久保の家
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勝山忠雄〜実務薬学発展の大先達

明治政府が従来の漢方(東洋医学)に変わって採用した西洋薬学を東京大学で教え、後年は陸軍薬剤官として医療活動に従事して、我が国の薬学の発展に大きく貢献した人が今から170年前に久保で生まれています。
 これまで地元ではその功績がほとんど知られていませんでしたが、勝山寛さんが『高山史談』に寄稿された「明治の久保出身勝山忠雄氏(薬剤学者)について」をもとに、郷土の先輩・勝山忠雄氏の業績を紹介します。


勝山忠雄氏の情報探し

平成24年(2012年)8月、高山村民俗資料館宛に札幌の高橋保志氏から概略以下の手紙が届きました。

御地「上高井郡高井村」出身の「勝山忠雄」氏についての情報を探しております。
 勝山氏は「市立札幌病院薬剤部」の第三代薬局長として赴任(明治22〜25年〜?)されていたことが判明しており、ご本人直筆による履歴書も残っております。
 明治の初頭にハーケル著による薬学教本(ドイツ語)を『調剤要術』として翻訳出版され、その後の我が国における実務薬学の発展に大いに貢献された大先達なのです。 しかしながら、短期間?の札幌におけるご尽力の一端や植物学にも深い造詣を窺わせる論文を見つけることは出来ましたが、その後の足跡、業績などは一切不明です。
 120年も前に活躍された勝山氏ですが、何とか再びスポットライトを当てることができればと願っている次第です。
 来9月22日、岐阜の母校創立記念式に出席するのを機会に、そちらまで足を延ばして貴資料館を訪れてみる予定(9月25日)です。
 その折は何か手掛かりを得られましたなら、大変幸いと思っております。


村内の足跡

高橋保志氏の問い合わせをきっかけに、勝山寛さんが勝山忠雄氏について調査されました。

勝山忠雄 履歴書  勝山忠雄氏自筆の履歴書(防衛省防衛研究所図書館所蔵)によると、本籍地は「長野県信濃国上高井郡高井村弐百拾四番地」で、嘉永元年(1848年)2月7日生まれとなっています。

←陸軍省入省の際の勝山忠雄の履歴書(『北海道の医療 その歩み』より)

勝山忠雄家系  勝山寛さんが調査した結果、勝山忠雄氏の生家は今須坂におられる勝山神主さんとは別の神主家で、長男は神主をしていたが、子供に恵まれず、次男の忠雄氏は家族と共に東京へ出てしまったため今はありません。

←勝山家の家系図(『高山史談』より)

日露戦争戦利品  明治39年(1906年)に日露戦役記念品として勝山忠雄氏から高杜神社に軍刀、手刀、偃月刀(えんげつとう)、木剣が共進されました。
 昭和20年の敗戦で軍刀などは進駐軍に没収され、木剣だけが残っています。

←高杜神社に共進された木剣(上側、『延喜式内高杜神社写真集』より)

勝山健雄宅跡  勝山忠雄氏の本籍地は高杜神社第9代神官・勝山健雄氏の住所と同じ「高井村214番地」で、勝山健雄氏の住宅跡が現在は勝山茂美氏宅になっていることから、忠雄氏の生家はここにあったと推定されます。
←勝山健雄氏宅跡


学業の修得と教育活動

修学

・明治4年(1871年)4月に東京の第一大学区二番中学に入学し、外国人教師ホルツにドイツ語を学びました。

・明治6年(1873年)2月に第一大学区医学校に入学し、ニーウェルト及びマルチンに製薬学大意を学びました。


薬局勤務

・明治6年(1873年)8月から同9年(1876年)まで、第一大学区医学校薬局に勤務しています。


教育活動

西洋医薬品を専門に扱う薬剤師を養成するため、国立、官公立、私立の専門教育機関が設立され、勝山忠雄氏は教員と専門学校長を務めました。

・明治9年(1876年)12月に第一大学区医学校から改組された東京医学校製薬学科通学生教場の教員(教授介補)に就任し、薬品学、調剤学、解剖学等を教えています。
・明治11年(1878年)1月に東京医学校から改組された東京大学医学部製薬学科の通学生教場教授に就任しました。

東京大学医学部製薬学科第1回生卒業記念写真 ←東京大学医学部製薬学科第1回生卒業記念写真(明治11年)

↓で示した男性が勝山忠雄氏(『北海道の医療 その歩み』より)

・明治14年(1881年)7月から東京大学医学部製薬教場に勤務し、同年11月に准講師に就任して明治18年(1885年)8月まで務めました。

・明治22年(1889年)5月に、札幌の陸軍屯田兵本部(第一大隊)医務課に勤務しながら、札幌薬学校の校長に就任しました。
 札幌薬学校は北海道で薬剤師を養成するために最初に設立された専門学校で、教員4名、学生20名、年間授業料約100円でした。
 当時の新聞には、開業式後に他の2名の教員(薬剤師)と共に勝山校長が講義(植物学)を行ったと報じられています。

※北海道薬科大学の吉沢逸雄教授は、「勝山は、教育と研究の両面に渡って実績のある教員で、当時の薬学校の校長としては申し分のない人物であった。」と評しています。(「北海道の薬学教育」)


翻訳出版活動

勝山忠雄氏の大きな功績に、東京大学医学部製薬学科で教員を務めながら、ドイツ語の原書を翻訳して日本語の専門書を編纂出版したことが上げられます。

『調剤要術』

調剤要術初版  ハーケル(ドイツ)著の薬学教本を翻訳した『調剤要術』は我が国最古の調剤学の専門書で、改訂を重ねながら各地の薬学校で教科書として使われました。

←明治11年(1878年)出版の初版は木版で全5巻
 【東京大学医学部製薬学科通学生教場 教員】

調薬員の責任
 冒頭に『調薬一般の規律 調薬員の責任』が記されています。
 「調剤の業務たるや実に薬学終局の目的にして、之に関する諸般の学科は畢竟調剤を行ふの階梯及び幇助というも不可ならざるなり」は有名な一節です。

調剤要術2版 ←第二版 明治14年(1881年)
 これ以降は活版印刷
 【東京大学医学部 准講師】

調剤要術3版 ←改訂三版 明治20年(1887年)
 【従七位 陸軍二等薬剤官】

調剤要術6版 ←改訂増補六版 明治39年(1906年)
 【従六位勲六等 陸軍一等薬剤官】


『調剤表彙』

調剤表彙 ←初版 明治10年(1877年)
 改訂二版 明治18年(1885年)
 調薬に必要な用語の説明書

『薬局必携調剤表彙』

薬局必携調剤表彙
←初版 明治11年(1878年)
 調薬に必要な換算表等の説明書

薬局必携調剤表彙第二版の広告
↑『調剤要術』改訂三版に記載されている『薬局必携調剤表彙第二版』の広告  明治20年(1887年)


学術活動

薬学の教育をしながら植物関連の研究をして専門誌に研究成果を寄稿しています。

・マルチンの椿実の成分研究でカメリンの発見に協力
 マルチンの原稿がヨーロッパの学術雑誌に投稿され、勝山忠雄が共著者として公表されました。
・「五味子細辛ノ説」を薬学論文誌『東京薬新誌』に寄稿、明治11年(1878年)
・「キハダト黄鬻ノ異ナル説」を『東京薬新誌』に寄稿、明治11年(1878年)
・「松樹瘤ノ生スル所以及ひ其治療法質問並答」を『大日本山林会報』に寄稿、明治17年(1884年)
「定山渓温泉紀行」 ・定山渓温泉のツヅミモ(温泉微生物)の研究で「定山渓温泉紀行」を『植物学雑誌』に寄稿、明治21年(1888年)


医療活動

明治18年(1885年)8月に東京大学を退職した後は、陸軍薬剤官として医療活動に従事しました。

・明治18年(1885年)9月に陸軍省に入省し二等薬剤官として被任しています。

・明治20年(1887年)3月に東京鎮台病院薬剤官に任用されました。

・同年に札幌の陸軍屯田兵本部(第一大隊)医務課に転属しています。

札幌病院・同年に北海道庁官の嘆願により、北海道庁札幌病院(現・札幌市立病院)薬局長に就任(陸軍と兼務)しています。

←明治19年頃の札幌病院(『北海道の医療 その歩み』)

・検閲史として根室、釧路、室蘭など道内各地の衛生状況を視察しています。
 北海道医事懇談会評議員、札幌衛生会発起人、日本赤十字社北海道委員なども務めました。

仙台衛戌病院 ・明治24年(1891年)6月4日の「北海道毎日新聞」に転任の告知広告を掲載し、仙台衛戌病院(後の仙台陸軍病院)に転属しました。
 「小生本日当地出発仙台表へ赴任候間此段辱知諸君に報道し聊か告別之意を表す 六月四日 勝山忠雄」

←仙台衛戌病院

・明治37年(1904年)に陸軍一等薬剤官として日露戦争に従軍しました。


勝山忠雄氏 年表

勝山忠雄氏 年表
和暦 西暦 年齢 出来事
嘉永元年
1848 0 ・2月7日 高井野村久保組で出生
明治4年
1871 23 ・第一大学区二番中学(洋学第一校から改組)入学
同6年
1873 25 ・第一大学区医学校(東京大学薬学部の前身)に入学
・第一大学区医学校薬局に勤務
同9年
1876 28 ・東京医学校製薬学科通学生教場教員(教授介補)に就任
同11年
1878 30 ・東京大学医学部製薬学科通学生教場教授に就任
・『調剤要術』訳補を出版
・『調剤表彙』を出版
・『薬局必携調剤表彙』を出版
・東京大学医学部製薬学科の教師と学生で「薬学会」を組織
・薬学論文誌『東京薬新誌』に「五味子細辛ノ説」を寄稿
・『東京薬新誌』に「キハダト黄鬻ノ異ナル説」を寄稿
同12年
1879 31 ・大井玄洞纂訳『改訂生薬学』第二版を校閲
同14年
1881 33 ・東京大学医学部製薬教場准講師に就任
・『調剤要術』第二版を出版
同17年
1884 36 ・大日本山林会報に「松樹瘤ノ生スル所以及ひ其治療法質問並答」を寄稿
同18年
1885 37 ・『調剤表彙』改訂第二版を出版
・東京大学医学部を依願退職
・陸軍省に被任 二等薬剤官
同19年
1886 38 ・『日本薬局方』を校閲
同20年
1887 39 ・東京鎮台病院薬剤官に任用 陸軍二等薬剤官
・札幌に転属
 陸軍屯田兵本部(第一大隊)医務課勤務
・北海道立札幌病院(後の札幌市立病院)の薬局長に就任(兼任)
・『調剤要術』第三版を出版 陸軍二等薬剤官従七位
同21年
1888 40 ・植物学雑誌に 「定山渓温泉紀行」を寄稿
 「定山渓温泉のツヅミモ(温泉微生物)の研究」
同21年
1888 40 ・『調剤要術』第四版を出版
同22年
1889 41 ・札幌薬学校の校長に就任(兼任)
同23年
1890 42 ・『調剤要術』第五版を出版
同24年
1891 43 ・仙台衛戌病院(後の仙台陸軍病院)に転属
同30年
1897 49 ・仙台陸軍病院を退職
同32年
1899 51 ・予備役に編入 陸軍一等薬剤官
同37年
1904 56 ・日露戦争に従軍
同39年
1906 58 ・『調剤要術』第六版を出版 陸軍一等薬剤官従六位勲六等
・『製剤手鏡』を出版
・『処方調剤表彙』を出版
・高杜神社に日露戦役記念品を共進

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参考にさせていただいた資料

最終更新日 2020年 3月22日

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