久保の家
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「謙信道」

謙信道  高山村には「謙信道」と呼ばれる古い道筋が伝えられています。

←謙信道の案内

戦国時代、甲斐の武将・武田信玄は信濃の国に攻め入り、次々と領地を拡大していきました。
 信玄に追われた信濃の中小豪族は、越後の領主・上杉謙信に助けを求め、これに応じた謙信が信濃に兵を進めて川中島で対峙しました。 戦いは天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に5回行われ、このときに越後から川中島へ軍を進めた道筋が「謙信道」とされています。
 なかでも最も激しい戦いとなった永禄4年(1561年)の「川中島の合戦」の際は、謙信は1万8千の大軍を率いて越後・春日山城(現・新潟県上越市)を出陣し、武田信玄との一騎打ちの後、腹心の部下の和田喜兵衛と二人だけで越後へ落ち延びた道筋だとも伝えられています。
 また、謙信が関東管領だったときにたびたび関東へ出陣した道だったとも言われています。


謙信の退却路

謙信道
↑善光寺上空から見た高井野と謙信の退却路(カシミール3Dにより作成)

 永禄4年(1561年)9月10日、川中島で武田信玄と一騎打ちをした謙信は、主力部隊とはぐれ、つき従うものは和田喜兵衛、宇野左馬之介、和田兵部の3名になってしまった。
 犀川を武田軍が固めていたために主力のいる善光寺へは行くことができず、夕日が川中島の山に沈みかけた申の下刻(午後5時ころ)、謙信主従4人は千曲川の馬場ヶ瀬を渡り、対岸の牧島の川辺に着いた。 これを見た武田の軍勢が大勢で攻め寄せてきたため、宇野、和田の両人は川端に踏みとどまって敵と戦ったが討ち死にし、謙信は和田喜兵衛と二人だけでその場を逃れた。
 川田から保科の山路を通って馬曲(馬越峠・まごせとうげ)に出、その夜は大木の下で露をしのいだ。
 翌日、夜になるのを待って出発し、高井野で人家に立ち寄って食事を請い、山田越えをして、間山より更科に着いた。
 ここで野武士と戦って退けたとき、一人の白髪の老人が現れ
「これより先は私めがご案内いたしましょう」
と言って先に立って二人を案内した。 高梨山(高社山)を左に見て、大首(飯盛山)の間から須賀川女という権現滝で疲れをいやし、下木島によやくたどりついた。
 老人は
「これから先は小菅権現の守護がきっとありましょう。追っ手が来たら、小菅山に逃げ込んだと欺きなさるがよい」
と言い残して、いずこともなく姿を消した。 主従はこの老人こそ小菅権現の化身であろうと、老人の消えた跡に向かって伏し拝んだ。
 二人はさらに歩みを進めて、安田の渡し場にさしかかった。
 船頭の重兵衛に向かって和田喜兵衛は
「自分たちの後ろから追っ手が来たら小菅山に逃げ込んだと、欺いて欲しい」
とよくよく頼んで向こう岸に渡った。 分別のある和田は、下郎というものは心変わりしやすいものよ、と渡し場に戻って水面に張った大綱を切り落とし、船の往来ができぬようにして、落ちて行った。
 これより飯山への入り口、安田の渡しを「綱切の渡」と今もいう。
「甲越信戦録」より


伝承

 「謙信道」は居城の春日山城から富倉峠(飯山市)を越えて信濃に入り、飯山から木島平に至り、山ノ内の須賀川(すがかわ)・菅(すげ)・寒沢(さぶさわ)を通り尾根伝いに小池峠から高井野に入ります。
 村内には奥山田(おくやまだ)、中山田(なかやまだ)、牧(まき)、黒部(くろべ)、赤和(あかわ)、久保(くぼ)、水中(みずなか)にそれぞれ伝承があります。
○小池峠から宮村に下り、関場の「日向平(ひなただいら)」か藤沢で松川を渡って牧に入ります。
 牧から福井原の下部を通って樋沢川を渡り、黒部の裏山の西裾を越えて黒部を通り、北裏からに城山に登ります。 城山の尾根から「谷地(やち)」に下って赤和の集落の中を通り、八木沢川を渡って勝山の乗っ越しに出ます。 急な斜面をつづら折りに下って久保の集落の中を西に抜け、「上野(うわの)」を横切ります。 水中の集落の上を通って樽沢川を渡り、「水中のしだれ桜」のある鹿島神社の前を通り、須坂との境の灰野峠に登ります。
 灰野峠からは豊丘(須坂市)へ下り、八町から馬越峠を越えて綿内(長野市若穂)に下ると上杉謙信陣屋跡があり、ここを通って松代に至る道筋が伝えられています。
○牧には、間山峠から平塩に至り、「稲久保」で松川を渡って「頓原(どんばら)」に出てきた道筋も伝えられています。
○奥山田には山田牧場から笠岳の肩を越えて山の内に至る道も伝えられています。
謙信道
↑高山村内の「謙信道」
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成しました。


復元

 現在、高山史談会のみなさんによって道筋が確認され、要所要所に案内標識が設けられています。

樋沢の道←樋沢の道
 牧から樋沢川を渡り、樋沢から黒部の集落に向かいます。
樋沢の案内

北裏←城山の上り口
 黒部の集落西端を下って、北裏から城山に登ります。
黒部の案内看板

赤和の案内看板 ←赤和の案内標識
 城山から谷地に下り、庚申塔の脇から八木沢川を渡って勝山に至ります。

勝山の乗越し ←勝山の乗越し(のっこし)
 赤和から勝山の乗越しを経て久保に下ります。

謙信道と言われている畦道 ←上野(うわの)の道と山城跡
 久保の集落から上野を抜けて水中に至ります。

灰野峠の案内看板 ←灰野峠の案内看板
 須坂市との境になる峠を高井側では「灰野の乗越し(灰野峠)」と呼び、須坂側では「水中峠」と呼んでいます。
 ここから明覚山の尾根を登ると、頂上に雨引城趾があります。


近世

 徒歩か牛馬が主な交通手段だった昭和30年代までは、乗っ越しを越えて、隣接する地区を行き来していました。
 また周辺の山野は、木材や薪炭、家畜の餌になる草や田畑の肥料にする草や落ち葉、食料となる山菜や茸、鳥獣の供給源となっていて、 こうした物資の運搬で「謙信道」は賑わっていました。
 時には山田の若者が山ノ内町の湯田中温泉へ夜遊びに出かけた近道でもありました。

近年

荒れた畦道←「謙信道」と伝えられる荒れた畦道
 昭和40年代になって交通手段が徒歩や牛馬からエンジン駆動に変わると、山中を通る「謙信道」の交通量は次第に減少し、道は荒れてきました。
 また、田畑が整備されて新しい道路ができると、農地の中の「謙信道」の正確な経路がたどりにくくなっています。
 最近になって林道や遊歩道が整備され、「桜トレッキング」や山菜採りなどの季節には「謙信道」を歩く人の姿が徐々に増えてきました。


上杉謙信の足跡

天文22年(1553年)8月 武田信玄に所領を追われた村上義清、高梨政頼ら北信濃の豪族らが越後に逃れ謙信に救援を依頼したため川中島に出陣
【第一回川中島の合戦】
弘治元年(1555年)7月 犀川を挟んで武田軍と対峙
【第二回川中島の合戦】
閏10月に今川義元の斡旋により信玄と和睦
弘治3年(1557年)8月 信玄と信濃上野原で戦う
【第三回川中島の合戦】
翌年、将軍足利義輝より御内書を下され、信玄と和睦
永禄3年(1560年)8月 はじめて関東に出陣
永禄4年(1561年)8月 霧の川中島で信玄と一騎打ちに及んだと伝わるほどの激戦
【第四回川中島の合戦】
永禄4年(1561年)11月 関東に出陣し、北條氏康と戦う
永禄5年(1562年)12月 関東に出陣
永禄6年(1563年)12月 関東に出陣
永禄7年(1564年)8月 更科八幡宮に武田信玄の調伏を祈願
川中島に出陣
【第五回川中島の合戦】
永禄7年(1564年)12月 関東に出陣
永禄8年(1565年)11月 関東に出陣
永禄9年(1566年)11月 関東に出陣
永禄12年(1569年)12月 関東に出陣
元亀2年(1571年)12月 関東に出陣
天正2年(1574年)2月 関東に出陣
天正2年(1574年)9月 関東に出陣し北條軍と戦う

参考にさせていただいた資料

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