高井野の歴史>村の伝説と歴史

千本松

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


村の伝説と歴史 千本松の巻

『高井村公民館報』第28号「村の伝説」(昭和28年1月)より

千本松 上:大内蔵さんの碑
下右:おおくらせぎ
下左:中村さん

「中村大内藏尉(おおくらのじょう)

千本前、旅屋などの水田をうるおしている用水路に、大内藏(おおくら)せぎと云うのがある。

このあたり3百数10年前は一面の松林だったと伝えられる。 豊臣時代の末期大坂夏の陣―冬の陣に西の豊臣方の家臣中村大内藏尉重家は一方の武将として活躍したが城の堀を埋められた豊臣方は雲霞の如く攻め寄せる徳川勢に抗する術もなく遂に豊臣秀頼、淀君は自刃して世は徳川の時代となった。
 主君をうしなって家重は、徳川方の追跡をのがれて信濃に落ちのびた。 一時上州館林15万石の大城主だったという。 家重はその居を本村の千本松にかまえたが、当時の千本松は一面の荒野で松林がおい繁り松川の川風が吹きすさんでいた。 家重はここの開拓を思いたち、先ず水中方面より灌漑用水を引く業を起こした。

この水路は全長約1500米。いまに千本前の田圃をうるおしている。 後の世の人々は重家の偉業を讃え、このせぎを大藏(おおくら)せぎと呼んでいる。 重家は明暦3年(1657年)4月19日この地で永眠した。
中村大内蔵尉家重の墓石  村人はその徳を慕って彼の館あとに墓を建立したのが現在千本松公会堂前に残されている。

←中村大内蔵尉家重の墓碑

その子孫はそのまま土着し、中村理三郎さんは12代目に当たるといわれている。
 栄華を極めた館林城の主であった頃を偲んで彼が吹いたであろう遺愛の笛、それから弓、巻紙などが今も理三郎さんの所に伝えられている。


部落紹介 千本松の巻

『高山村公民館報』第3号「部落紹介」(昭和32年5月)より

「りんご栽培先駆」

千本松部落は本村西南地点県道須坂山田温泉線南のくらかけやまより5百数10米北に位置し、須坂市と境界する。 その戸数33戸凡そ人口164人で農業経営を主とした部落である。 凡そ3百数10年前はこのあたりまで松川より松林が続いておったと伝えられ、このことより千本松の名が生まれたとのことであるともいわれる。

又当部落は周辺が田畑で非常に労力もはぶかれ1戸当り平均耕作面積は約8反歩程度でおもに水田、果樹、養蚕、普通畑、葉たばこの順となっている。

中でも果樹栽培においては本村の(駒場とともに)元祖ともいわれ、今日では40数年の老木も相当に見受けられるが、年々新植され部落全戸が果樹栽培に熱心である。 今日では5町歩にして年間約100万円余の収入が見込まれ、水田とともに農村生活及び農業経営の合理的基盤をなしている。


千本松の開発と大蔵堰

『館報たかやま』第430号「―伝承と歴史―」(平成5年9月)より

大藏堰の取水口  千本松地区には、大蔵堰(おおくらせぎ)にまつわる開発伝承があります。 大蔵堰は、堀之内の西南で八木沢川から分水し、千本松の東へ引いた用水堰です。
 昔、千本松の人たちの先祖、中村大蔵がこの堰を開削して千本松を開削したと伝えられています。 最近まで千本松は中村姓だけでした。 公会堂の庭には大蔵のりっぱな大蔵の墓碑が立っています。

←大藏堰の取水口

この伝承は事実のようです。 1641年(寛永18)の「高井野村田畑開帳」を見ると、「千本松 大蔵」の名前で、字高池と字坂井に6畝22歩の畠が登録され、そのうえ「大蔵分左内」「大蔵分太右衛門」「大蔵分くん平」「大蔵分彦十郎」の4人合計2反1畝4分も登録されています。 この4人は大蔵の家来、あるいは小作人でしょうか。
 つまり、大蔵は江戸時代の前期17世紀半ばごろ千本松に実在した有力者です。 字高池は千本松の東ですから、大蔵がこの堰を開削した可能性もあります。

しかし、千本松にはそれより20年前、すでにかなりの田畑がありました。 字千本松・くらかけ・高池・立石などに合計5町1反余りの田と8町2反余りの畠が検地帳に登録されています。 その持ち主の中心になるのが「千本松 次右衛門」です。
 これを中村家の系図と比べると、
  中村氏大祖  中村次右衛門尉頼家
  二代     中村次右衛門尉景家
  三代     中村大蔵尉重家
となっています。
 この系図を信用すると、検地帳の「検地帳」の「次右衛門」は、系図の二代目「次右衛門尉景家」にあたり、千本松の開発は、大蔵の祖父(大祖の次右衛門)の代に始まったことになります。、戦国末の1570年代(系図)でしょうか。


先人塚墓

『高井村筆塚並先人塚墓調査書』(昭和7年)より

中村大内蔵尉家重の墓碑  所在    高井村大字高井字千本松区
 建碑年月日 明暦3年
 被建者氏名 中村大内藏尉重家

中村大内藏尉重家は水内大倉の城主なりしと。(一説上州館林藩士なりしと)
 千本松区の開基也と云う。
 子孫、弓、鎗、笛、無双流免許状等を伝蔵す。
 無双流免許状は慶長12年卯月24日 信家より中村六平へ下したもの。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 3月18日

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