高井野の歴史>村の伝説と歴史

久保

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


伝説と歴史 久保の巻

『高井村公民館報』第34号「村の歩み」(昭和28年7月)より

久保 上:搾乳も多い山羊
中:子供会の道路清掃
下:整備されたコンクリートの水路

水越の棚田 「これは福島正則の御膳米の水田です」と青田を眺めながら老人はさも自慢そう・・・・・・・。

←水越地籍から見下ろす集落と棚田

ここ久保の部落は見渡す視野は総て山によってさえぎられているが、このような土地に居住する者は読書欲が盛であると古人が云った通り知識階級の多い部落としては昔から余りにも有名で、最近まで上級学校の進学者は圧倒的であった。
 明治の後期にこの部落から10名余りの教員が数えられたことからしても伺われる。
 天保15年頃の古図によると85、6戸があったと云われている。

また坊平と云われている所――。
 山の中にこんこんと湧き出る湧水の傍に一宇の寺があったが、世が進むにつれて寺は里に移転されたと伝えられ、今は一町歩余の平な雑木林がその昔を隠蔽するかのように繁り、池の辺には熊の足跡が見られる。
 また河野の地籍の山林に代官林と呼ばれているところがあり、肥沃な地を立証している。

坊平 久保地区から見た紅葉の坊平(ぼうでら)

坊平の湧き水 坊平の湧き水
(標高1,050m附近)

寺の跡 坊平の平坦地
(標高1,050m附近)

クマの糞 湧き水の近くにあったクマの糞

明治3年の中野騒動は北信濃に起きた大事件として数えられているが、時の代官高野大参事が重税をかけたことと、飯山、松代の騒動に人心が動揺していたとき、たまたまこの部落に死亡者があり、火葬をした火がのろしと間違えられ、各所から中野に押し掛ける群衆が続いた。
 勿論久保からも血気溢れる者がこれに合流したが、代官の奥方を斬ったのもこの久保の人であると伝えられ、その後処刑を受けた150名の中に久保から13名の斬罪や締罪者を出したと云われている。

火葬場所跡地 一揆のきっかけとなったとされる火葬場所跡地

いま久保の部落では環境衛生の事業に一致して向上推進を計っているいる。
 2百年前に非常にコレラなどの流行病が多発したため、熊野権現を部落の入口に安置して疾病の予防をなしたという。
 権現堂という地名もこれから生まれたものと伝えられている。

例祭の吹流し 熊野坐神社信仰の名残の吹き流し

肥土と経営の合理化から貧富の差が少ないこの部落には2町歩以上の耕作者もあり、農業経営の先端を走る現れとして農電組合を昭和21年に結成して精米、製粉、脱穀などを行い、誘蛾灯も村に先駆けて昭和23年に設置したことをはじめ、煙草栽培は23戸で全戸数の半分に近く、勿布栽培も7戸を数え、動力噴霧器でで消毒する姿が見られる。

生活の改善も環境衛生事業と共に並行され、台所の改善が全戸に完成する日も近い

教育に明け生産に働き、また80歳以上の長寿者の多いこの部落は健康に恵まれている。
 3百余名の笑顔は新しい村造りへの歓喜に溢れている。


昔からの理屈っぽ 畑の5割はりんご

『高山村公民館報』第16号「部落紹介」(昭和33年7月)より

明治10年の戸籍人別調帳によると76戸、現在60戸、約1世紀の間に2割ほどの減少は、日本経済の発展に伴う都市人口増加の必然的過程をおもわせて興味深いが久保人には一抹の淋しさである。

田13町歩、畑30町歩、1戸平均7反6畝は他部落に比して少ない方ではない。 往事は養蚕一辺倒であったが今はリンゴ、ホップがこれに代わってきた。 飼料作物を作って乳牛をとり入れている農家も数戸、殊にリンゴは全畑地の5、6割に植栽されていて上野地区が一大リンゴ園を形成する日は近い。

久保は堅い所、理屈の多い所と他部落では半分褒め、半分貶している。 しかし頑迷なまでに久保人はそれを美点とし確信して譲らない。 自立自営の精神が頑固者に見え、合理主義が理屈っぽく見られるのだと信じているのだ。 事実この二つが久保の背骨である。 権力に屈する事や円満主義の非合理は久保人にとっては我慢できないところだ。 明治3年の中野騒動に10有余人の犠牲者を出した抵抗精神は今でも久保の伝統の中で生き続けている。 嘗て高井村消防組公設の方針が定まったとき最も強硬に反対したのは久保であった。 しかし納得するやいち早く久保部はその役員、人員を揃えて役場を唖然たらしめたことがある。 合理主義者、久保の一面である。

さて上野リンゴ園を形成して「いまひとたびの」リンゴ景気を願う久保人の夢は四通八達した農道と中央を貫流する水。 そして善燐水中区と共同して素晴らしい公民館を建て、テレビ塔よりも高い真っ白な警監楼を建て、そこに取り付けられた拡声器から軽快な音楽が流れ、リンゴ園で働く人々の能率が上がり、乳牛は泉の如く乳を出し、牛乳を飲んで育った若者は皆、美女、美男である等々夢は尽きない。

”夢”しかし不可能事ではない。 久保の若い世代が、青年会が、4HCが力を合わせて張り切っているからだ。


高杜神社の周りにできたムラ―久保

『館報たかやま』第467号「―ムラの成り立ち―」(平成8年10月)より

高杜神社拝殿  久保には延喜式内社として千年余の歴史を誇る高杜神社があります。 そして、その裏山の勝山を名字とする家が30数軒あり、久保区戸数の半数を占めています。 やはり、久保のムラは高杜神社と勝山氏を中心としてできたと思われます。

←高杜神社拝殿

天満宮  勝山氏の本家筋の家が高杜神社をおよびしたという伝承があります。 勝山氏の鎮守神は天神さんで、伝承によると高杜神社と関係があるらしいのです。

←天満宮

勝山の裏の赤和寄りに「鷹放し」という字があります。 そこで鷹を放して鷹の止まった所に高杜神社(あるいは天神社)を祀ったという伝承もあります。

また、昔の高杜神社の神主の先祖は上州からきた祭文語りの子が賢さを見込まれ、大鳥居の傍らの勝山氏の家で育てられて神主になったそうです。 これらの伝承は、古い時代の姿を伝えるものと思われ、興味深いものです。
 これを私なりに解釈すると次のようになります。
(1)高杜神社の祭神は高毛利神(たかもりのかみ)(土着の神)と健御名方命(たけみなかたのみこと)(諏訪神社)であす。 中世、諏訪神社の勧請の際、勝山氏が大きな働きをしたのではないか。
(2)勝山氏の屋敷神の天神社は、高毛利神と深い関係があるらしい。
(3)勝山神主は勝山氏の一族であるが、上州吾妻地方の修験(四阿山を中心とする)と関係があるかもしれない。

勝山神官家の墓地  ちなみに高杜神社の裏手の山腹にある勝山神主家の墓地には、元禄以後の墓碑の間に五輪塔と宝筺印塔の石が数基分みられます。

←勝山神官家の墓地

さて、久保川は水量が少ないので、勝山を越して赤和の奥の湧水を引いて水田を開きました(字水越)。 この水については、久保の人たちの先祖が赤和から移ったので、水を引いたとの伝承があります。

*祭文語り・・・中世〜近世、錫杖(頭に鎖のついた杖)を振りホラ貝を吹き、歌祭文を唱えて門づけした山伏の旅芸人。


久保地区の小字・俗名
↑久保地区の小字名・俗名分布図(『会報高山史談』より)


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月31日

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