高井野の歴史>村の伝説と歴史

宮村

公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


分館を尋ねて 宮村の巻

『山田村公民館報』第27号(昭和27年8月)より

部落をあげて信仰に生きる

宮村の歴史を緒ば、第26代武烈帝に仕えた白麿という人が親子共に世を捨て此の地に住居を定めた。 其後皇極帝の御代に山背大兄王の御供をした三成と云う人又住居を定め、後次第に発展し諏訪神社を祭り、又平治の乱に死んだ人々を供養するために紫雲山花木堂を建立した。 これが現在の花木堂であるという。 同じ頃神社の地内に大木が栄えたので此の地を宮村と名付けたと云われる。

現在宮村に伝わる宝物に阿彌陀如来御肖像(見真大師御染等)六字御名号(蓮如上人)方便法身僧の図(覚如上人)があるが、右3巾は豊丘郷の円照寺の寺宝であったが、住職が江戸へ持出して質入したといい期限に受質する事が出来ずこれを聞いた宮村の者が組内の寄付金を以って受出したもので、それ以来宮村に伝るものという。

宮村は東西に走る県道そして上下高井を結ぶ宮村峠に通ずる分岐点にあり、戸数62(320人)の大所帯であるが、信仰の村として知られ5月7日には31回追悼会を盛大に行っている。

現在6戸の非農家を除いて田61反、畑250反(平均5反5畝)を耕作しており忽布、煙草等の栽培が盛んである。 又養蚕も盛んで約230貫の繭を産出するという。 又山林は公私有合せて45町余あり冬期には製炭が盛んで約1万貫の木炭を生産している。

此の村は各種団体の活動が非常に盛んで42年の伝統を持つ勇進会と戦後結成された修女会は互に協力して講演会、村民慰安会を開催しており、戦後の食糧事情に即応、4反の開墾に成功し現在では他と見分けがつかない程立派な畠になっている。 中でも勇進会員の農作物病虫害防除に対する積極的な奉仕は村民の感謝の的となっている。
 又部落協組では35年に亘って水稲苗代共進会を開き技術の向上に努めている。

分館長や指導者達は、
「分館では講演会の開催やロマンスカーに依る遠足、展示会等開催して参りましたが今後も一層充実した事業をやりたい。 又防火用水池の設置や道路の拡張等着々と進行しております。 尚水路の改修等もやりたいと思っています。」
と交々今後の希望を語っていた。


部落紹介 宮村の巻

『高山村公民館報』第15号「部落紹介」(昭和33年6月)より

仏教と文化活動の先進地

松川をへだてて対岸の牧からみると、南傾斜面の森のまわりに行儀よく屋根を連ねている大きな部落。

諏訪神社春宮  来てみればその森は、この部落61戸の人達が氏神と仰ぐ諏訪神社の1本の御神木、大ケヤキである。 昔のことなら大ケヤキに・・・と昔から唄い伝えられたこの木は、直径8尺、たくましく四方にのばしたその枝は数10間に及んで、恰も親鳥がその羽の下でヒナを育てる姿にも似て部落を抱き込んでいる。 特に宗教心の強い部落の人々は、この大木を信頼と尊敬の目で見上げている。

←諏訪神社春宮

宗教といえば朝に夕に盆鐘の音を聞かれるのはこの部落の特性といえよう。 今は若い者の参詣者が少なくはなったが、冬ともなれば名僧を招いて幾日もの間、法話に浸り、浅ましい心を洗練しようとする人も少なくない。

一方文化面では俳句、活花、茶道等のグループが活動し活発だが伝統の演劇はあまりにも勇名である。

一方農業の振興も年々盛んに行われ、農道、水路工事もほぼその完成をみ、今後に残された問題はタバコ、桑園等その他互に害をおよぼす作物の集団化、それに関する土地の交換分合の研究が行われ、地味ではあるが部落発展の焦点として、この問題は大きく期待されている。


宮村公会堂は勝善寺の御堂

『高山村公民館報』第45号、46号(昭和36年11月、12月)より

武田勝頼が天目山に自刃して、武田氏は滅びた。これは天正10年(1582)3月11日のことであった。 織田信長は甲州に入り武田氏の旧領を処分し、川中島4郡を森長可に与えた。

これよりさき信長は中国及び四国の経論の第一歩として大阪石山本願寺(顕如)を攻撃した。 これが有名な石山合戦である。 『邑記録』(堀之内藤沢義太氏所蔵)によると、山田の郷士藤沢兵部なる者が本願寺味方として郷党70人をひきつれ上京し、数度の軍功をたて大奮闘の末討死している。 この事により信長とは犬猿の間柄となったのである。

ここにおいて石山合戦に関係した水内高井両郡の土郷農民は、森長可の海津入部を阻止しようととして、大規模な一揆を起こし海津城(松代城)をはじめ、其の外の城々へ攻めよせた。 たまたま信長が本能寺に倒れたため、森氏は急遽上京し、その留守中に上杉景勝が無血で川中島4郡を略取し、慶長3年(1598)会津に転封されるまで16年間北信濃を支配した。

その後慶長5年森忠政が川中島4郡の領主として、美濃兼山より海津城に入ることになった。 森忠政は長可の弟であることから、兄長可の遺恨をはらすためか、さきの一揆に加勢した土豪農民を詮索して厳しい成敗を加えたのみか、古来苛斂誅求の語りぐさになった「右近竿」と称えられた苛酷な検地を施行して、農民を苦しめた。 奥山田・牧等は村民が離散すると云う悲惨なうきめをみたのである。 ことに奥山田についての詮索は厳しく、当時の郷士主水をはじめおもだった村人は厳罰に処せられることになった。 そこで八丁村の勝善寺にお縋りして命乞いをすることになった。

『邑記録』によると「この殿様(森右近太夫忠政)は仏法には少しも御帰依なくて御寺様の事成共よろいに御聞入なき殿様なり」と記してあるように山田村の歎願の事についてはなかなか聞入れなく、とりなしを引受けた勝善寺までも、難題をかけられるに至った。 しかし勝善寺の必死の斡旋でようやく山田村の歎願だけはかなったものの、郷士主水ばかりは何と御願い申し上げても許されず、その居城は引上げられ、主水はついに勝善寺で一命を落とすことになって、歎願事件は落着した。

この時より奥山田村と勝善寺との関係が生じたのであろう。
 現存する安政2年(1855)の奥山田村宗門後改帳(宮村区所蔵)をみると、全村民のほとんどが勝善寺の檀家になっている。

勝善寺由緒によると「慶長3年(1598)3月高井郡八丁村に猶一寺を建立し、右勝善寺の通所にな・・・云々」とあるが、古老の言によるとその昔八丁の勝善寺の御堂をゆずりうけ、宮村の地に再建したのが紫雲山花樹堂であることになっている。 この御堂は更に改修されて、今日の宮村公会堂に利用されている。 高甫村誌には須坂勝善寺は慶安元年(1618)須坂藩主堀大学直朝(三代直輝)の招請により、八丁村より須坂青木地籍へ移り、現在に至っていると記してある。

紫雲山花樹堂の本尊阿弥陀如来立像は徳川最上期作と思われる非常に見事な御像であり、又什物阿弥陀如来絵像は、これまた崇高な立派な御像である。 この絵像は足利絹と思われる絹地き金泥でえがかれた上品下生の阿弥陀如来仏で、須坂市円光寺所蔵の天文5年(1536)のお裏書きがある阿弥陀如来絵像と酷似している。


由緒あるあらたかな如来様 宮村

『館報たかやま』第340号「おらが村の名物」(昭和61年3月)より

その昔、宮村に仏心の厚い”松本宗仙”という人がおりました。 その人が全国を行脚し、敦賀(現在の福井県)の紫雲山来迎寺によられた時に、崇高な教えを授けられて「村の衆にもこのありがたいお話をしたい。 ついてはここに来たあかしを」と、来迎寺のご本尊は山を越えて来てご来光を仰ぎ、お参りしたということから来迎寺の山越えの阿弥陀様というのだそうですが、そのご本尊の身代りの像で、法然上人の弟子であり比叡山で修業した源信和尚の出といわれている阿弥陀如来像をいただいてこられて、それを自分の屋敷に庵を建てて安置し、村人に崇高な教えを伝授したのだそうです。
 これが現在の紫雲山花木堂のご本尊である阿弥陀如来様の由来です。

この如来様は足元の蓮華が中央から割れていて、両足でそれを踏み分けてお立ちになっているということから踏み分けの如来様といわれます。
 また普通の如来様は青い蓮華の上に金色の如来像がお立ちになっているのに、この如来様は蓮華も如来様も共に金色であるという珍しい如来様でもあります。
 このように由緒があり、珍しくあらたかな如来様ですので、大正の頃より村中が順番でおこもりをするようになりました。

紫雲山花木堂  現在、宮村の全戸が須坂の勝善寺の檀家ということですが、この勝善寺が火災にあい再建されるまで、宮村の地に仮堂を建立しました。 寺が再建されて、その堂が宮村のものとなりました。
 これが現在の花木堂といわれておりますが、みなさんもこの花木堂を訪ねられて、ご本尊のあらたかな阿弥陀如来様の前で合掌されてはいかがでしょうか。

←紫雲山花木堂


伝承記録からさぐる―宮村

『館報たかやま』第470号「―ムラの成り立ち―」(平成9年1月)より

奥山田は淵之沢を境にして東と西に分けられます。 その西側が宮村と関場です。西から奥山田へ入るには、深い松川の谷を渡るか、雁田山と平塩山、北は三沢山系を越えなければなりませんでした。 奥山田に木曽義仲の遺児潜伏伝説が生まれたのも無理がない険しい地形です。

義仲の遺児伝説は『倭田邑縁起』『倭田邑記録』『倭田邑史』『村の様子覚』等、書名は違っても内容はほとんど同じ伝承記録に書かれています。
 これは昔からの伝承が、江戸時代にまとめられたものですから、どこまで信じるかは人によって違います。 中世以前の文字史料はわずかしかありませんから、これらの伝承記録は、地名や出土品、その他の確かな史料によって確かめなければなりません。

諏訪神社春宮社殿  さて、宮村の鎮守神は諏訪神社です。これを迎える(勧請)際に重要な働きをしたのが藤沢氏のようです。 諏訪神社が迎えられたいきさつはわかりませんが、江戸時代に、諏訪神社勧請の古さを蕨平と争ったことがあるようです。 それは、最近、宮村の諏訪神社関係から800年昔と450年昔の年号を記した文書が出てきたことから考えられるのです。

←諏訪神社春宮社殿

この文書は、専門家に見てもらったところ、江戸時代に書かれたものでした。 では、なぜこれらの文書が作られたかというと、蕨平と争ったとき、諏訪神社の古さ(ムラ成立の古さにもつながる)証拠としてではなかったかとおもわれるのです。

蕨平が約600年前、安田氏を中心にしてできたムラとすれば、宮村はそれよりやや遅れて、藤沢氏を中心に片桐氏や松本氏らによってできたムラではなかろうかと考えられます。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 4月 3日

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