高井野の歴史>村の伝説と歴史
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『高井村公民館報』第36号「村の歩み」(昭和28年9月)より
上:宿場の面影をとどめる紫
中上:一茶の起居した家
中下:葉たばこの乾燥
下:沖渡橋
一昨年4月改修され村道の中ではピカ一と称されている荒井原、沖渡線の中心にこの部落が存在している。 部落の南側は水田、北側は畑作地帯として農業経営の上にはまたとない好条件に恵まれている。
その昔草津街道の宿場であったと云われる通り部落は千本松から牧医通ずる道路の脇に軒を並べ、酒屋、穀屋、油屋などと当時の名称がそのまま残っている。
・・・庭の蝶 子が這へばとびはへばとび・・・
有名な俳人一茶は柏原からしばしばこの紫に足を運び門人であった久保田春耕氏夫妻及びその息子夫婦と楽しい余生を過した。
一茶は久保田家の裏手にある別家に泊り用があると附木に書いて使いに持たせて用を足していた。
今の久保田ひろ志氏宅には当時一茶が書いた掛軸や色紙など数多くありまた一茶が泊っていたという別家は隠居家と名付けられているが、久保田家の老桜を見ると一茶の姿が目のあたりに浮んでくるようである。
また堀之内で荼毘にされた福島正則の子、福島市之丞正利の位牌と苔むした墓が久保田家に懇ろに守られている。
←福島正利の牌
このように新開地といわれ乍ら昔から栄えたと思われるこの部落の農業経営を見ると土地の利と人の智によっていつも新しい方向に導かれ20年も前から花卉栽培に着眼された者を始め2丁2反に及ぶ苹果園の経営者、さては4反歩以上の煙草耕作者などが人々の目を引く。
スポーツの面について見ても団結心の強い部落だけに村民運動会、排球、籠球などいつもよい成績を上げているが昭和の初期に新聞配達からマラソンを練習し、選手として明治神宮に派遣された岡村重蔵氏もこの部落の出身者であることを忘れてはならないだろう。
高井と山田を結ぶ沖渡橋、そしてここにある玄関の部落、農業経営の改善と共に水道布設と台所改善の新しい感覚がここかしこに漲り住みよい生活の創造が大きな希望の下に打建てられている。
『高山村公民館報』第22号「部落紹介」(昭和34年2月)より
その昔、草津街道の宿場として栄えたと云われる通り、部落は千本松から牧に通ずる道路の両側に軒を並べ、酒屋、油屋、万屋などと、その当時呼ばれた家の名称がそのまま残っている。
昭和26年に改修され、しばらくして県道になった荒井原沖渡線の中心でもあり、戸数は63戸で人口は315人である。
紫の総耕作面積は44町2反歩で1戸平均は7反歩余り、そのほとんどが部落の前と後に有り比較的平たんな上に、日当り、通風、水利の便、いづれも良く農道もおおむね整備されており、土質がやや悪い欠点はあるが農業経営の条件には非常に恵まれている。 此のように地の利と以前から山林資源に乏しく必然的に農業を主として生活して来た紫人の農業に対する感覚は非常に新鮮で、特に換金作物を経営に取り入れるのが素早く、且つ合理的であると言うことと協同心に富んでいるということが特筆される。 花卉栽培や2、3年前より盛んになったトマト栽培など、紫が発生地になり組合を結成して他部落の人達に呼びかけ高山中へ広めていると云うように農業面でも高山村へかなり貢献して居る。
此のように他部落の人達に好印象を与えている面と、前期のように山資源に恵まれないので多くの家庭が田畑から得る収入と農閑期に稼ぎに出て生活し常日頃、算盤をはじき経営の合理化を研究しているため打算的だと云われ、又ぼやぼやして居ると暮しが成りたたなくなるので頭はよいが、理屈っぽく気性が激しいと評される。
紫は新開地であるので名所古跡は少ないが、信州の生んだ俳人小林一茶が柏原から、しばしば今の久保田ひろ志さん宅をおとずれて、残した日記、掛軸、句集などが数多く保存されていることは有名である。
高山村の誕生と共に中心地となった紫は俄然脚光を浴び、村の重要建物の移転、バスの開通道路網の整備等、今や新しき息使いに躍動し、宿場時代につづき第二の繁栄期を迎えようとしている。
『館報たかやま』第460号「―ムラの成り立ち―」(平成8年3月)より
紫は江戸時代に松川扇状地の扇央部分に、高井や山田の村から出てきた人々によってつくられました。 1633年(寛永10)領主福島正利の開発許可状をもらって開発を始め、4年後に検地を受けてできた新しい村です。 屋敷が8筆ありますが、1662年(寛文2)には12軒に増えています(「紫」の字のムラ名の初見)。
しかし、1621年(元和7)の福島検地帳を見ると、すでに「むらさき」に36筆、1町7反近い田が登録されていて、新井・南新井(新井原)・赤和・久保・掘之内の人たちが作っていました。 また、神明という所に9反6畝の畑があります。 これがもし今の神明下なら、紫のムラができる前から神明宮があったことになります。
つまりすでに前代から近くに田は開かれていたが、住む人もない荒地を先祖たちが開墾して、四分堰沿いにムラをつくり、用水開発時に水の神として祀った神明宮を氏神として祭るようになったらしいのです。
それは湧き水が2、3か所あり、四分堰が流れていて、飲み水と使い水に困らなかったこと、もう一つはこのころ日滝原の開墾も始まり、大開発時代だったこともここにムラができた理由です。
「むらさき」の語源は「村先」です。では、紫はどこの村の先という意味でつけられた地名でしょうか。
新井原と赤和のどちらの村先でしょうか。
正しい答えはわかりません。「むらさき」の地名と新井原のムラとどちらが先にできたかわからないからです。
もっと興味のあるのは、「村先」に「紫」の字をあててムラ名とした先人の風流心です。
最終更新 2019年 1月31日