久保地区の中ほどの通称『高等官の屋敷』と呼ばれる勝山信司氏の屋敷跡の北の畑の隅に「算子塚」と刻まれている古い石碑が建っています。
この場所は現在ゲートボール場になっていて、ゲートボールを楽しむみなさんを見守っています。
※高等官:旧制の官吏の呼称
←算子塚
嘉永5年(1852年)11月21日、高井野村久保組が生んだ和算家・勝山弥兵衛義政(よしまさ)が80歳の天寿を全うしました。
翌嘉永6年(1853年)7月、勝山義政の門弟約200人がその徳を慕って久保組入口の熊野神社境内に「算子塚」と刻んだ頌徳碑を建立しました。
石碑はその後、現在地に移転されました。
勝山義政は安永2年(1773年)に高井野村久保組に生まれ、文化7年(1810年)正月に宮城流の和算家・中山圓七方恭(みちやす、方泰)から宮城流算師の免許状を授与されています。
当時の須坂藩はもとより、千曲川の向こうの水内郡(現在の長野市、飯山市を含む上・下水内郡)にまで名声が聞こえ、門弟は二百有余人に及び、門人に須坂御屋敷・土屋与五郎、保科酒屋・仙仁藤太等がいたそうです。
文化8年(1811年)当時、天元術演段(算木を用いて高次方程式を解く代数計算)と、町見術(日本流の測量術)の伝授を受けた門弟は、高井野村だけで30人に及んでいます。
部落名 | 和算家数 |
新井原 | 2 |
久保 | 9 |
上赤和 | 1 |
堀之内 | 6 |
千本松 | 2 |
水沢 | 4 |
中善 | 1 |
田端 | 5 |
合計 | 30 |
・誓紙(勝山義政)により作成 ・年代 文化8年(1811年)9月 ・部落名は誓紙による |
天保14年(1843年)9月に、上水内郡古海村菅川村(信濃町)から依頼を受けて、年貢米の計算に従事しています。
義政の孫・清八の代に2回も火災にあったため義政の作品や書籍などは大部分が焼失し、わずかに許容状・縁家・誓紙各一巻、問題集、手記、日記各一冊のみが勝山信司氏宅に伝えられていました。
一、算数天元術演段并仰付町見術御傳被下候段難為同門免許無之内他見他言堅仕間敷事若於相背者可蒙神明之御罰言所者也仍而誓紙如件
文化八未年菊月上旬之書
勝山弥兵衛殿
門弟(氏名)
一日打ち寛ぎて喫茶し居たる折、一人の虚無僧来りて、尺八の音にて急須の蓋を圧し、取ることを能はざらしむ。
彼の算師すかさず心得たりとばかりに側なる算盤を取りその珠にて尺八の音を止めたりぞ。
郷人今に此傳話を傳へてその名人なりしことを賞讃す。
山岸善一「高井村筆塚并先人塚墓調査書」より
宮城流和算は元禄(1688年〜1704年)のころに宮城清行(柴田清行、生没年不詳)が京都で興した和算の流派です。
←宮城清行集成「和漢算法」
宮城清行の弟子に更級郡御幣川村(現・長野市篠ノ井御幣川)の郷士・宮本九太夫正之がいました。
正之は京都に上がって宮城清行に学び、ついにその高弟の一人に数えられるようになり、帰郷して松代藩内に宮城流算法を広めたことが因となって、善光寺平一円に宮城流和算が広まりました。
勝山義政が所持した縁家には次のように記してありました。
宮城外記藤原清行−宮本九太夫尉正之−藤牧弥之助美郷−中山圓七方恭−勝山弥兵衛殿
藤牧弥之助美郷(1686年〜1752年)は桜沢(中野市)の百姓で、信濃宮城流和算の祖・宮本正之の高弟の一人でした。
藤牧家の5代前は篠ノ井にあり、篠ノ井の宮本九太夫から宮城流を受け継いだといわれています。
勝山義政の師匠である圓七方恭は、藤牧弥之助美郷の高弟の一人でした。
←藤牧弥之助宛「算家可嗜事」
藤牧家に残されている和算免許状で、長野県内に現存する最古のもの
中山圓七から勝山義政に与えられた「算家可嗜事」も全く同じ内容
豊野町(現・長野市豊野)大倉の城山入口に、天保11年に建てられた竹内善五郎度道の石塔があり、この石塔の台石に「高井野村勝山」という名前が刻まれています。
竹内度道は和算の大家・関考和を祖とする関流の系統で、石塔には何名かの門人の名前のほかに「志外(記録されていない)門人八百人」と刻まれており、近在では有名な和算家だったことが伺われます。
勝山義政と竹内度道は、流派が違っても盛んに交流していたと考えられます。
和算は明治5年(1872年)の学制領布の時、学校教育から除外され、算盤以外の利用は全く忘れられてしまった。
しかし明治初年西洋の科学技術の移植普及は、ほとんどすべて外国人の手によったものであるが、数学だけはあまり外国人の手によらずに行われた。
これは和算によって鍛えられた頭が洋算(現行の算数)を立派にこなして取り入れることができたためであったからである。
近世以前の社会情勢はまだ数学の発達を要求するまでに進んでいなかったが、戦国時代から豊臣時代にかけては、社会の情勢が非常に変わり、大規模な築城・鉱山の開発・貨幣の鋳造・検地などの事が起こり、
それと同時に城下町が栄え、武士にも商人にも数学の必要性を感じさせるようになってきた。
たまたま秀吉の朝鮮の役のことが起こって大陸との交渉が新たに起こり、進んだ中国の数学が半島を通じて流入した。
そしてこれが徳川時代になって大いに発展し、日本人の独創性を発揮した特殊な数学が日本人によって作り上げられた。
これが洋算に対してわれわれが和算と呼んでいる数学なのである。
山岸善一「算子塚の話」より
わさん【和算】:日本古来の数学。
江戸時代に関孝和その他の俊才を生み、方程式論に相当するもの、円周率、曲線図形の面積や曲面に囲まれた立体の体積を求めることなどに独自の発達を示したが、明治になって輸入された西洋数学に圧倒された。 和算の名称は、この頃に洋算に対して作られたもの。 広辞苑
←規矩術(測量法)の算額
(長野県立歴史館)
←算法地方大成(さんぽうじかたたいせい)量地之部
測量機器の解説書
(長野県立歴史館)
最終更新日 2018年 5月 8日
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