久保の家
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久保の成り立ち

地区の概観

久保地区の概観
↑灰野峠から見た久保地区
 「久保」の集落から林道・月生線(つきおいせん)を上っていくと、途中で「水中のしだれ桜」から上がってきた道と合流し、やがて灰野峠に向かいます。
 この林道の一部は、戦国時代に上杉謙信が軍を進めた謙信道と重なっています。
 灰野峠で木立の間から北方を見ると、眼下に「上野(うわの)」と呼ばれる耕作地が広がり、その向こうに、「勝山」の南麓に流れる久保川に沿って長く連なった「久保」地区の家々が一望できます。

「上野」の南側には明覚山の麓を流れる樽沢川に沿って「水中」の集落があり、「勝山」の北側には八木沢川に沿った「赤和」の集落があります。
 長さ約1.3キロメートル、幅約800メートル、平均勾配が13/100で北西に向かって扇形に広がる「上野」の地形は「押し出し地形」と呼ばれ、土石流によって運ばれた岩屑や風化土壌などが堆積したものです。
 大小の岩石が多く、土壌はきわめて薄い土地に苦労しながらも、先人は古代から生活してきました。


暮らしの始まり

久保地区の小字・俗名
↑久保地区の小字名・俗名分布図(『会報高山史談』より)

 この一帯には今から約1万年前の旧石器時代末期に、すでに人々が生活していたといわれています。
 「上野」の下部の「小布毛(おふけ)」地籍では、今から6,000〜5,500年位前の縄文時代前期と推定される久保遺跡が発掘されています。

「石器時代の住人」
 当時本郡に住したるは緑長祗・黒長祗と称するアイヌの族なりと伝う。
 石器時代の住民即ちアイヌの居住地なるかまた散布地なるかは明証なけれど、本郡中左記の箇所より石鏃・石斧及びその原料、土器の破片等発見さるれば、彼アイヌ族の占拠したる事明かなり、今その遺物発見地を示せば左の如し。
 ・・・
 高井村字荒井原・久保・大宮・牧子安社付近
 山田村字原宮・横道
 「上高井歴史」より

 ところが縄文時代後期になると、ここに暮らしていた人々は余所に移住したようで、集落が衰退しています。
 この原因として、気候が寒冷化し、採取や狩猟が中心の生活の維持が難しくなったことがあるようです。

小布毛遺跡  弥生時代後期に入ると、新しく農耕を営む人々が暮らしはじめました。
 樽沢川と久保川、矢木沢川が合流してできる湿地帯の「小布毛」や「中河原(なかがわら)」地籍で稲作を行っていた遺跡があり、「荒井原」遺跡からも水稲栽培に使われた遺物が発掘されています。
 4〜7世紀ごろの古墳時代には、高井野村(現在の高山村高井)の扇状地を利用して、朝鮮系の渡来人による牧場経営が行われていたことから、上野一帯も牧場として利用され、牧場作業に携わる人々が現在の「久保」と「水中」で暮らしていたと考えられています。


集落の成り立ち

上野
↑空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成

 古老の話によると、「久保」は隣の「赤和」の住人が「勝山」を越えて移住してできた集落で、いわば分家にあたるのだそうです。
 このとき「赤和」の住人の三分の二が移ったともいわれています。
 移住した時期がいつ頃か定かでありませんが、「久保」の入口にある高杜神社の本殿が平安時代前期の大同元年(806年)に建てられたと伝えられていることから、 奈良時代か平安時代の初めには現在の集落が形成されていたようです。

集落名

 「久保」という名前は、「赤和」から見ると一段低い場所にあるので”窪”と呼んでいたものをそのまま集落名にしたもので、このとき”窪”という漢字は書きにくいため、書きやすく、縁起のいい字を当てて「久保」としたということです。

 民俗学的には耕地のことを”窪”と呼ぶそうですが、地区内には「大窪」と「窪入り」という小字名があることから、もともと「くぼ」と呼んでいたと考えられます。
 ちなみに、「○○窪」や「○○久保」という地名は村内に10ヶ所もあり、「○○原」に次いで2番目の多さです。


高杜神社と勝山さん

 「久保」の入口には、高井野村全体を氏子とする高杜神社があり、高杜神社を招聘したのが「勝山さん」の本家だと伝えられています。
 「勝山さん」と裏山の「勝山」とは強い関連が考えられ、「久保」の半数のお宅は「勝山さん」です。
 また、高杜神社の神官は勝山家が代々務めてこられました。


鎮守

 江戸時代には組の鎮守として熊野神社(通称・権現さん)を祀り、祭神は伊邪那美命(いざなみのみこと)でした。
 明治41年(1908年)に高杜神社に合祀されています。

熊野神社:和歌山県熊野地方の熊野本宮大社、熊野速玉神社、熊野那智大社の三社に祀られる神霊のことで、 この3つの神社を一般に熊野三社と呼び、全国に3000を超える分社がある。

宮陽団

 久保組では、祭典の灯籠揃いを行う若衆連を「宮陽団」と称し、男子は15歳以上になると全員入団し、神楽奉納、笠鉾、神楽横持ちを行っていました。
 祭典の半月ほど前から、稽古始め、中入り、稽古終いまで毎晩、獅子舞の稽古を行います。
 役割は舞手、囃子(笛、太鼓)手およびその指導者(師匠)で、春に入団すると、秋祭りには一人前になるよう、それぞれの師匠に厳しく教育されました。
 何を分担するかは当人の希望と話し合いで決められましたが、親子代々同じ役割が多かったようです。


久保応援歌

作詞:勝山勝三
1.秋空高く日はうらら
  体育祭りの運動会
  高山村に久保ありと
  力を見せん時は今日
2.遠く離れたいく部落
  ここに集まる運動会
  平和の村のこの勝負
  力を見せん時は今日
3.勝負は常に時の運
  負けて悔いなき運動会
  意気堂々と戦わん
  力を見せん時は今日

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参考にさせていただいた資料


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