高井野の歴史

「高井鉱山」〜褐鉄鉱鉱山

二つの「高井鉱山」

晩秋の樋沢川左岸 ←樋沢川の閻魔橋上流左岸(2018年晩秋)

高山村東部の樋沢川上流には、大正5年(1916年)から硫黄を採掘した硫黄鉱山と、昭和19年(1944年)から褐鉄鉱を採鉱した褐鉄鉱鉱山があり、どちらも「高井鉱山」と呼ばれていました。

第2次大戦末期から戦後の混乱期の10年ちょっとの間だけ操業した褐鉄鉱鉱山「高井鉱山」に関する記録をまとめました。


高井褐鉄鉱鉱山の開発

『信州高山村誌』第二巻歴史編には硫黄鉱山と区別して「高井褐鉄鉱鉱山」「高井鉄鉱山」と呼んで褐鉄鉱鉱山の開発経過などが記載されています。

高井褐鉄鉱鉱山跡  樋沢川の上流域の入口に架かる閻魔橋のわずか上流の左岸に、褐鉄鉱鉱山跡がある。 普通には「高井鉱山」と呼ばれるが、毛無峠手前に開発された硫黄鉱山がやはり高井鉱山と名乗っていたので、ここでは区別するために「高井鉄鉱山」または褐鉄鉱鉱山と呼ぶことにする。

←高井褐鉄鉱鉱山跡

高井鉄鉱山は、第2次大戦のまっただなかで発見された。 日本の国内では、武器・弾薬にするための鉄をはじめとする金属が不足していた。 小学生の少年団が動員されて、川ざらいまでして釘・缶などの鉄屑を回収し、家庭では銅製の火鉢や仏具を供出し、町村は神社の銅像、寺の梵鐘まで供出しなければならなかった。 鉄の鉱床があれば軍需産業としてとびつく次代であった。

東亜鉱業株式会社が昭和19年10月に採掘を開始した。 鉱床は破風岳の西北端の山脚にある。 褐鉄鉱の沈殿鉱床で、その鉱床は三つにわかれ、埋蔵量は第1鉱床が25万トン、第2鉱床が10万トン、第3鉱床が5万トン、合計40万トンといわれた。 鉱区面積は79万坪におよんでいるが、実質埋蔵量はかなり少ないとされていた。

採鉱は露天掘りによりおこなわれ、その産出量は月産1300〜1500トンであった。 元山より約9キロメートルの鉄索が架設され、高井村の千本松入口の集荷場に搬出し、そこからトラックで須坂駅に運ばれて、貨車で日本製鉄株式会社(兵庫県播磨)に送っていた。

↓「高井鉱山跡」


2基の索道

鉱山の鉄索  硫黄を採掘した「高井鉱山」では硫黄搬出のため大正9年(1920年)に索道が樋沢から山元まで架設され、昭和3年(1928年)8月に閉山しましたが、県境を越えた群馬県側で「小串鉱山」が創業されると索道は毛無峠を越えて延長され、昭和46年(1971年)まで操業しました。
 一方、褐鉄鉱を採鉱した「高井褐鉄鉱鉱山」では、昭和20年(1945年)に千本松前から山元まで褐鉄鉱搬出の索道が架設されましたが、鉱山資源が枯渇したため昭和32年に閉山しました。

←「高井鉱山」と「高井褐鉄鉱鉱山」の索道(『信州高山村誌』)

樋沢原動所 ←硫黄搬出索道の樋沢原動所(昭和8年頃、『写真が語る高井の歴史』)


「高井鉱山」

高井村公民館発行の『高井村公民館報』では、昭和28年(1953年)1月の第28号から村内の各部落を紹介する「村の伝説」(3回目からは「村の歩み 歴史と伝説」と改称)の掲載が始まり、同年11月の第38号では「新しい天地の巻」として「高井鉱山」が「福井原」とともに紹介されています。

高井鉱山 上:褐鉄鉱の積出し
下:高井鉱山の全景

月に500トンの褐鉄鉱を掘出している高井鉱山は、牧から約8キロメートルの山奥。

昭和15、6年頃、鉱石が発見されて以来いろいろな人の手に渡り、昭和18年いまの東亜鉱業株式会社が権利を買いうけ、当時の翼賛壮年団の人たちの勤労奉仕などありケーブルがはられ採鉱がはじめられて今日に至っている。

この間、昭和25年8月5日、豪雨による災害で宿舎などを流され、8名が樋沢川の濁流にのまれるという惨事があったが、関係者の努力により間もなく復旧し以前にもまさる生産を上げている。

いま鉱山に働く人たちは30余名、家族をも合せると50余名の部落をなしている。
 みんなが同じ仕事に従事しているので、自然と鉱山全体が一つの家のような他では見られない人情の美しいところがある。
 この人情の美しさこそこの鉱山のすべてだろう。

そしてこの鉱山にも又何年目かの冬が訪れようとしている。


昭和28年12月発行の『高井村公民館報』第39号には12地区の概要がまとめて掲載されています。

高井鉱山は昭和18年生まれ、戦時中はお国のためとはりきったおかげでいまもどんどん産出があがっている。


高井鉱山について

須坂市の斉藤孝一氏が『高山史談』に「高井鉱山」に従事した内容を寄稿しています。

高井鉱山の索道  昭和19年から20年にかけて当時、米子鉱山の所長、安田氏の主導により索道が千本松から元山まで建設が行われ、米子鉱山から転勤した従業員や竹前義三技師の努力と地元高井村の壮年団の小出伝六氏が先頭に立って大勢の団員がワイヤー運搬などの協力をして完成した。

←高井鉱山の木製索道(『須坂・小布施・高山・若穂百年史 : 写真集』)

高井鉱山  昭和20年秋頃に、入山したが、その頃は、元山、元動場、須坂駅積込などの作業所と、事務所は盛進堂で、所長は土屋氏で元山の責任者は辻元氏、現場責任者は佐渡から作業員を連れてきていた白川氏であった。 それと米子鉱山から来た数人と、飯場や社宅に住み、作業していた嬬恋村の人と数人いた。 当時は第1鉱床を採掘して索道場へ運び、千本へ送っていた。

←高井鉱山の概要

高井鉱山の山神祭  その後、人手も増えて昭和22年頃は山神祭も賑やかに行われていたし、その後、選挙で投票まで行われるようになった。

←高井鉱山山神祭 昭和22年9月12日
(『写真が語る高井の歴史』)

昭和22年頃から30年頃までが一番隆盛だったかも知れない。 22年頃北海道の静狩金山の一部を買って作業したが、他人の止めた鉱山の再開発など、うまくゆくはずがなく、僅かで引き上げた。 その時、発電機を持ってきて、金鉱橋の近くに設置して発電したので、山のランプ生活は終わり、その後第2・第3鉱床の開発に進んだがそれも僅かで終わりになった。

そんなことで、その前に開発した赤川鉱山や上高地付近の明神鉱床や、福島県の鉱山の開発をしたが、思うようにならず、元山の仕事は止めて七味温泉の上の鉱石を採掘して、北信陸送の車で運んでいたが、昭和32年頃は閉山状態になったようだ。


戦後の経過

『信州高山村誌』第三巻地誌編には「高井鉄鉱山」の戦後の経過などが記載されています。

長野県立農事試験場報告第11号「上高井郡に於ける鉱毒調査報告書」(昭和25年4月)によると、高井鉄鉱山の褐鉄鉱の品質は中位で、鉄50.41%、珪酸10.8%、硫黄1.057%、燐酸0.16%、銅0.01%が含有されているが、鉄以外の含有成分量は少ないとされていた。 しかし、鉱床が薄いために埋蔵量は必ずしも多くなかった。

昭和25年8月5日に、樋沢川支流の鉄砲水によって、河床の沖積段丘に設置されていたため事務所・飯場もろとも従業員10人が押し流される大災害となった。 元山には採掘と鉄索に従事する者が約50人ほどいた。

運搬は米軍から払下げの6輪車のGMCとトヨタのダンプが2台あって、運転手と助手4人で千本松前から須坂駅まで運び、貨車で兵庫県の広畑製鉄へ運ばれた。 採掘量が減ったので30年ころ渋沢唐松平のみはらや前の山の褐鉄鉱を一夏運んだ。 鉱床が底をついて褐鉄鉱の鉱山は昭和32年閉山となった。


旧第2高井鉱山

東亜鉱業は昭和29年(1954年)9月、松川の支流、白根沢源流で褐鉄鉱鉱山の開発に着手した。
 昭和32年(1957年)10月に採掘を完了した。

旧第二高井鉱山の生産実績
年度 鉄鉱生産実績(t) 品位(%)
昭和29 916 Fe 55
昭和30 3,490 Fe 53
昭和31 2,236 Fe 53
昭和32 1,005 Fe 52

高井鉄鉱山の鉄砲水

赤和の篠原薫氏が『松の湯荘だより』に「鉄砲水の思い出」を寄稿しています。

昭和25年8月5日、朝からバケツを引っくり返したようなどしゃぶりであった。 千本松前の原動場には鉄索を回す大きなモーターがあった。そのモーター室に水が流れ込み、吊り上げる作業に大わらわであった。
 9時ごろだった。元山から緊急の電話が入り、「飯場が、鉄砲水で流された。鉱夫数人が巻き込まれた。」という。
 後でわかったことであるが、飯場の裏の小川が増水し飯場に浸水したので、水防作業をしていたところに鉄砲水がきて、飯場もろとも10人が、増水し猛り狂う樋沢川に押し流されたのであった。 村中の消防団員による捜索がはじまり、その日に5人は遺体で見つかったが、全遺体を収容するに13日までかかった。

この時、小串の中継小屋に泊りこみで炭焼きをしていた牧区の親子がともに流され犠牲になった。 その供養に親子地蔵が現場近くに建てられたが、現在は湯沢線添いに移して祀られている。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 2月 3日

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