高山村の民話より
原話者:勝山 寛
再話者:勝山 まさ枝
さし絵:勝山 まさ枝
昔むかしのことでした。
高井野村の久保のずっとずっと東の方に高い山がありました。土地の人は、このあたりを「
←久保の集落と坊平
ある年の春なかば、山の雪も、やっとこ消え始めました。家々から夕飯の仕度の煙が立ちのぼる夕暮れのことでした。
一人の若いお坊さんが、川西の方からでも来たのか、久保のあの急な坂道を登って来ます。
荷車を引かせた牛の
「もし、おたずねします。私はじんないと申すものです。坊でらに行くにはこの道でよいのですか。」
「ああ、そうじゃ。」
じんないさんは、ほっとしました。なにしろ、坊でらは、一つも二つも、山を越えなければ、たどり着かない奥の方、と聞いていたからです。
男の人は、牛の背中をなでながら
「今から登っていきなさるかい。暗くなってしまうで。」
と言いました。
西の空は、赤く染まりかけていました。急がなくてはなりません。
「真直ぐ行くとな、まず、仁王堂がある。そのわきを通っていくと、『
と、親切に教えてくれました。
じんないさんは、手を合せ、頭を下げ、疲れた様子もみせず、教えられた道を登っていきました。
『戸狭さんの門』をすぎると、やみがせまってきました。足をはやめて坂を登ると、ようやく茶屋の灯りが見えてきました。
戸口に立ち、
「ご免下され。修行僧で、じんないと申す者です。今晩一晩泊めて下され。」
と、声をかけました。
すると中から、ばあさまが顔を出し、
「お疲れなさったこと。さあさあどうぞ。」
と、気持ちよく中に入れてくれました。
よく朝、目をさますと、北の方に妙高山が見えました。
「道はだんだん狭くなる。だが一本道だで、迷うことはねえ。まあ、
と言って、にぎりめしを手の上にのせてくれました。じんないさんは、いつもながら、人の情けが身にしみました。
日も高くなった頃、平らな場所に出ました。小さな黄色い愛らしい、キブシの花が、稲穂のように垂れさがって咲いています。一休みして、またもくもくと歩きだしました。
坊でらに着いたのは、日が傾きかけた頃でした。
しかし、話に聞いていたような四十八の立派な寺々など、どこにも見あたりません。そまつな小屋が、十ほどあるだけです。
「これが修行の場所なのか。」
思わずつぶやきが出ました。修行僧が大勢いると、聞いてきましたが、大勢どころかあまり姿を見ません。しかし、この場所で修行すると決めてきたのです。
一番年上のお坊さんに教えてもらい、空いている小屋に入ることにしました。
小屋に入ると、袋の中からお経の本を取り出し、目をつぶりお経をとなえました。
外がさわがしくなり、お坊さん達が、夕飯の仕度をはじめた様子です。少しばかりの米や麦が手持ちにあったので、たのんでおかゆにしてもらいました。あたりに生えているよもぎの葉をちぎり、おかゆにいれました。
夏になると、何年も修行をつんだ、お坊さんに案内してもらい、朝もやのなか、山に入り、頂上のすぐ下から落ちる滝に打たれる修行に入りました。
水以外の物を口にしない
何年か経ったある日のこと、じんないさんは、久保村に、
「ありがたい事です。」
「ご苦労様ですな。」
みんなは、大切な米や麦を袋の中に入れてくれました。
こんなふうに、じんないさんは、何年も修行を続けました。
ある年の午後のこと、じんないさんが薬草をしょって久保に托鉢に出たあと、不幸な出来事がおこりました。 なんと、坊でらに火事が起こりました。 たちまちのうちに一軒また一軒と燃え移り、すべての小屋が燃えつきてしまったのです。 お坊さん達が懸命に火を消そうとしましたが、風にあおられ、何一つ残らず、そっくり燃えてしまいました。
その後残念なことに、寺には修行する建物を建てる力が、もう残っていませんでした。
修行僧達は、一人また一人と、寺をはなれていきました。
じんないさんも寺をあとにしました。
今、坊でらの場所を掘るとこげた材木が出るといいます。 わき水だけが、静かに流れています。
戸狭にある山の神の社
(標高634m)
久保川源流の滝
普段は水量が少ない
(標高1,000m附近)
坊平の湧き水
ちょろちょろと水が流れている
(標高1,050m附近)
坊平の緩斜面
(標高1,050m附近)
坊平の最高地点
木々の間から笠岳や横手山が見える
(標高1,204m)
↑久保地区と仁王堂、戸狭、坊平(『会報高山史談』より)
「平」はどうでしょう。「あんな坂なのに?」と疑問をお持ちの方が多いでしょう。
ところが「平」は普通考える「水平」の意味ではなくて、山地の斜面を「ヒラ・タヒラ」(ヒラ)といったのです。
「何何平」という地名を思い出してみてください。
みんな山の斜面ですね。
(原滋「地名と村の歴史」より)
最終更新日 2018年11月 3日
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