高井野の歴史>村の伝説と歴史
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『高井村公民館報』第35号(昭和28年8月)より
上:樋沢セギ取入口
中:思川橋
下:十二宮の老桜
北に山を背にした平和な村、黒部部落は、その名からして高井牧の牧場にゆかりがあったところと思わせる。
この部落の南の田圃の真中に4、500年も経たと思われる老桜がある。 その根元に「十二神社趾」ときざんだ石の碑が建っており村の碑とたちは、じょんの宮と呼びその昔、黒部の部落がこの附近にあり当時の産土神社の趾と伝えている。
←十二宮の桜と黒部の集落
又、部落の南に長者屋敷というところがあり、むかし釜淵という長者が住んでいたと村の人たちが語り伝えているが、くわしいことは誰もしらないようだ。 この屋敷跡に「長者の米とぎ井戸」という井戸があり、いまも白味がかったきれいな水がこんこんと湧き出している。
高井、日滝原の灌漑をひきうけている樋沢せぎの取入口は、部落の東方約1,000米のところにある。 この附近は両側の山から押し出した大きな岩に狹まれて樋沢川の川巾がせまくなっており景色のよいところ。 樋沢川から取入れられた水は、ここの76米の竜権淵隧道をとおって樋沢せぎに流される。 このせぎは又思川と呼ばれ、以前は割合に多くの幼い子供たちの犠牲者を出した川で、思川橋はこの部落の西入口にある。
33戸の全部が農家のこの部落の平均耕作面積は、9反5畝で村で一番広く、その上耕地が部落の周囲にあり近いので生活しよいところといわれ、そんなところから村の人々には、昔ながらの淳朴な気風が多く残っている。
が、この部落にもやはり時代の新しい波はひたひたと押寄せ、若い人たちによって農事研究会が設立され、農業経営、栽培技術の改良に生活改善に熱心な研究がすすめられている。
新しい農村の姿をみるのもそう遠い日ではないだろう。
『館報たかやま』第465号「―ムラの成り立ち―」(平成8年8月)より
江戸時代の黒部村は信濃全体から見ても代表的な小村の一つです。 江戸初期の村高がわずか53石しかありません。 1村はふつう200〜500石、どうして黒部だけ1村になり、2、3百石以上の新井原・堀之内等々が合併して高井野村のような大村がつくられたのか不思議です。
いま私が考えている違いは信仰(鎮守)と支配の二つの側面です。
つまり、高杜神社を鎮守神として一つに結ばれていた村々が高井野村となったが、黒部だけ鎮守が別だったということです。
黒部村の鎮守は大龍権現だったが、明治初年、神仏分離のさい潰されて、その跡地に現在の天照大神社が建てられたと伝えています。
大龍権現とは水神さんです。
黒部は内山(黒部の南前方の山)から流れ出る水に頼って生活してきました。
←黒部の天照大神社
数百年昔、黒部の人たちの先祖が草津温泉の麓の小雨村から移ってきて、
江戸時代にはさらに水が不足して、高井野村で樋沢川から引いた上堰の水を冬だけ分けてもらったり、牧村の鞠子からもらったりしています。 そういう水を得る苦労を重ねてきたので、村の中心に大龍権現を祀って、村中で水が枯れないように祈願したと思われます。
もう一つ、黒部村は高井野村と支配の面で違うのは、石盛です。
石盛とは検地のさい、決められる田畠の公定収穫量の基準です。
北信の村々は1反部あたり上田は1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗(以下略)、黒部村は上田(なし)、中田1石1斗、下田9斗と他村より低い率です。
その理由はわかりませんが、戦国時代からの支配の歴史によるのではないかと考えられます。これは今後の課題です。
最終更新 2019年 1月31日