高井野の歴史>村の伝説と歴史
↑ゆうゆう橋から見る平塩地区と平塩山
公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。
『高山村公民館報』第5号「部落紹介」(昭和32年7月)より
田5町歩、畑14町歩、戸数27戸のコヂンマリした部落、7反余の耕作農家で役場支所の所在地でもある。 山田地区では中位にあった。
煙草耕作熱の盛んな頃は2町歩に及ぶこともあったほど、その熱意が期待されていたが最近では半減になっている。 桑園2町歩2反歩(9戸)350〆を産出し農業所得の第1位をしめている。
後多聞にもれずりんご栽培熱は盛んで、年々増加の傾向にある。 好評のある共同防除施設を設けては!と企画されたほどだ。
部落の共同化がすすんでいる近頃、ここではこれといって取上げて紹介するものがない。 その原因はどこにあるかは別として、グループ間の親ぼくによる共同事業は成果をなしている。 その例として、山田地区の中央にあるため、しばしば県道の改修工事が計画され、それに併行して農道の新、改修も決定におよんだが、いざ実行にわたり県道に併せたため、いくたのアイロが生じ立消えとなり、ぼう大な計画もトン座してしまった。 それではアンマリダ! そこで受益者グループにより工事をおこない、横断道路2本を完成した。 代表者の尽力もさるものながら、みんなの団結は固く、当初の計画の一部を完了した次第。
話は違うが、目前に迫った「区有林の処分」などみんなの意志を表す試金石となるのではないか! しかしながら遠からず新しい芽吹きとともにこの憂いも昔の夢と消え去る日も近いことだろう。
また、一部では「農研グループ」を結成し、月例研究会の開催、折衷苗代の共同化などをおこなっている。 新しい一つのケースとして注目される。
嫁、婿には気の毒だが、春祭りはなく「観音祭」でお茶をニゴス程度。 これだけは昔から新生活運動?をおこなってきたそうだ。
俳句の山崎対笠、華道の平林喜道、謡曲の山崎巌さんの部落でもある。
『館報たかやま』第341号「おらが村の名物」(昭和61年4月)より
大人二人が腕を伸ばして囲める程の枝垂れ桜
山田地区でもこの枝垂れ桜は中塩に唯一だと聞き、その由来をお聞きしました。
その昔、定かではないけれど山田村役場誕生以前から植えられていたと言うことで、樹齢もかれこれ、百年を越えるのだそうです。
その枝垂れ桜の木の下に、仲良く同樹会のサルスベリ(百日紅)が植えられていますが、今はその百年の歴史には勝てずに日影で伸び悩んでいます。
そしてこの枝垂れ桜に見守られるかのごとく無縁仏が祀られており、話によると子供の具合が悪くなると、ここへ来てお参りをすると、不思議な事に治ったという伝説もあります。
毎年、観音様の縁日に当たる4月17日に、枝垂れ桜に「花が咲くか、咲かないか」と人々が口にし咲いた年にはその桜の花びらを一枚盃に浮かべて酒をくみ交わすそうです。
しかし、縁日に咲くことはまれだと言うことでした。
←中塩の枝垂れ桜
今年も間もなく、この枝垂れ桜が花を咲かせる縁日を迎えますが、今年は花が咲くか心待ちにしておられる区民の皆さんの顔が浮かびます。
咲くと良いですね。
枝垂れ桜・・・
『館報たかやま』第481号「―ムラの成り立ち―」(平成9年12月)より
中塩は平塩の西にあり、北にお伊勢山を背負い日当たりのいい場所です。
松川の扇状地が斜面から平地に移る場所です。
その境めに湧き井戸があります。
この湧き井戸こそ中塩のムラの原点と思われます。ここから中塩のムラは広がったのだと思います。
中央の湧き井戸周辺の平林・山崎両氏数件が協力してお盆の14日に半日井戸浚えをし、そのあと一杯飲む慣習は今もつづいています。 水の神への感謝の祭であり、大昔から伝えられたものでしょう。
←中塩の湧き井戸(奥が飲み水、手前が生活用水)
おもしろいことに、湧き井戸から西は山崎氏、東は平林氏と分かれていました。 中塩はこの両氏によって再開発されたムラと考えられます。 山崎氏は松川対岸の牧を扇の要として、関場・平塩・中塩に広がっています。元は同族と考えられます。 平林氏の総本家は公会堂の西裏の辺にあったらしい。 江戸時代に中山田村の名主や組頭を勤めたようですが、明治・大正ころ没落して小布施の大島へ移転しました。 現在は系図が残されているだけなのが残念です。
この家の先祖と思われますが、昔、淵ノ沢から引水して宮村・関場を通し平塩山を横切って平塩に落とし、用水堰(今の中山堰)を引く計画を立てました。 難事業のため領主の許可が下りなかったので、失敗したらはりつけの刑にされてもいいからと約束して許可をもらい、ついにこの堰を引くことに成功したという伝承(故平林倉蔵氏談)があります。 4、5百年昔の戦国時代のことでしょう。
中山堰は中塩の開田をおもな目的として引かれたものと考えられます。 つまり、中央の湧き水は、水量が乏しくて田用水としては限界があり、淵ノ沢からの引水がなくては、中塩の発展は望めなかったのです。
『館報たかやま』第116号(昭和42年10月)より
各地に群雄割拠した天正年間、常陸国太田城の「佐竹義宣」が「北条氏直」「伊達政宗」との間に起した「佐竹の合戦」は、神社仏閣などを焼き払い、悲惨をきわめた。
下総国河辺庄の徳正寺(弘安7年「1285」創立)もその為難をのがれて現在の平塩、御堂へ移転してきた。
頃を同じくして下総国から戦火をのがれて、ある寺の聖徳太子の像を背負った孫左エ門という人が、わずかのつてを頼りに同じ平塩へ移ってきた。
この人は日頃から信心深くこの太子像を御内仏として一心不乱に御守りを続けた。
しかし平塩は地味もやせており実入りも少なく生活は、文字通り赤貧洗うがごとく、その為生活は質素を極めた。
ある年孫左エ門の妻が病にたおれて、床に臥したきりとなり、仕事は遅れ、田植の時期になっても貧しさの為、人も雇う事ができず、孫左エ門一人で頓原で田かきをしていたが日暮近くになってもなかなかはかどらず困っていると、どこからか14、5歳くらいの童子がひょっこりと現れ「私はそなたにゆかりのある者だ、力を落さず頑張りたまへ」といって馬の鼻を取って田かきを続けたので日が沈む頃には立派に終ったので孫左エ門はたいへん喜び礼をのべようと見ると童子の姿は忽然と消えもうそのところにはいなかった。
不思議に思った孫左エ門が家に帰って、夕べの御つとめの御灯明を点けて見ると太子像の下半身がぐっしょり濡れていたので驚いて病妻に質したところ、先刻そのあたりで不思議な物音がしたと話した。
所々に落ちた雫のあとをたどって行くと家の東側の小さな池に続き、そのあたりには真新しい田の泥が落ちており池の水もにごっていた。
孫左エ門は今日の童子が太子像であった事に気づき、かつ驚き夫婦共感涙にむせんだ。
←聖徳太子腰洗いの井戸
その後孫左エ門はこのように霊験あらたかな仏像を一在家で御守りを続けては申しわけないと常敬寺(中野市赤岩)にまつる事とし太子像を背負い、現在の山田農協のあたり迄来ると太子はこの地を発ち惜しまれてか歩くことができなくなるほど重くなられたといわれ、このあたりを今も「オタチオ」とよんでいある。
その後常敬寺は移転して高田市寺町二丁目にあり本願寺から赤門を許された名刹である。
太子像は、御丈3尺5寸、天真爛漫な童顔で真黒く焼けた木造である。
太子が鼻取りをしたといわれる田は頓原の中程(黒岩義惟氏リンゴ園の北側)にあり、太子が腰を洗われた池は平塩(孫左エ門から15代目の牧常エ門屋敷内)に今も残っている。
今をさる390余年昔の話である。
←聖徳太子鼻取之田碑(昭和42年11月25日 15代牧常エ門建之)
『館報たかやま』第452号「―ムラの成り立ち―」(平成7年7月)より
平塩というムラは不思議なムラです。
江戸初期には中山田村は本郷(中村・原宮・馬場・矢崎)と平塩(平塩・中塩・坪井・横道・稲沢)の二つに分かれていました。
土地や年貢についての村政の基本になる文書が二つに分かれており、名主(村長)も江戸中期まで両方から出ていました。
後期になると名主が一人になり、片方からは組頭(助役)が出るようになりました。
それは、戦国時代に中山田村と平塩村に分かれており、そして平塩村の中心が平塩にあったからです。
その証拠が常敬寺(じょうきょうじ)の存在です。この寺は戦国時代に千葉の関宿から移ってきました。
平塩に有力者(武士)がいて大旦那となって、常敬寺を援助したのでしょう。
←常敬寺・徳正寺跡
本願寺の顕如上人が石山(大阪城)に籠城して、織田信長と戦っていたとき、1577年10月、信濃の真宗寺院と門徒が兵糧米を送って援助しました(勝善寺文書)。
その際、常敬寺と門徒は須坂市小山の普願寺と同じ20表の米を寄進しています。
桝形の徳正寺、中野市片塩の命徳寺は常敬寺に従って関宿から来たのです。常敬寺は後の1610年代に越後の高田へ移り、現在も続いています。
平塩区の旦那寺は命徳寺が1軒(坪井にも3軒)、残りは徳正寺ですから関係があるかもしれません。
平塩は戦国時代にはこのような大寺を支える力を持った大きなムラだったのです。 徳正寺跡と伝えられる畑(ミドウ畑)の上(北)に「ウエノ屋敷」とよばれる畑があります。 これは有力者の屋敷跡と思われます。
なお、シオは「塩」ではなく、粘土質の土地につけられた地名のようです。 平塩の土壌は黒ノボではなく、裏山が抜けてできた崖錐による粘土まじりの真土になっています。
最終更新 2019年 4月 8日