昭和28年の高井村公民館報と昭和33年の高山村公民館報に掲載された久保の紹介です。
『高井村公民館報』第34号より
「これは福島正則の御膳米の水田です」と青田を眺めながら老人はさも自慢そう・・・・・・・。
←水越地籍から見下ろす集落と棚田
ここ久保の部落は見渡す視野は総て山によってさえぎられているが、このような土地に居住する者は読書欲が盛であると古人が云った通り知識階級の多い部落としては昔から余りにも有名で、最近まで上級学校の進学者は圧倒的であった。
明治の後期にこの部落から十名余りの教員が数えられたことからしても伺われる。
天保十五年頃の古図によると八十五、六戸があったと云われている。
また坊平と云われている所――。
山の中にこんこんと湧き出る湧水の傍に一宇の寺があったが、世が進むにつれて寺は里に移転されたと伝えられ、今は一町歩余の平な雑木林がその昔を隠蔽するかのように繁り、池の辺には熊の足跡が見られる。
また河野の地籍の山林に代官林と呼ばれているところがあり、肥沃な地を立証している。
久保地区から見た紅葉の
坊平の湧き水
(標高1,050m附近)
坊平の平坦地
(標高1,050m附近)
湧き水の近くにあったクマの糞
明治3年の中野騒動は北信濃に起きた大事件として数えられているが、時の代官高野大参事が重税をかけたことと、飯山、松代の騒動に人心が動揺していたとき、たまたまこの部落に死亡者があり、火葬をした火がのろしと間違えられ、各所から中野に押し掛ける群衆が続いた。
勿論久保からも血気溢れる者がこれに合流したが、代官の奥方を斬ったのもこの久保の人であると伝えられ、その後処刑を受けた百五十名の中に久保から十三名の斬罪や締罪者を出したと云われている。
一揆のきっかけとなったとされる火葬場所跡地
いま久保の部落では環境衛生の事業に一致して向上推進を計っているいる。
二百年前に非常にコレラなどの流行病が多発したため、熊野権現を部落の入口に安置して疾病の予防をなしたという。
権現堂という地名もこれから生まれたものと伝えられている。
熊野坐神社信仰の名残の吹き流し
肥土と経営の合理化から貧富の差が少ないこの部落には二町歩以上の耕作者もあり、農業経営の先端を走る現れとして農電組合を昭和21年に結成して精米、製粉、脱穀などを行い、誘蛾灯も村に先駆けて昭和23年に設置したことをはじめ、煙草栽培は二十三戸で全戸数の半分に近く、勿布栽培も七戸を数え、動力噴霧器でで消毒する姿が見られる。
生活の改善も環境衛生事業と共に並行され、台所の改善が全戸に完成する日も近い
教育に明け生産に働き、また八十歳以上の長寿者の多いこの部落は健康に恵まれている。
三百余名の笑顔は新しい村造りへの歓喜に溢れている。
『高山村公民館報』第16号より
明治10年の戸籍人別調帳によると76戸、現在60戸、約一世紀の間に2割ほどの減少は、日本経済の発展に伴う都市人口増加の必然的過程おもわせて興味深いが久保人には一抹の淋しさである。
田13町歩、畑30町歩、1戸平均7反6畝は他部落に比して少ない方ではない。 往事は養蚕一辺倒であったが今はリンゴ、ホップがこれに代わってきた。 飼料作物を作って乳牛をとり入れている農家も数戸、殊にリンゴは全畑地の5,6割に植栽されていて上野地区が一大リンゴ園を形成する日は近い。
久保は堅い所、理屈の多い所と他部落では半分褒め、半分貶している。 しかし頑迷なまでに久保人はそれを美点とし確信して譲らない。 自立自営の精神が頑固者に見え、合理主義が理屈っぽく見られるのだと信じているのだ。 事実この二つが久保の背骨である。 権力に屈する事や円満主義の非合理は久保人にとっては我慢できないところだ。 明治3年の中野騒動に十有余人の犠牲者を出した抵抗精神は今でも久保の伝統の中で生き続けている。 嘗て高井村消防組公設の方針が定まったとき最も強硬に反対したのは久保であった。 しかし納得するやいち早く久保部はその役員、人員を揃えて役場を唖然たらしめたことがある。 合理主義者、久保の一面である。
さて上野リンゴ園を形成して「いまひとたびの」リンゴ景気を願う久保人の夢は四通八達した農道と中央を貫流する水。 そして善燐水中区と共同して素晴らしい公民館を建て、テレビ塔よりも高い真っ白な警監楼を建て、そこに取り付けられた拡声器から軽快な音楽が流れ、リンゴ園で働く人々の能率が上がり、乳牛は泉の如く乳を出し、牛乳を飲んで育った若者は皆、美女、美男である等々夢は尽きない。
”夢”しかし不可能事ではない。 久保の若い世代が、青年会が、4HCが力を合わせて張り切っているからだ。
↑久保地区の小字名・俗名分布図(『会報高山史談』より)
最終更新日 2018年 9月15日
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