久保地区の入り口にあった高井小学校から地区のもっとも上の民家までの雪を踏み固めた村道は、子供達の絶好の橇滑りコースでした。
また寒中になって畑に積もった雪の表面が固く締まると大人が歩いても沈まなくなり、子供達は水中地区との間に広がる「大窪」と「上野(うわの)」地籍でスキーをして遊びました。
さらに月生山の麓の「上平(うわでら、おわでら)」と、高杜神社の杉並木の参道は、高井小学校の生徒が体育の時間にスキーをすることもあり、知る人ぞ知るスキー場でした。
久保地区の入り口から末端まで距離が約1.3キロメートル、標高差が約100メートルの未舗装道路は、昭和30年代まで自動車が通ることはほとんどなく、除雪機による除雪もされないので、雪が積もると”けえだし”と呼んでいる自宅の入り口から隣家の”けえだし”まで人が歩く幅だけ雪掻きをしたり、踏み固めて通路を確保しました。
久保川と平行する箇所にガードレールはなく、カーブの多い急な雪道は危険もありましたが、子供達はそんなことにはお構いなく、橇や「竹スキー」、「げろりん」などで滑って遊びました。
たまにスピードが出すぎてカーブを曲がりきれず、用水路に転落してずぶ濡れになって親にこっぴどく怒られることがあっても、懲りずにみんな元気に遊んでいました。
←「舵取り橇」(十々木謙一郎氏所有)
坂の上の方に暮らしている子供は、この雪道を橇で小学校に通学していました。
朝は下り坂を橇でゴーッと一気に滑り下り、道が平坦になって動かなくなると橇を道端の生垣に隠してから歩いて小学校へ行きました。
帰りは隠しておいた橇を生垣から引きずり出し、橇に付けた縄を引っ張って上り坂をヨタヨタと帰りました。
「行きは良い良い帰りは草臥れる」
近年は自動車が普及して道路での橇遊びは危険になってきたので、橇遊びはもっぱら畑の中の農道になりましたが、みんな市販のプラスチックソリで、手製の橇で遊ぶ子供はほとんどいなくなりました。
子供達は橇を自分で作りました。
「舵取り橇」は腰を下ろして座る橇と、そこから突き出た板の先に連結した回転可能な小型の橇からできています。
小型の橇には横に棒が突き出していて、ここに足を載せて滑る方向をコントロールします。
座る部分の橇の長さは一人乗り用が30cmくらい、二人乗り用が50cmくらいで、前後の間隔は足の長さに応じて決めました。
2本の角材の先端を鋸で切断し、鉋を掛けて滑らかに仕上げて滑走部にします。家の爺ちゃんは「桜の木がよく滑る」と言って、雑木の薪を作るときに手頃な太さの桜の木を取っておいてくれました。
滑走面を下にして平行に並べ、横桟で連結して上面に板を釘で打ち付けます。中央には舵取り用橇を連結するための長い板を打ち付けます。
この上に木製の蜜柑箱をひっくり返して釘で打ち付け、座席にします。
舵取り用の小型橇も同じように作り、長い板の前方に錐で穴を空け、太い針金や五寸釘などで連結します。
両方の滑走部に「竹スキー」を取り付けると橇が良く滑るようにまります。
「竹スキー」は孟宗竹などの太い青竹の節を片側だけ残して30センチ位の長さに鋸で切って作ります。
鉈で5センチ位の幅に割り、内側の角を削って半月状にします。
この竹の節から10センチくらい離れた部分を竈や風呂の焚き口で炙り、柔らかくなったら節の部分を足で踏み、反対側を持ち上げて曲げます。
適度に曲がったら雪の中へ突っ込んで冷ますと「竹スキー」の完成です。
坂道を「竹スキー」で滑るときは、まず「竹スキー」を斜面と直角に並べて置き、片足ずつ乗ったらすばやく体を回転して下方に向かいます。 斜面に平行して置くと、足を乗せる前に「竹スキー」だけが滑って行ってしまいます。
あるとき県道を「竹スキー」で滑って通学していた小学生が転倒して停車中のバスの車体の下に入り込んでしまい、それがたまたま通勤中の教師の目に止まり、それ以来、「竹スキー」で県道を滑って通学することが禁止されました。
「竹スキー」を作るための太い青竹が手に入らないときは、直径1.5〜2センチ位の細い竹で「げろりん」を作り、ゴム長靴の底に縛り付けてスケートのように滑って遊びます。
ゴム長靴の幅と長さに合わせて竹を何本か切り、先端を45度位にカットします。
カットの方向を揃えて錐で貫通穴を2,3箇所開け、針金で串刺しにして簀の子のようにし、長靴に縛り付ける紐を取り付けて完成です。
高杜神社の杉並木の北側は雪が積もると日陰なので雪がいつまでも消えず、格好の雪遊び場になります。
すぐ近くにあった高井小学校では、体育の時間にこの杉並木でスキーをしました。
約200メートルの緩斜面は低学年でも安全に楽しく遊ぶことができました。
←杉並木北側の斜面
現在、高井農業者トレーニングセンターになっている高井小学校跡から高杜神社の鳥居前を通って村道を1kmほど進み、十々木入の分岐点から林道月生線を登ります。
オオヤマザクラが植えられている育成広場を過ぎてすぐ左の林道に入り、スギやカラマツの林が広がる戸挟原の緩斜面を登ります。
標高約730m近辺で車が通れる林道は終点になり、そこから久保川源流の渓流と交差して細い山道になります。
林道終点から一段高くなり、その先に広がる斜面が「上平」で、地元民は「うわでら」とか「おわでら」と呼んでいます。
スキーに自信のある先生は生徒を引き連れて上平まで遠征しました。
小学校からの距離約2キロメートル、標高差250メートルの坂道を1時間ほどかけてスキーを担いで上りました。
草野に雪が積もって真っ白な坊主頭のようになっている上平に到着すると、みんなで雪を踏んで長さ数10メートル、幅数メートルのゲレンデを作りました。
先生だけが皮のスキー靴と立派なビンディング付きのスキーを履き、子供達はみんなゴム長靴スキーでした。
スキーを持たない子は竹スキーを持ってきたものの、新雪を踏み固めたゲレンデは竹スキーが埋まって滑れませんでしたが、それでもみんな楽しく遊んでいました。
上野・大窪地籍は平均斜度13/100という勾配があり、当時は小麦や大豆が主な作物だったため、雪の表面が凍って「かちき」が渡ると絶好のゲレンデになりました。
上平でのスキーを終えた子供達は、短時間で勢いよく麓まで滑り降りて来ることができました。
地元の子供達には、往復の交通費やリフト代が不要の身近なスキー場でした。
上平は昭和30年代まで草を家畜の飼料や畑の肥料にするための採草地で、春先、雪が消えるとカタクリが一斉に花を咲かせ、ピンクの花弁が風に揺れていました。
戦後の木材需要の増加に伴って建築材の植林がブームになり、里山の採草地や雑木林にどんどんスギやカラマツの苗が植えられました。
山林所有者が山へ行って間伐し、帰りに間伐材を引き出して来ると1本300円で売れたそうです。当時の高卒の初任給が3,500円だったそうですから、「山持ち」=「金持ち」でした。
←植林されたスギ林(手前)とカラマツ林(奥)
農業の動力が家畜から耕耘機や自動車に変わったため草を刈って餌にする必要がなくなり、化学肥料が普及したこともあり、上平にもスギが植えられました。
←上平の杉林と久保川源流の渓流
その結果、カタクリの群落は絶滅し、上野スキー場は自然消滅しました。
最終更新日 2016年 2月23日
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