赤和の集落を抜けて坂道を上っていくと、高山村の5大桜の一つに数えられている枝垂れ桜の古木が山道を覆うようにせり出し、立ち止まって見上げると、山の中腹にそそり立つ巨岩を背にして懸崖造りの観音堂が目に入ります。
←赤和観音のしだれ桜と観音堂
赤和在住の牧弘さんが、古くから近郷在住の信仰を集め親しまれている「赤和のお観音さん」について『須高』に寄稿された内容を抜粋して紹介します。
赤和部落を通り抜け、人通りのない道をしばらく登ると雑草の茂っている参道に出る。
このあたりの字名を「古赤和」といって、かつては大根で名がでたところ。
古赤和は一筆田があって稲がつくられていたが、大部分は畑で、桑・たばこ・野菜などがつくられていた。
参道を70メートル程進むと両側に吹き流しを立てる大きな沓石がある。
かつて春の縁日といえばここに吹き流しを立てていたのであるが、昭和34年に立ててから、その後は立てていない。
沓石のすぐそばには石造りの六地蔵尊が安置されている。
像は高さが38〜41センチメートルの浮き彫りで、両脇の二体が蓮華を持ち、残りの四体のうち一体は数珠を持っているが、三体は合掌しているように見える。
この六地蔵尊には語りつがれている言い伝えがある。
「ある時、大きな岩石が落ちてきて、その下敷きになって里人が何人か死んでしまった。
人々は嘆き悲しんで、その霊を弔うために落ちてきた岩石の前に六地蔵を安置した」
という。
六地蔵からわずかに参道を進んだところに、三本の杉の木にはさまれるようにして延命地蔵尊の小屋がある。
石造りの地蔵で、別名を子育地蔵ともいわれ信仰する者も多い。
台石にはようやく判読できる字で「享保四年」とある。
右手に錫杖を持ち、左手に数珠を持つ。
また、そこには泉池や杉の木に混って樹長15メートル、目通り3.5メートル、樹齢およそ百年と思われる枝垂桜の老木がある。
泉池は赤和区の岩崎石治氏らの発起人によって、大正四年に夜燈とともに造営されたものである。
枝垂桜の北と東には現在崩れてはいるが石垣があって、泉池まで平らになっている。岩崎久男氏所蔵で「募縁録」と表紙書きのある古文書には、かつてここに観世音堂があったのではないかと思われる記述がある。
泉池の北側は一段高くなっていて、そこからは丁度段丘状になっている。
ここにはその昔上赤和組(赤和区上組)の墓地があったといわれている。
急坂になっている参道を30メートルもあるだろうか、そこを登りきるとそこには拝殿がある。
拝殿は正面柱間が三間(4.6メートル)、側面が二間(3.05メートル)の規模である。
建立年代は明らかでないが、布礎石の上に土台をおいて建てていることから最近のものであろう。
床は板張りで、屋根は寄棟造りのカラー鉄板葺きである。
拝殿の北には「山の神社」があって、以前別の場所にあったものを管理面の合理化で、ここに移されて祭られている。
流れ造りの一間社で、宮大工の和田四郎の作と言われている。
拝殿からは、観世音堂に向かう道に二通りある。
150段に近い急な石段を登るか、曲がりくねった坂道を行くかである。
この両方が合流するところに観世音堂がある。
観世音堂の東隣りで、ちょうど石段を登りつめた正面には樹齢400年余り、樹長約35メートル、目通り5.9メートルにおよぶ老杉がある。
「赤和観世音の大杉」と示した立て札があり、
「古老の伝承によると赤和観音
がこの地に勧請されたのは
遠く桃山時代であり、この大杉
の脇の観音再建は元禄十五年
(古文書による)である。
赤和観音は近郷近在の信仰を
あつめている場所であり
大杉は遠く望まれ杉として
典型的な美樹である」
と説明書きが添えられてあった。
また迫ってくる巨岩の峡を利用して穴観世音や風の神が祀られている。
←風の神
穴観世音像は石造りの立像で、像高72センチメートルの聖観世音である。
雑木林の間をぬって、善光寺平を白糸のように千曲川が流れ、アルプス連峰がはるか遠くに見える絶景の地である。
牧弘「高山村赤和の観世音さん」より
観世音堂は字鬼岩7607の2番地に、京都の清水寺の舞台を連想させるような懸崖造りで、ひっそりと建てられている。
現在の本堂は明治十九年に再建されたものであり、その棟札には建設委員に亀原九三郎氏らの名前がある。
昭和三十四年には、それまで茅葺きの屋根であったものをトタン屋根に葺き替え工事をしている。
規模は桁行柱間で三間(約5.45メートル)、梁間二間(約3.63メートル)である。
内陣は格子戸と「牡丹」を彫ったひときわ印象強い欄間でさえぎられ、格子戸ごしにわずかに見ることができる。
しかし、観世音菩薩は唐様趣味の加わった厨子に隠されて秘仏となっているため、すぐには見ることができない。
礼堂部分は一間通りになっていて性格のない平板な空間となっている。
その天井は桝形に区画(10×8区画)された格天井になっていて、格間には絵や文字が描かれている。
当地方には「天井板のご利益」を信じている者達が多勢あって、これらの天井はそうした信者によって供えられたものである。
また、縁側が三方にめぐらしてあり、その外端には高欄が設けられている。
柱は丸柱が一般的であるにもかかわらず、木割りの細い角柱になっている。
柱と柱の間には土台上に地覆、出入口上の位置に鴨居、頂点に頭貫がそれぞれ入れてあり、柱の頂上には台輪が置かれている。
よくある木鼻は少ない。
ただ、鴨居には若葉の装飾彫刻がある。
それは円弧状の曲線、反転曲線及び直線からなっている渦文様並びに薄肉彫文様でできている。
組物は四隅の柱上が出三斗組、中間の柱上が平三斗組になっている。
従って、主屋の軒桁は前方に出ず、柱位置の桁で軒を受けている。
大斗、肘木、巻斗と積み上げられ、これに繰形のある実肘木が軒桁を支えている。
軒回りは地垂木・茅負及び隅木からなっている。
垂木は平行垂木であり軒反りも緩やかである。
重そうな厚みのある入母屋の屋根であるが、木割りの細い柱がそれを支えているためか、とても軽々して写る。
参道から観世音堂を見上げたとき、そこには何ともいいようのない洗練された美しさを観ることができた。
牧弘「高山村赤和の観世音さん」より
大巌山に正観世音菩薩を安置する由来の解説
仰ぐ当山を大巌山といって、正観世音菩薩を安置し奉る由来は、当山より遙か東の岩窟に悪鬼が住り、ゆえに「字鬼岩」と称し、 しかるにある時、当山大巌に光明赤々として正観世音菩薩が現れ給いければ、悪鬼は目がくらんでにわかに退散してしまいました。
里人は衆生済土の霊徳はこの正観世音菩薩の利生と感じ、大巌山を安置し奉ったのが始まりと言われます。
然る後、桃山時代の文亀元年(1501年)の頃、了誉上人常陸国茨城郡水戸徘徊の節、夢相によりて当山に尋ね来たり、 岩窟に本堂を建立し、祈念を怠らなかったので、知識の明達なるとぞ。
幽玄名誉の菩薩の霊徳を感じ信仰する者が多かったといいます。
然るに上人寂滅の後、何故にや菩薩が隠れ給いければ、当所喜右エ門という者が深く憂い、元禄15年(1702年)甲斐国巨摩郡猿橋村安居の由、 夢相に依って正観世音の尊像をお供えし、大巌山麓に本堂再建してより霊徳が益して再び盛大となりました。
弘化二年(1845年)には上赤和組内に本堂を相設安置し奉ています。
明治になって廃堂の規則により、古赤和浅吉さんの名義をもって守護することになりました。
その後、明治十三年上下赤和組合併のみぎり、現在の大巌山を復旧し奉り、赤和組の共有となって現在に至っています。
向かって右側の像は、足裏の墨書きに「萬延元年申五月・奉彫和田四郎」とあり、三代目亀原和太四郎の作であることが分かります。
像高44センチメートル、体幹部材を堅に前後に割って接ぎ合わせて仕上げてあります。
本体は正面し、右手は肘をまげて前に出し親指と薬指をつける下品の形をとっており、左手は肘から先が欠けています。
髪は螺髪で、高い髪髻には化仏のようなものが彫ってあり、体内に小仏像が納められています。
向かって左側の像は一本造りで、本体は正面し両手は胸元で合掌し、頭上には宝冠をつけています。こちらの像は室町時代の作と伝えられていますが、作者は不明です。
本尊の両側には百体観音像が並んでいます。
これは堂改築の翌明治20年(1887年)に村の人たちが寄進したもので、各観音像の台の下に寄進者たちが諸国の霊場から持ち帰った砂が納められていました。
←ご利益が描かれて奉納された絵馬
千曲川西岸の長池の住人・長田清助は東岸の中野に仮の住居をなし、夫婦で針に思いを砕いて世の営をなしていた。
清助には常五郎という知恵遅れの弟がいた。5月20日の昼ごろ、常五郎は2歳になる清助の子供・清次郎を背負ってどこへ行くというあてもなく出かけ、道に迷ってしまった。
夕暮れを告げる鐘を聞いて、常五郎は清次郎の子守をしてどこへ行ったのかと辺りに聞いて回ったが行方は分からなかった。 声を嗄らし精も尽きて夫婦は家に帰り、嘆き悲しんで狼狽する声を聞いて近所から我も我もと見舞いに来た。 打ち捨てても置けないので、草の根を分けて探そうと、松明を振り、鉦を鳴らし、太鼓を打ってあちこち探したが見つからず、日の出の鐘が鳴るころになり呆然としていた。
5,6人が須坂の方まで出かけてあちこち探し、疲れて太子堂の側で暫く休んでいたところ、一人の木樵が通り過ぎた。
もしやと常五郎の風体と小児の姿形を尋ねると、この道筋を通り過ぎて行ったというので、高井野村の赤和を尋ねて行った。
常五郎は小児を背負ったまま家に帰ることを忘れ、赤和観音の境内の草が生い茂った原で木の根を枕にして疲れて寝ていた。 小児は草の間を這い回り、前を流れる川の辺で遊んでいて、あわや落ちそうになったとき、運良く草の蔓に捕まって助かった。
折しも、そこの村長の清四郎という情け深い人の目に止まり、かわいそうにと常五郎と一緒に自宅に連れ帰って養った。
在所や親兄弟のことを聞いても常五郎は台所に伏しているばかりであったが、その時に探し当てられた。 主に助けられたことは偏に観世音のご利益であろうと肝に銘じ、早く連れ帰って両親を安心させようと、厚くお礼を言って出ると、主は門まで送り出してくれ、その親切は言葉に尽くせない。 沈み掛けている月に向かって振り返ては観世音に手を合わせ、急いで中野へ連れ帰った。
両親は歓喜し、赤和へ行って厚く礼を尽くし、観世音に拝礼して慈悲に感謝した。
つる草にすがらぞ
嬉し法の庭
文化七庚年六月吉日 長田清助
敬白
最終更新 2013年 9月 2日