高井野の歴史>村の伝説と歴史

牧地区全景
↑松川右岸から見た牧地区

公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
 『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。

 

伝説と歴史 牧の巻

『高井村公民館報』第31号「村の歩み」(昭和28年4月)より

牧 上:上水道配水池
中:明徳寺
下:部落の中央にある子安橋

海抜2千米の高原、全長2万米に及ぶ観光道路須坂草津線の起点であるこの部落は、その昔、平安時代の頃、高位牧とし鎌倉時代にいたり高井野牧として牧場のあったところ、 古くは柞原村といい、鞠子、科ノ木、福井、牧の平、稲荷、源内などに散在していた村落が天正の頃いまの地に移って牧村というようになったという。

 福井城は、建武3年南朝の臣香坂心覚が築いたものといい、後に天正年間、牧伊賀守為忠ここによったが武田方に追われ上州へ落ちのびたという。
福井城址絵図
↑福井城址絵図(『高井郡古跡名勝絵図』)
福井城址の看板  積る幾星霜に荒れはていまはわずかにその面影をとどめている。
←福井城址の解説

平安の末期、朝日長者という豪族が、この地に大きな邸宅を構えていたが、守本尊の阿弥陀如来を石舟に入れ土の中に埋めてこの地を去った。 後の人が掘り出してその屋敷趾に御堂を建てたのが明徳寺の起りと伝えられており寺の山号をそれにちなんで朝日山という。

いまも田畑を掘返すと石器、土器などの類がたくさん出るところからみると古くから人の住んでいたものと思われるが、いまのこの部落の祖先は牧場のあった頃の人たちではないかといわれている。

明治22年高井村と合併していまの姿となった。 この山村にも新しい時代の浪はひたひたと押し寄せ、昭和24年に上信越高原国立公園が誕生するに及び、一躍クローズアップされ、又昨年上水道が完成しいままた灌漑用水池の建設が計画されている。

生産と生活を直結した明るい住みよい村の建設、これがこの地の人たちの現実の問題としてとり上げられている。


部落紹介 牧部落

『高山村公民館報』第9号「部落紹介」(昭和32年11月)より

全戸に有線放送が 村の文化先進地

村一番の大部落「牧」は世帯数186、人口937人というから村の15%近くを占めることになる。
 部落の90%強の170戸が農家で耕作面積は水田28町6反、畑114町7反の計143町3反で農家1戸当りでは水田約1反7畝、畑約6反7畝というから1戸当りの耕地は8反4畝となっている。

牧では、水田は部落内にあるが畑は部落内では少ないので大部分が二ツ石原以西に出て耕している。 そんな関係で労力も思ったようにかけられないので桑園の23町4反は別としてその大部分の97町6反が普通畑となっていて、りんご等の果樹園で一応結実年齢の8年生以上は僅か3町5反にすぎないこともこの部落の特徴だろう。

20年ぐらい前はどの家にも馬が飼われていたが、いまはそのほとんどが役牛におきかえられ119頭に及んでおり乳牛は12頭飼育されている。 鶏も700羽から飼育されており農家1戸平均4羽強になっている。

その昔、平安の頃は高位の牧とし、鎌倉時代には高井野牧として牧場のあったところという。 古くは柞沢村といって鞠子、科の木、福井、牧の平、稲荷、源内などに散在していた村落が天正の頃というからいまから約380年前にいまのところへ移って牧村となり、明治22年に高井村に合併した。

いまは見るかげもない福井城跡は、建武3年南朝の臣香坂心覚が築き、後に天正年間牧伊賀守為忠がここによったという。

また、明徳寺の阿弥陀如来は平安末期ここに居をかまえた豪族朝日長者ここを去るに当り石舟に入れ土中に埋めた守本尊と古老は伝えている。

近年海抜2千メートルのスカイラインとして脚光を浴びてきた上信越高原国立公園の県道須坂草津線はここを起点としている。

耕作面積は広く、山林資源は豊富だといい一見この部落は他に比較し恵まれているとは大方の見方だが、それはこの部落の人たちの江戸っ子に似た性格と新しいものにとびつくという気質によるもので個々の内容に入ると相当に苦しいのではないかとみられている。

一見、恵まれているように見えながらも悩はこの部落にもある。 それが狭い耕地に人間がどんどん増えることだ。 そのため換金作物に経営が変ってきてはいるそれにも限りがあり、また森林資源をたよる林業もまた限度があろう。 牧村気質に更に進取の気性を加えるときだとある人は語っている。


上州との関係が深いムラ―牧

『館報たかやま』第461号、462号「―ムラの成り立ち―」(平成8年4月、5月)より

牧の村の人たちのうち黒岩氏の先祖は上州から移ってきてまず字鞠子に落ち着き、後に字稲荷(子安神社から東の県道南)の方へ移ったと伝えられています。 移ってきた年代は分からないが、おそらく数百年以上昔、中世の戦乱の時代でしょう。

その他の滝沢・山崎氏らも同様に上州から移ってきたのかどうかはわかりません。 これらの人たちは牧で農業や林業をして暮らしました。 だんだん家が増えてくると、飲み水や使い水が足りなくなるので、村中で協力して柞沢川(たらさわがわ)から堰を引いて補充し、その下流に田を開くようになります。

そのうちに字藤沢(歴史民俗資料館を含む県道南)へも柞沢川から堰を引き、田を開きました。 こうして生産力が高まると貧富の差が大きくなり、大地主ができます。そのころ地方は乱れ、大地主は武力を備えて自分の財産を守るようになります。 こうして大地主は小領主(地侍)となりました。

牧氏の由来や出身地などもわかりません。 が、伊賀守が牧で牧姓を名乗っているところを見ると、牧氏はここの開発領主(地侍)とも考えられます。 そうすると、伊賀守の屋敷が字稲荷(その下が字くね下)あたりにあったかもしれません。 牧氏が牧村の小領主になると、農民は牧氏の小作をしたり、ときには戦争に駆りだされたでしょう。

牧氏はここの地侍としてやがて須坂・高井地域の国人領主(地侍より上級の武士)須田氏の家中(武士団)となります。 そして、川中島合戦のころ、関東道の入口の関守に任ぜられる。 おそらく字屋地のあたり、柞沢川沿い万座道の谷口でしょう。 もう一つの樋沢川口(毛無道)には出雲守(姓不明)という武士(須田氏の家中)が任ぜられたようです。

16世紀半ば、群馬県吾妻渓谷の風雲急を告げる時期に須田氏は両関所を統括し、関東道口の固めとして福井城を構築します。 そして、牧伊賀守が福井城主として両関所の統括者に任ぜられたようです。

そのころ、群馬県の吾妻渓谷では、鎌原氏(嬬恋村鎌原城主)と羽尾氏(長野原町羽尾城主)が争っていました。 ここも北信濃と同じく鎌原氏は真田氏−武田信玄方、羽尾氏は越後の上杉謙信方と、甲越の戦いの最前線だったのです。 鎌原氏に急襲された羽尾氏は山道伝いに万座温泉から高井野に逃げて助けを求めます。
 そして3か月後の永禄5年9月、高井野の援軍を合わせて5百余人が毛無峠の向こうの米無山に陣取って鎌原軍と戦います。 が、羽尾勢は大敗して散りぢりになり、加勢の高井野勢もほうほうの体で慣れぬ山道に踏み迷い、幾日もかかってやっと逃げ帰りました。

当時須田氏の本家相模守満親は越後に逃げて上杉謙信の家来となり、高井野は須田氏の一族の配下になっていました。
 福井城から10数キロ登った毛無峠の手前にある湯倉洞窟の入口、テラスから中世の内耳土器と握り飯状の炭化米が出土しています。 ここに仮泊して警戒していた武士たちの残したものではないかと発掘調査の報告書は述べています。 その武士あるいは牧伊賀守の家来だったかもしれません。

やがて、信長−秀吉が天下を統一して平和の時代が訪れてきました。 その平和政策の一環として大大名の上杉景勝はが越後から福島県の会津へ国替えになります。 このとき秀吉は「武士を全部つれていけ、もし言うことをきかなかったら皆殺しにするぞ」と厳命しました。 武士を先祖伝来の土地から引き離し、反乱できなくするためです。
 北信濃の武士もみな景勝に従って会津に下ります。そのとき牧伊賀守は老齢のために牧に残りました。伊賀守の家来も残って農民となりました。 牧(北信濃の村むら)は農民だけの村になり、武士はいなくなりました(兵農分離)。 こうして、牧は中世の歴史に幕を降ろし、近世の村としてスタートを切りました。

牧の古い村は、字稲荷を中心として柞沢川から東にありました。 だんだん柞沢川から西へ発展し1600年代半ば字藤沢に小集落ができました。牧のムラはこうしてできたのです。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月23日

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