高井野の歴史>村の伝説と歴史

荻久保

荻久保地区全景
↑松川左岸から見た荻久保地区

公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
 『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


荻久保の巻

『山田村公民館報』第34号 「分館めぐり」(昭和28年3月)より

荻久保と云えば「ああ、あの山田温泉の下にある」屏風で囲んだような山を背にし、盆地の中にある日当たりのよい平和なところかと思わせられる。
 温泉を後にして岩魚住む清き鎌田川を渡って約15分、田圃の返目、村の中央を東西に走る大きな県道はその昔13代目の村長宮川順作翁(荻久保出身)が本村始めての県道改修、温泉より着手したが当時の地元は消極的な考え方により相当これを反対し、村一円の県道改修予定も翁の地元のみようやく屈服、この大事業も天神原の入口までで止ったという。

宮川霞外翁碑  荻久保に入ってまず目につくのは霞外翁の石碑である。
 この石碑は翁が明治の初年村民の無学を恐れ何んらの謝金をも受入ず、唯一人寺子屋風に今の蕨平宮川鶴蔵宅に開設、自ら講師となって教育に努め、又医学も勉強して身命救助にも志されこの恩恵者は多数名ものでその御徳を偲び子弟等が建設したものであるという。

←宮川霞外翁碑

この部落は明治8年と同12年の2回にわたって大火災に見舞れ一時全滅の憂目に陥った所であるが、みんな力を合せ苦難を共にし、村の建設に努めその復旧も早く今は戸数46戸(256人)の全農家、山林は公私有30町5反、農業のかたわら山仕事に従事、食糧も自給でき温和な日を送っている。
 山間の盆地にある荻久保は耕地少なきため須坂、高井地区まで出て耕作し現在田99反5畝、内須坂高井への出作57反(平均5反5畝)で、ホップ、煙草、花等の栽培も盛んである。
 耕地せまく又立地条件が悪いため高度利用しようと自然に研究家も多く技術が高まり、稲作の如きは、昨年行われた稲作共進会でも全員上位をしめ、部落別では山田1位ということである。

又。農作物の研究家M氏は生活改善の最も先端をゆく台所、カマドの改善にも力を入れ、一昨年より暖房を兼ねたカマドを考案、経費が少なく地元は勿論天神原などを始め村外までも普及されている。

中央の道下にまだ木の香も新しい公会堂(4間半×7間)は昭和23年11月竣工し老若男女の集会や憩いの場所として愛用されている。
 この程、ここへ婦人会では昨年村民運動会に部落よりの補助金(慰労金)を節約しコタツ布団1式を寄贈、又青年団でも労力奉仕で金を獲得、台所の改善をめざしたストーブを入れみんなに喜ばれ、尚カマド改善に一役かっているという。

分館長の宮川茂氏宅を訪れ他の模範となるようなことをお尋ねしてみると、
「時間は特に厳格で30分と遅れたことなく欠席者があまりありません。 これは若者の旺盛時代厳しくやられたのが身にしみてこれが習慣となったものです。 総ての事業は総会で行い役員会が決めて行ったということは一つもなく民主的に行っております・・・。 又、役員なども一人一役主義でお互いにその立場を経験し合せて個人の教養を身につけさせるようにしています・・・。 婦人会や青年団には物心共に力を入れ育成に努めております・・・。」
等と語られ尚、防火水槽も既に2ヵ所設置してあるが本年はいま2ヵ所の新設を予定、又近年に鎌田川を源水池として上水道も計画しておりますと希望を述べていられた。


部落紹介 荻久保の巻

『高山村公民館報』第19号「部落紹介」(昭和33年10月)より

大半が林産業に従事

本村の最東端に厳然と聳える中倉山を左手に仰ぎ、右手に善光寺平を遠望しつつ各戸南向に居を構えた48戸の部落、これが荻久保である。

部落の真中を東西に突走るよく改修された県道は山間には珍しく、東は山田温泉、鎌田入口、南入山の玄関口として朝夕の往来がはげしい。

部落の東寄りに宮川霞外翁の碑があることは道いく者の知る所である。 翁は明治前から明治中期にかけて主に教育、産業、文化に貢献された人であり、近郷の住民の受けた恩恵は大きい。 部落の姓がほとんど「宮川」であるも翁の直弟子であったため拝命したときく。 なお翁は清和源氏の後裔であると古史につたえられている。 かつて陸軍大佐としてしられた宮川茂三氏も翁の末弟である。

産業は主に農業であって耕作する水田面積は98反、葉タバコ、酪農、養蚕など特に熱心な農家も目立つが、一般的にはなんといっても耕地面積に制限があるので全労力の半数は他に向けられている。 山林資源に最寄りの環境を生かし林山事業に従事する者が過半数となることも古来よりの必然性であろう。 しかし昨今の諸情勢は従来のままの林産業務に満足をあたえず勢い技術改善と新産業導入に努力している者が多い。 又観光資源開発に効する熱意も強く、此の面に進出して来た人も目立つ。

時間の厳守と意見交換の盛なことなどは民主的会合の立場から見て長所ともいうべきではなかろうか。 その他機構改善生活改良に留まらぬ動きを見せて居る。

明治時代、13年間に2回もの大火に見舞われながら今日のように回復してきた荻久保人の魂は今後の経営上に大きな革新振りを示すであろう。


天白さんに守られて 荻久保

『館報たかやま』第336号「おらが村の名物」(昭和60年11月)より

荻久保は、ほとんどが宮川という姓だということにお気づきでしょうか。

このことは荻久保の歴史に深い関わりをもっています。 昔、宮川という庄屋がおり、荻久保から小布施の六川までは、他人の土地を踏まずともいけるというような、とても強い勢力をもっており、江戸時代にも苗字帯刀を許されていました。 一般の人が苗字を使うことを許されたときも「宮川姓を名のらぬとは何事だ、宮川家に反抗する気か」といった調子で、宮川姓一色にさせてしまったということです。

天白社  さて天白ですが、徳川屋敷神であり、荻久保の天白は徳川に通じた豊臣の落武者が逃げのびながら持ってきたものであろうといわれています。
 落武者の持ってきた天白を、なぜ荻久保の人達が信仰してきたのでしょうか。 屋敷神というものは、家の者だけで祭るものということで一時、祭りを行わない時がありました。 すると山仕事でケガをする人や、病人が多くでてしまい、これは祭りをしなかったためと、以後は細々とでもやろうということになり、今日に至っています。

←天白社

天白は防水・治水の神といわれているもののはっきりした由来はわからず、また荻久保も明治時代の2度の大火で資料が焼けてしまっており、くわしい歴史はわかっていないけれど、荻久保の人々が災いもなく、平和に暮らしているのも天白さんのおかげかもしれないと、11月の祭りには、老いも若きも、皆で集まって楽しい一日を過ごすことにしています。 天白さんは、そんな荻久保の人々を見守るように建っています。


広い山野を背後に持つムラ―荻久保

『館報たかやま』第469号「―ムラの成り立ち―」(平成8年12月)より

荻久保は2度の大火に見舞われ、みんな焼けてしまい、区長引継ぎの書類の中にも古いものはもはや残っていないそうです。

宮川霞外翁碑文  残された唯一の文字資料は、宮川霞外翁の頌徳碑に刻まれた碑文です。 霞外翁は江戸時代後期に椎谷藩の大庄屋を勤めた宮川荻之助の次男です。
 荻久保は全戸宮川姓です。碑文によると、宮川氏は信濃源氏の名門井上氏(須坂井上氏)の出身で、井上満実から12世の長安が荻久保に住んで宮川氏を称したとのことです。 なぜ宮川氏を名乗ったかはわかりません。

←宮川霞外翁碑文

若宮八幡宮  宮川長安が荻久保を開発して小領主(地侍)になったのは南北朝〜室町のころではないでしょうか。 荻久保の鎮守は若宮八幡社つまり源氏の氏神ですから、宮川氏が井上氏の流れということと合います。

←若宮八幡宮

荻久保の城山といわれる山が松川の高井砂防ダムの北側にあります。 山田温泉へ通ずる県道側から登ると、「蟻の門渡り」の狭く険しい尾根路が百数10メートルも続きます。 右は鎌田川、左は松川の谷が深く落ち込んで、その下にダムが見えます。 山頂は眺望がきく広さ10数坪の狭い平地で天白社が祀られていました。

そこから西に下ると、腰郭とも見える緩斜面が3か所ほどあります。 荻久保は奥山田の一番奥にあり、草津(関東)方面からの入り口にあたります。 戦国時代にこの山城は関東からの入り口を警戒するために設けられたのではないでしょうか。 当時の草津道は鎌田川の岸を登って行ったと思われます。

荻久保は南向きの山腹にあって日当たりもよく、田も割合多いし、山の幸はもちろん豊富ですから、昔の人には暮らしよい土地だったと思われます。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月31日

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