県に提出した。

五箇地蔵 厳しい拷問による取り調べの結果、2月27日に処刑がおこなわれた。
・死刑:28人(斬首刑6人、絞首刑22人)
 (このうち久保組の処刑者:斬首刑3人、絞首刑10人)
・徒刑10年:124人(このうち久保組2人、不明2人)
・軽処刑者:数百人
←処刑場跡

明治政府は、直轄の中野県において発生した一揆を新政府に対する反権力破壊活動として徹底的に弾圧し、その矛先が高井野村、とりわけ一揆の発端とされた久保組に向けられた結果、久保組の重罪人15人のうち13人までが死刑という悲惨な結末となった。

このほか獄死したもの、釈放後、家にたどり着いて息絶えた者、数日後に死んだ者など多数おり、殉難者の正確な数はわからない。 釈放時に”毒むすび”を持たされ、それを食べて亡くなった者がいたという話が伝わっている。

千本松では鞍掛山に隠れて捜索を逃れた者がおり、水中では月生城に隠れた者がいて、女衆がこっそりと食事を運んで助けた、という話がある。

明治4年(1871年)6月、県庁が中野から善光寺町(長野村)に移され、中野県から長野県に改称された。

明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県が行われ、信濃の国はすべて長野県となった。


その後

殉難者の墓  殉難者の亡骸は家族の墓に入れてもらえず、人目につかない山中にひっそりと建てられたり、一族の墓地内でも別扱いにされていた。
←山中にぽつんと建てられている墓
 遺族は肩身を狭くして暮らし、高井野村に居られなくなって故郷を離れて行った人々もいた。 村内に残って暮らし続けた遺族と親戚も、世間の厳しい差別や偏見の中にあって、後世まで肩身の狭い思いをしいられてきた。

徒刑者は懲役刑として強制労働を課せられ飯綱高原の開拓地に送られ、原野の開拓に使役された。 しかし、中には刑期を残して収容所から脱獄し、隠密に帰郷して自宅の土蔵に身を潜め、村の人に気付かれないように暮らしていた者もいた、という話も伝わっている。

以来、高井野では「中野騒動」に関係する話は暗黙の禁句となっていた。 ことに教育関係者の間では触れてはいけない項目として継承され、村の教育長が小中学校長に「中野騒動のことは社会科でも教えてはならない」と命令してきた。

聖観世音菩薩 昭和54年(1979年)9月、一揆の後で県庁の仮庁舎がおかれた中野市の法運寺境内に聖観世音菩薩が建立された。
←聖観世音菩薩像
 その台座には次のように書かれている。

「・・・中野騒動は明治の政局不安の折、凶作水害相次ぎ、年貢相場乱騰し、偽札横行して世情不安をまねき、 農民を窮乏におとしいれたことから起こるべくして起こった農民一揆である。 ・・・思うに処刑者は勿論、騒動にかかわった県官・罹災者はひとしく時代の犠牲者である・・・」

「中野騒動」に先だって発生した「松代騒動(午札騒動とも)」において一人で責めを負って処刑された小平甚右衛門は、その後、郷土の生んだ義人、近代の扉を開いた人物として尊敬され、 昭和になってから立派な顕彰碑が建てられたという。

火葬場所跡地 一揆のきっかけとなった久保組の火葬場所跡地には、手作りの案内板と自然石の石塔が立てられているだけである。


明治3年当時の高井野村の極難渋窮民

軒数 人数 このうち病身等の者
千本松 3 10
堀之内
水沢 4 11 病身3人
中善 2 2
久保 12 54 病身7人
赤和 6 23 病身4人、盲目2人
新井原 15 59 病身7人
10 36 病身4人
二ツ石 3 8 病身1人
合計 55 203 28人

久保組の殉難者

名前 年齢 家族構成
斬首 清松 39 母、弟(惣兵衛)と3人暮し
斬首 助蔵 36 母と2人暮し
斬首 幸蔵 26 母、妹2人、弟の5人暮し。極難窮民
絞首 初太郎 50
絞首 三太夫 46 妻、娘6人(内2人は年季奉公中)。極難窮民
絞首 半兵衛 40 妻、母、娘の4人暮し
絞首 幾作 37
絞首 新兵衛 36 母、弟、妹の4人暮し
絞首 惣兵衛 33 母、兄(清松)の3人暮し
絞首 門(紋)三郎 30 妻、母、息子の4人暮し
絞首 由之助 29 母、兄の3人暮し
絞首 伝之助 23 父母、姉と4人暮し
絞首 文七 22 母、祖母、妹2人、弟2人の7人暮し

参考にさせていただいた資料

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