高井野の歴史>村の伝説と歴史

水中

鞍掛山から見た水中地区
↑鞍掛山の裾を流れる樽沢川に沿って展開する水中地区

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


伝説と歴史 水中の巻

『高井村公民館報』第30号「村の歩み」(昭和28年3月)より

水中 上:浄教寺の鐘楼
下:老桜

赤い夕日がアルプスの連峰に沈み夕焼雲が山に里に映る頃、今日一日の勤労を終えてのよろこびをそして来る明日がよりよい日であるように、と掌を合せ瞑想に更ける私達の耳に流れてきたあの浄教寺の晩鐘の響きを聞かなくなってもう十年に近い。 なつかしい思い出、平和に明け暮れしたこの山村にも太平洋戦争の危機はひしひしと押寄せ若者は昨日も今日もと召されて従った。

浄教寺の梵鐘供出  そうした中に全国の寺々の鐘もお国のためと召される日が来た。
 寺の住職のお別れの読経に白いたすきをかけられてあの鐘も壮に上がった。

←浄教寺の梵鐘供出

あの鐘の音を聞き途この地に育った水中の人達の祖先はむかし今の水沢の開墾地のあたり一名大滝といわれるところに住んでいた。 住み始めた発頃は詳だかでないがこの附近を掘ると、土器石器の出るところから、上代から山に獣を追い田畑を耕していたものと思われる。

降って戦国の時代に甲斐の武田勢に追われた戸田相模守某はこの大滝の西の山頂にとりでをきずき越後の上杉方の応援を待ったという。

大滝に住んでいた人たちにもやがて里に下る時代が来た。 あすこにもここにも新田が開かれていった。

そうして水沢、中善、田端などの部落ができ、明治の初期に至りこれらが併されて水中の姿がで出来上がった。 この部落の中程にある浄教寺の境内にある4百年の老桜はこの村の歴史を語り、響のない鐘楼は来る平和の春を待っている。


部落紹介 水中の巻

『高山村公民館報』第18号「部落紹介」(昭和32年11月)より

人情こまやか 投機的な面もある

朝の薄暗い中をたばこの葉をかきにゆくもの、牛乳を集乳所へ運ぶもの、かくして水中のものの一日の営みが始まる。

当部落は東西約3km、南北2kmの東西に延びる村落である。 これが又区分されて西から、水沢、北の端が田端、真中が中善、一番上が上リッ戸と呼称されている。 全戸数83戸、人口439人であり、高山村に於ても荒井原に次いでランクされている。 総耕地面積は畑31.64ヘクタール、田15.59ヘクタール、平均87アールは少なくないようだ。

当部落は南面に山を抱えるものの宿命即ち日照時間の制限という営農上最も不利な制約がある。 反面季節風が避けられる。 旱害の憂が少ないという恩恵がある訳だ。 これらを生かして取り入れたのがホップ、酪農、りんご等である。 たばこは実に5割の農家が作っている。

稔実作物に代ってこれ等特用作物の擡頭は時代のしからしむところであろうがやはり適地摘産ががい歌を上げ得ることではなかろうか。

水中ではどこの家へ訪ねても「まあ、吸っていっておくらい、お茶の一杯も飲んでいっておくらい」という。 この言葉の中に水中人の性格が披瀝しているように思える。 こうしておこなう囲呂端会議が「あきない」の話となり、投機的な人間性を形成したと言えそうだ。

所謂このような革新的気風が時代の潮によく処したならば発展的となるが、反面派生的に走るきらいもある。 よく商人が水中はよく売れるというが、金もないくせに買う。 これは堅実な久保とよく対象される。 古来よりの興亡の激しさも水中の性格を物語っている。

名物浄教寺の鐘声は今は聞かれぬが、その厳然たる鐘楼は往時を偲ぶよすがである。
 昔浄教寺は鞍掛山の麓大滝にあったと伝えられる。 詳しい区の歴史は後日にゆずることにする。

水中は道路、橋の多いことも無類だ。 毎年道路工事がある。 その都度区費がさむ。 産業方面もこれからだ。 水中の前途は決して平坦ではない。


赤和と並ぶ古いムラ―水中

『館報たかやま』第447号「―ムラの成り立ち―」(平成7年2月)より

水中は江戸時代には、西北部堀之内寄りの水沢と、東南部山寄りの中善とに分かれていました。 両者のほぼ中央から東の久保方面へ横道が走っており、その道上に八幡社があります。 その道下の小集落が田端です。

五輪塔  中善の上の外れからさらに奥山の方へ上がっていくと、広い田畑や杉林のある緩斜面に出ます。右上の尾根に月生城趾があります。そのはるか南が灰野峠です。 月生城趾の東麓の田畑の間を東へ行くと、道端に五輪塔が数基立っています。

←滝の入の五輪塔

鹿島神社としだれ桜  そのすぐ南の木陰に鹿島社が建っています。このあたりが水中のふるさとではないかと考えられます。

←鹿島神社と”しだれ桜”

その道を東へ2、300メートル行くと、杉林の中に五六八姫(いろはひめ)を祀った小さな祠があります。 鹿島社は小渕・清水マケの6軒が、五六八姫祠は小山マケが祭りをしているそうです。 このあたりには桜の古木もあり、満開の頃は花見客が訪れます。 この「滝の入り」の辺り一帯は、古代の高位牧の一部ではないかと私は考えています。

中世になって牧場が開発されて田や畑ができ、何軒か人家もできたのではないか。
 実は10年ほど前、堀之内の篠原三男さんから、「うちの先祖は昔、水中の奥に住んでいた」と聞きました。 当時は半信半疑でしたが、その後何回か滝の入りのあたりを歩いてみて、三男さんの話を信じるようになりました。

水中には浄教寺があり、その奥に弁財天を祀った小さい祠があります。 さらに字上野には柴田マケが祀る飯綱社もあります。
水沢不動尊  何と言っても水中の信仰で落とすことのできないのは水中不動です。最近りっぱな堂舎が再建されました。 不動さんは修験者(山伏)の加持祈祷の御本尊です。

←水沢不動尊

水中八幡社  もう一つ大事なのが、田端の横道上にある八幡社です。 八幡社は中世武士の守護神として崇められた神です。 元和7年の検地帳に「不動の前」「不動堂」「小八幡」の地名があります。「小八幡」は「古八幡」の当て字です。 水中不動も八幡社も中世から祀られていたと考えられます。

←水中八幡社殿

浄教寺はもと、西の方の鞍掛山の近くにあったと伝えられています。 これらの神社や寺・堂・祠などの由来を探ることが、水中の成り立ちを明らかにしてくれるだろうと考えられます。


水中文化財マップ ←水中文化財マップ


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 3月17日

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