高井野の歴史>村の伝説と歴史
↑桝形城山の麓に広がる桝形地区
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『山田村公民館報』第28号(昭和27年9月)より
山のふもとに集結する17戸(112人)の小部落で前方に田畑を眺め山を背にし、田53反、畑118反(平均10反)の耕地を持ち、山林404反を13戸で持っている。 特殊作物としての桑27反、煙草3反、りんご2反、忽布2反など産額も110万円と推定され、米麦の販売額と併せるとその所得額は多い。
「田どころは金どころ」といわれる水田の魅力は当時の平面的農業経営にとってその取得は願望視されていた。 昭和5年に当時の久保田村長の肝入りで幾多の隘路を打破して開田を行い、その後種々の尽力の結果今日に至った。 昭和沖1丁余の水田は、同部落として経営内容において本村一とさせたといっても過言ではない。 血と汗の結晶である。
また同部落では有志による農電作業が進められ、脱穀機、籾摺機、精米機、製縄機などの施設を全面的に利用している。
最近公会堂設立の気運がうかがわれたが、いろいろの事情のため中止したと聞いている。
また古きものとたたかいながら新しい技術の導入、農業経営方式の確立、農村文化の向上にと青年層が集り農事研究会が設立されいろいろな面に活躍を行っている。 昨秋布設された電話の利用も盛んで明るい話題となっている。
その昔、30戸余も有していたといわれるが、遠くは県外又は延徳方面へ移住したため現在に至ったものらしく、急斜面な山の肌に家の石垣跡だったと思われる箇所が発見される。
西方の山に「飯綱権現(火守神)」の祠があり毎年秋にそのお祭りが行われる。
たまたま駒場部落との境にあったため祠の向きを駒場に向けたらその年は火災が起ったので神様の祟りだとか、縁組についてもいろいろなことが伝えられているが真偽の程は判らない。
恐らくその当時駒場部落が「御天領」なる孤立主義にあったため敬遠したことから出たものであろう。
今にして思えば笑止の次第。
農業という仕事は辛く、また他の職業に比べてきわめて地味ではあるが土の育てる宝を積上げる喜びはまたとない。 そしてまた農村の生活には味わいつくされないよさがある。 その中にある大自然のよさ、人間味のよさ、働く喜びを楽しみながら生きて行くためにはまず生活の安定が必要なのだ。 人々は生活の糧を求めて今もまた鍬を肩に野良へ急いで行く。
『山田村公民館報』第31号(昭和27年12月)より
文化の光寄りて輝く小学校、中学校の学び舎が澄み渡る大空にくっきりとそびえ立つところこれが馬場部落である。
文明の恵みの流れ来る県道にそっての平地は交通の便に恵まれ、小、中学校をはじめ東に万松山真法寺、西に竜甲山徳正寺、光西寺がある。
文献によると真法寺は鎌倉時代に山田小四郎国政の子=能登守が枡形城と共に築きし館跡で、徳正寺は公安7年下総国河辺庄に設立され天正7年この地に移されたもので、西本願寺執行長として活躍された故本多恵隆師の出生地であることは衆人の知るところ、また光西寺は元禄3年の創立でともに昔を偲ぶ語り草。
立ち並ぶ家屋は数うるに42戸(内非農家4戸)人口は245名、かたく結ばれて助けられたり、助けたりの平穏な営みは、住みよい郷土の建設に力を合せ校庭のプールからは防火に対処すべく用水が引かれ部落のすみずみまで自動車が通じる道路が完備している。
水田は23反、畑73反の耕地には土地改良に懸命な力と意気が見られ、期せずして収穫も多くタバコ、ホップ、切花などの所得も多く耕作者の生活を安定させている。
部落が背にする桝形山には鎌倉時代の”平山城に属した孤城と見るべきものか”桝形城があったという。 文献の語るところ当城主は能登守なる由。
区民には教職員8名を含み、分館活動をはじめ新生日本の明日の希望に雄奮する姿は誠に前途洋々、民生の安定に希望は豊かに燃え生活の改善と合理化の旗じるしのもと打って一丸となり黙々として忍苦に立ち向う姿は総親和、総努力でありやがては村の力と信じつつ明るい笑顔に桝形山を仰ぎみながら朝な夕なに農耕作業に区民は精励している。
『高山村公民館報』第14号(昭和33年5月)より
このたび馬場部落と矢崎部落が統合し”桝形区”が生まれた。
この部落統合は本村では最初のもので意義深きものがある。
統合については以前から両部落の人達の念願であり、要望でもあって昨年暮あたりから統合問題が表面化し、急進展し、その後両部落より選ばれた統合委員の人達によって熱心に協議され、その努力と熱意、そして両部落の人達の理解とで今春、めでたく統合ができその式典と祝賀会が去る5月15日、馬場公民館に於て盛大に行われ、新部落”桝形区”の発足を全区民で祝福し、将来の発展を祈った。
このような部落統合のことについては桝形区を模範とし小さな部落の多い本村において、今後の大きな課題として研究してゆきべきではなかろうか。
『高山村公民館報』第20号「部落紹介」(昭和33年12月)より
夢と希望と憧れを、わがふるさとへ運んでくれるもの・・・それは県道小布施・山田線である。 その県道を前に、朝な夕なに四季の変化を生活の上に知らせてくれる桝形山を背にして、生々育々を励む部落が”新生”桝形区である。 町村合併に呼応してまづ小部落の統合を打ってでた区民の理解力は、なんとしても高山村においては誇りうる一つであろう。
さて、桝形区は数うるに戸数60余戸、その4割が完全農家であり、生産産業のバロメーターである共同防除施設をはじめ農道改修に熱意をこめて、けんめいな努力を惜しまず、老いも若きも一丸となって、あかるいそしてのどかな村づくり、仲間づくりに励んでいる。
しかし、部落の実態は、働くに農地なく、生きるために働く職さえない人々の多くいることも特筆すべき一つであろう。 次代をになう若い人々が、限られた農地に思いをはせて、二、三男対策、民主主義世代の今日、あるべからざる差別の存在に、苦しみながらも一刻を惜しんで精出す姿のいじらしさは、涙ぐましいものがある。
想えば、その若い人々の力が”部落統合”の蔭の力ともなりその力のおよぶ限り桝形区の前途は洋々たるものがあろう。
特産物といってとりたてるまでもないが、地区によって米、繭は多く、従来も上位にあったが繭は最近りんご栽培熱にあおられて減少の一途をたどりつつある。
農地の高度利用が考えられ、葉タバコの生産は質、量ともに本村の上位にあることがうなづけるのである。
今一息で、区のすみずみまでトラックが入るという道路の完備は、防火施設とあいまって、やがてきたるユートピアを約束するものであろう。
区には3寺院のあることが、桝形区の存在を知る一つの目じるしでもあるようだ。
東に万松山=真法寺、西に竜甲山=徳正寺、光西寺がある。
郷土史の文献によれば、真法寺は鎌倉時代に、山田小四郎国政の子=能登守が桝形城と共に築いた館趾であるという。徳正寺は公安7年に下総の国河辺庄に設立されて、天正7年に此の地に移されたものであって、京都西本願寺の執行長として活躍された本多惠隆師の出生地であることは、衆人の知るところであろう。
←真法寺
徳正寺は公安7年に下総の国河辺庄に設立されて、天正7年に此の地に移されたものであって、京都西本願寺の執行長として活躍された本多惠隆師の出生地であることは、衆人の知るところであろう。
←徳正寺
光西寺は元禄の3年に創立されともに古い歴史を物語って居る。
←光西寺
その昔、桝形山には木曾義仲の遺子――義重の築いたという桝形城があって、その種類は平山城に属した釜形城であった由。
桝形城居城の主は、山田小四郎国政の子、能登守の居城と伝えられて居るが駒場地籍の”山の神”にある口碑には山田小二郎義国と伝えられている。
ともあれ桝形区の歴史は古く桝形山を背にした新生区の呼び名もそこから生れ、後々の世まで愛称されるであろう。
世は進む!私達の農業経営も生活もともに進まなければならない。 期せずしてリンゴの栽培にその意気が高められ、ここ数年の後には、一大リンゴ生産区となるべきリンゴの若木が、共同防除の施設から吹き出る薬液をあび、東方にそびえたつ山田小学校に学ぶ子らとともに、明日の世界の課題に息づいている。
表裏なきけんめいな努力に生きる区民のよりどころはただ一つ、総親和!!総努力!!であるのだ。
『館報たかやま』第451号「―ムラの成り立ち―」(平成7年6月)より
江戸時代、桝形は馬場と矢崎に、中原は中村と原宮に分かれ、この四つのムラは中山田村の本郷と呼ばれていました。
本郷というのは、戦国時代に領主の居館のあったところをいいます。
ここで居館というのは、真法寺の場所にあった山田氏の居館を指します。
右の四つの村は、居館を中心にできたムラと思われます。堀之内と同じです。
この居館のできた時期はわかりません。
ただ、戦国時代の川中島合戦のまっ最中、武田晴信(信玄)が山田左京之亮に、
「山田郷の武士たちのうちで真っ先に武田方についたのは感心だ。ほうびとして本領(中山田)を安堵し、さらに大熊郷(中野市)も与える」
と約束しています。
山田左京之亮は桝形の真法寺に居館を構えた武士です。
これは1557年のことですが、この辺が開発されたのはそれよりかなり前からと思われます。
馬場のムラは蕨平などと同じく15世紀半ば以前にはできていただろうと考えられます。
江戸時代、真法寺の西に西原氏・武内氏(光西寺の敷地)、東南に片桐氏(2軒、渋谷一二三さん・木山さんの屋敷)などの有力者が屋敷を構えていました。 これは山田氏の家来の縁の家が居館の周りに残ったのではないか、そして、これら有力者を中心にしてできたムラが馬場と中村だろうと考えられます。
原宮はやや遅く、馬場の西原氏の分家が中心になって開発したムラでしょう。 矢崎の水橋氏は、戦国末期か江戸初期に水橋(富山市)から移住してきたのではないかと、故片山正行先生は述べておられます。
最終更新 2019年 5月 9日