高井野の歴史>村の伝説と歴史
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『高井村公民館報』第37号「村の歩み」(昭和28年10月)より
上:硫黄の積出し
中:森林組合製材所附近
下:庚申さんと桜
「わしらが、子供の頃は、このへんは、家が2、3軒しかなく一面の林で蟻づかばかりだったなー世の中もずいぶん変わったもんさー。」
古老たちは語る。
二ツ石でも、この樋沢は、いまでこそ商店あり、工場ありで、14、5軒とにぎやかになったが、それもここ6、70年のことだというから歴史は若い。
本邦屈指の産出を誇る小串鉱山の硫黄も、元山からケーブルでここまでおくられ、ここから須坂駅まで毎日、トラックで運んでいる。
又、造林指導から製材まで行い、県下の模範森林組合の折紙をつけられた森林組合の製材所のあるのも樋沢だ。
二ツ石でも樋沢は商店街を形成しており、さき頃、これらの人たちが、商工会を結成し、店舗の改善、サービスの向上に乗り出した。
一方これと対象的なのが、普通に二ツ石と呼ばれるところ、その昔は草津街道を両側ではさみ、油屋などあり、上州との交易は盛んだったという。 その頃の部落の前の広い原は、春ともなると菜種の花が一面に咲き乱れているのが遠く千曲川のちかくからも見られたという。 が60年ばかり前に県道が新設されこの部落をとおらなくなって急にこの街道もさびしくなった。
樋沢との間に二つの大きな石がありそれが部落の名の起りだとも伝えられている。
又その近くに大きなしだれ桜がありその根元に、庚申さんが祭ってあり子供の耳だれをなおしてくださる神様だといい、いまでもお祈りにくる親たちがあるという。
その昔、豊野から高井野原を通って草津に抜ける道筋を往来していた馬方が、この庚申塔で一休みしたとき、豊野から持ってきた桜の木をうっかり忘れてしまい、それが根づいて大木に育ったと伝えられている。
←庚申さんとしだれ桜
ここは今商店が1軒もなく純農家ばかり、耕地が家の周囲にあり広い二ツ石原の真中の部落なので耕作面積も広く、農業経営の規模が大きく、他の部落に比べ歴史も若く新開地といわれているだけに全般的に新鮮な気風があり農業改善に対する関心が高く、他の部落にさきがけて農事研究会を設けたのもこの部落の青年たちだった。
新しい部落だけに家のつくりも明るく衛生的だが、ここは地下水が低く井戸の少ないことがなやみとなっており、その解決がこの部落の課題の一つとなっている。
『高山村公民館報』第4号「部落紹介」(昭和32年6月)より
二ツ石は高山村の中央に位置し松川の清流を北に有し、区の中央には樋沢川の支流が西に流れ、西方彼方善光寺平を一望に収め遠く夏なお残雪を頂く日本アルプスが南に走り一すじ白く千曲川と四季を通じての絶景地である。
区名二ツ石は大人が両手を広げて6人余りの大きな石が区の中程に南北に座し、一名「夫婦石」ともいう。
古く明治末期頃は氏神様を鎮り秋は甘酒祭として知られたことがある。
これより此の名が出たとのことである。
忽布は高水忽布組合設立当時より栽培者が2、3人有り、村を通じて北信地帯の元祖ともいわれておる。 戸数35戸、人口135人の小部落である。 又そばも当区の特産で、未だに手打ちそばが某家ではできるそうだ。 又現今料理界の先端をゆくアスパラガス「一名西洋ウド」も区農事研究会が村を通じ北海道から直輸入したもの、1町余反の作付けを有し春先の現金収入を得ておる。
日本鉱業界のベストワン北海道硫黄鉱業小串鉱山原動場も有り、山林資源の開発とその加工に牧製材もあります。 又高山銀座樋沢商工会の発展も目覚ましく若人の盆おどりと共に樋沢川端の納涼仕掛花火も区民の心を慰める一つでありましょう。
『館報たかやま』第330号「おらが村の名物」(昭和60年5月)より
その昔、高井野村と呼ばれていた頃の北東に位置する部落二ツ石は、名前の起りと言われる大きな石が当時の部落の端にあります。
道をはさんで南側の大きな石の上には金毘羅様が、北側の大きな石の上には、皆神山が祀られています。
←金毘羅大権現を祀る石
二ツ石部落の古老の話によると、ここには二ツ石神社があったそうで、今も高杜神社のお祭りの夜は燈篭を持って行くということです。
←皆神山を祀る石
いくぶん土が盛り上って、丘とも広場ともみえるこの土地は、1反余りの二ツ石所有地で、かつては諏訪神社・健御名方命をおまつりしたお社があって、盛大なお祭りでにぎわったということですが、明治42年、御神体が高杜神社に統合されてから獅子も宮村に譲ってしまったこともあり、現在、神社もなし、獅子も舞われていません。
太い杉や、からまつの木も道路が開いてから、冬は路凍結で危険だということからほとんど切り倒され、つるばら等が伸びていますが、神様が祀られている大きな石の前はきれいに手入れされています。
金毘羅様と皆神山には年の始めには、新しいしめが飾られます。
金毘羅様は薬師十二神将の一つで健康祈願を、皆神山は色々の神様の集りで、その中の水神様が守ってくださったとのお話でしたが、皆神山から紫地籍である役場までの間の二ツ石の子どもは今だかって川流れ等で死亡した事がないそうです。
『館報たかやま』第466号「―ムラの成り立ち―」(平成8年9月)より
二ツ石は紫の東に位置して、紫川に沿う集落です。
数年前に亡くなった松本利輔先生が「紫の古い家は紫川の北側にあるが、二ツ石の古い家は紫川の南側にあるのはどうしてかな?」と言われたことがあります。
皆さんも考えてみてください。
私もやっとその疑問が解けました。
紫は西南下がりの斜面(松川扇状地)上にあり、二ツ石は西下がりの斜面(樋沢川扇状地)上にあるからです。
大水が出たときの用心のために、川の上手に家を建てるのは、生活の知恵でしょう。
紫のムラができたのは1633年(寛永10)から1638年のころです。 二ツ石のムラも同じ頃できたといわれていますが、1662年(寛文2)の帳面に初めて二ツ石に4軒(紫は13軒)の家が記されています。 つまり、二ツ石のムラは紫より10年〜20年ぐらい遅れてできたのでしょう。
苗字からみると新井原・牧・奥山田などから出た人たちによって開発された新田村と考えられます。
二ツ石の地名は言うまでもなく東の外れにある2つの巨石からつけられたものです。
この巨石はおそらく何千年も昔から、二ツ石と呼ばれ、神が下りてくる場所として信仰の対象だったに違いありません。
もうひとつここには大事なことがあります。
このムラの北側、樋沢川から沖渡橋の区間(松南団地を含む)は、江戸初期から幕府直轄の
このように、二ツ石は高井野村では一番遅くできたムラです。 そのため、いろいろ悪条件が重なりました。 紫川の酸性水を飲み水に使わねばならなかったこと、紫川の水利権の関係で自由に田を開けなかったこと、入会権の関係から上州堺の毛無峠〜浦倉山の山野を利用しなければならなかったことなどです。
最終更新 2019年 1月31日