高井野の歴史>村の伝説と歴史

赤和

公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


伝説と歴史 赤和の巻

『高井村公民館報』第32号「村の歩み」(昭和28年5月)より

赤和 上:入選標語も明るいポスター
中:庭をはく子供
下:観音堂

里の桜は散ってもう葉桜になっている。 田圃は一面の麦の緑それに菜の花の黄色が良く調和している。

赤和観音  ここ赤和の観音さんは段々畠をのぼりつめ、4、50米の急坂を、そうして100段に近い石段をのぼると雑木林に囲まれたところ−山桜が一片二片散りはじめ、深山鶯の声も老いている。

←赤和観音のしだれ桜と観音堂

ハアー花の古赤和
  観音さまの
   アヨイトセコリャセ
 月はおぼろに
  散るさくら ソレ
 高井ヨイトコ ヨーイトナ

むかし東の方にあたる鬼岩に悪鬼が現れ、道ゆく人をおそい又里に出ては、方々を荒らしまわっていたが、この地に霊験あらたかな正観世音菩薩が現れこうこうと光明が光り輝いたところ、鬼は目がくらんでいづこともなく逃げていったという。 桃山時代、了誉上人のすすめにより村人はここへ本堂を建てた。 その後徳川の中期元禄15年に本堂を再建した。 この頃から霊験が近郷近在に知れわたり善男善女がお願をかけに大勢参詣するようになった。

観世音堂  縦横に組んだ舞台は、京都の清水の舞台を思わせるもので帯のように流れる千曲川、善光寺平が一と目で見られる、天下の絶景。

←観音堂

ハアー恋か涼みか
  八木沢のほとり
   アヨイトセコリャセ
 団扇持つ手が
  螢狩り ソレ
 高井ヨイトコ ヨーイトナ

部落の裏八木沢の清い流れに沿った谷地には何枚もの小さな田が段々に並んでいる。 ここまで拓いた先人の苦労がしのばれる。

村にゆかりの海福寺―。
 又村の裏山には、むかしの人たちが金の夢をえがいて掘ったという金穴が今に残っているが甘藷の貯蔵庫になっている。 そのむかしの金の夢はいずこ。

赤和特産に大根がある。 何百年か以前からの人達が改良に改良を加えていまの赤和大根にしたという。

衛生的にも恵まれた条件にあるこの部落は、昨年、久保とともに村の環境衛生のモデル部落となった。 はえも蚊もいない村はいつもきれいに清掃がゆきとどいている。 小さな子供達さえ衛生ということが習慣となり庭の掃除ぐらいは、彼等の日課の一つになっている。 昨年は郡外からの視察者が200名に及び、県下の環境衛生優良部落として県知事表彰を受けている。

働く者の明るい環境衛生、健康で文化的生活を営む権利は、村人たちの不断の努力によって培われてゆく。


部落紹介 赤和の巻

『高山村公民館報』第12号「部落紹介」(昭和33年2月)より

環境衛生の優良部落 今後の課題は農道の開発

赤和名物数々あれど
 春は花咲く 観音さまへ
 夏は涼みに 八木沢川へ
 秋は名高き 古赤和の大根
 冬はスキーに 殿畠へ
 嫁に来るなら赤和がいいよ

毎年春祭りに八木節の節で唄い踊られる赤和音頭の歌詞であるが、赤和部落には名所、名物が多い。 荒井原部落の東方にゆかりある海福寺からはじまって細長く家々が並び、部落の東裏山の中腹には縦横に組まれた3間ほどもある高い舞台を持つ観音さまがあり、京都の清水寺をおもわせる天下の絶景名所があり、当部落に水源をもつ八木沢川の清き流れが区内の中央を貫いている。

人口は丁度3百人、戸数が57戸、95パーセントが農家であるが、1戸平均の耕地面積は7反4畝歩、平坦地と比較しての山間地の耕地面積からすれば決して多いとはいえず大半の農家から勤め人や出稼ぎに出ており、1戸1人平均が農業以外の仕事に従事している。

特産物というほどのものはないが、換金作物ではタバコ、養蚕、ホップの順で、最近リンゴ苗の新植が相当あり、リンゴ栽培への意欲と熱が高まってきた。

又当区は傾斜地で地形的にも恵まれていず、農道も悪く、未開発の所が多くその開発、改修こそ当部落に課せられた最大の事業であり、現下の急務でもあると思われる。

一方文化活動の面では相当活発に展開されており、青年会などでは俳句、ペン習字等のグループ活動が盛んである。 又数年前には県下の環境衛生優良部落として県知事表彰を受け、以後衛生面に対する関心が全戸に見られ、働く者に清潔な環境、そして健康な文化的生活が営まれ、区内には明るさと円満さがあふれている。


信仰の厚いムラ―赤和

『館報たかやま』第446号「―ムラの成り立ち―」(平成7年1月)より

赤和は八木沢川に沿ったムラです。 明治以前は、上赤和と下赤和の二つに分かれていました。 上赤和の上の端の家と、下赤和の下の端の海福寺あたりの標高差は100メートル以上あるでしょう。

六地蔵尊  大昔は上赤和のそのまた上の方、「()赤和」に住んでいたと伝えられています。 有名な赤和観音の登り口、六地蔵が並んでいる上のあたりの緩斜面です。 ここは山の中腹の畑地で、石垣など住居跡が残っています。 近くに水の沸いている池があり、水には困らなかったと思われます。

←六地蔵尊

「古赤和」に住んだのはいつ頃かわかりませんが、数百年以上昔のことで、やがて、もう少し広い上赤和へ下りてきて生活するようになったのでしょう。

赤和観音が開かれたのは中世から近世に移る、今から400年ぐらい昔のようです。 その山をさらに登ると、大きな岩山があります。 大昔の人々は、こういう岩に天から神が下ってくると信じていました。

下赤和にはもと蓮正寺(日滝の本郷)があり、海福寺もあります。 上赤和には踊り念仏などの信仰行事があったと伝えられ、赤和は信仰的香り高いムラです。

さらに、久保から山を越えて上赤和へ出る道筋には大日堂があり、さらに東へ行くと、また山を越えて黒部に通じます。 この道は「謙信道」と呼ばれる古道で、宮村−山ノ内町菅に下り、須賀川をへて木島平−飯山−越後に通じる大事な道です。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月23日

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