高井野の歴史>村の伝説と歴史

横道・坪井・稲沢


 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
 『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


横道の巻

『山田村公民館報』第24号(昭和27年5月)より

特殊作物の収益300万円

モデル部落として県下に知られる

横道部落は南北に通ずる平坦な中野―山田線に沿って、分館を中央にして北に製材事業場、南に共同加工場をを交え26戸(130余人)の人家が点在している。 此の中3戸の非農家を除き水田6町6反、畑14町1反(1戸当り8反1畝)を耕作して居り、山林は60余町所有している。 忽布、煙草、苹果等(3町歩)の特殊作物を中心にして経営し、その得る所得は300万円にも達するという。 此の外兼業として製材業、土建業、建築業等、部落内外より多数の労力を吸収して得る収益も多大な額に上る。

次に組織面は、
  総務部(分館運営、財産管理)
  経理部(予、決算の構成及び会計事務)
  農事部(技術浸透外)
  経済部(販売外)
  厚生部(衛生施設の改善、教育宗教関係、町村道の改修)
  婦人部(生活改善、講習及び講話会、寄講の運営)
  青年部(各種調査、教育娯楽読書会の運営)
以上7部により組織され、理事が各部長を兼ね、各部は部長以下5人の部員に依って構成され行政面と経済面の合理化した1本系統によって、各事業が推進されて居りその成果は著しい。

活動面につき組合長久保田氏は――。
「既に御存知の通り、さきに県教指連よりモデル部落に指定され、又共同体確立共進会に村農協、其の他の御推薦を受けて出品して居る次第です。 恵まれぬ立地条件下にあって皆んなの共同化によって凡ての事業が円滑に進行して居ります。 先ず立地条件の整備に着眼し農道の開設改修に努め水路を開き灌漑防火に備え、着々と実施して居ります。 特に婦人部において昨年度は生活改善の第1歩としてカマド改善が1戸のもれなく完成し本年より来年度にかけては台所、調理場の改良が目標です。 防火用水の引致水道の完備等も計画しています。」
と、いきいきと両目をかがやかせて語っている。

部落玄関口には明細な部落配置図が掲げられ、各戸の煙突の煙は朝空に立ちのぼり、さながら明朗部落の出発を意味するが如くであり、理想郷目指して全区民が不断の努力を続けることであろう。


坪井の巻

『山田村公民館報』第33号(昭和28年2月)より

部落の結合かたく 水道布設も完備

大杉神社  坪井部落を訪ねるものは誰しも大杉神社の、空に聳ゆる老杉を仰ぎ見る。 その幾百年かの年月を経た雄大な老樹は厳粛な力をもって迫ってくる。

←大杉神社

東も南北も山に囲まれており西は遥かに善光寺平を、そして延々と流れる千曲川を一望することのできるところにこの坪井部落があり、耕地は大部分が集団化されている。 地形は大字中山のホラ貝の巻き止りという感であるが村内随一の模範部落として他の追従を許さないものだ。

先年部落地積から古代民族住居跡が発掘され数千年前のものであることが立証されたので部落の歴史も相当古いのではないかと見られている。 なお部落内の地積には寺宮、北坪井、観音御堂、油久保等の名称があり、又小丸山、古屋敷等と呼んでいる所もあり歴史や時代の推移が現在までも一つの名称に残っているのだとか、――諸説、種々変々――。

部落を訪ねる者が先ず目を引くのは各戸に布設されている水道である。 延長500米のエタニットパイプから鉄管をもって各戸に分岐されている。 この水道は台所に働く家庭の主婦達を何より喜ばせている。 それと共に暗い台所から明るい台所へと生活改善が進んでいる事実も見逃すことができない。 又この水道には消火栓が3基設置されている事は何といっても防火設備に対する強みであろう。 総経費は110余万円という。

部落農協の歴史も大正8年農事改良実行組合として生れ爾来たゆまざる努力が続けられて来た。 次で昭和9年長野県指定農事実行組合となり鋭意農事改良発達の為め努力の結果昭和14年には長野県農会から表彰されている。 又昭和11年の集団特殊指導地に指定された。 協同収益地の経営も行われ現在も続けられている。 協同作業の精神は部落一致結合その力こそ水道布設の一大事業を完遂したのだという。

この部落の特産は白菜、馬鈴薯とされていたが現在では、タバコ約2町歩、桑園28反、ホップ4反、リンゴ5反等現金収入の途も大きく開けている。 農道も良くも整ったと思わせる程各耕地をつないでいる。

協同組合の収穫祝及び家族慰安会は部落民こぞっての感謝と慰安の日であり10数年の伝統をもっているという。

部落をのぼった山麓の杉林に前記の水道の源水池がある。 70余石を貯えるという貯水槽はふっくらとした土中に埋まって居り、絶間なく沸き出ずる泉のひびきはこんこんとその中から聞えてくる。

終りに本年度は部落総力体制を整え信毎農業技術賞参加を目ざしてスタートするという朗らかなニュースも特筆するものがあろう。 記者にはその音が坪井部落の過去―未来をつなぐ力強い団結を象徴したひびきの様な気がしてならなかった。


分館めぐり 稲沢の巻

『山田村公民館報』第37号「分館めぐり」(昭和28年6月)より

玉葱の産地、稲沢部落は川をはさんで両側に点在する19戸余をもって構成する部落である。

この部落の生立ちを古老の言伝えたものを綴り合せて見ましょう。
 年代は残念ながら不明であるが、其の昔松川と牧村の樋沢川が合流し其の水勢を千石地籍にそそぎ山麓一帯を沼地と化して居り、沼の東岸に「いちょう」の木が1本あったのが現在の観音様の「いちょう」である。
 其の当時の住民は赤林、西の入、曽我先、朝日等の地籍に住居を構え山地を開拓したり、川を渡り耕地を求めて不自由な生活をなしたる様である。 こういうありさまを見かねた其の当時の行政者であった坪井の小丸山浄光寺、平塩の中山浄教寺等の住職が非常に心配され現在の経塚の辺りにおいて水勢をせき止めるため日夜御経を御読なされて、ついに川の流水を変えることができたので、その功徳を祭ったのが経塚で今も其の名をたたえ地名として遺る。
 其の後一夜にして坪井の臼平が地響と共にすべり出し沼地に流れ込み沼の東岸に小高き岡となる。 この岡に地の利を求めて次第に移り住み其の名を稲沢と名付け戸数60戸余りと云う。 沼地も次第に開拓され水田地帯となり各部落より来たりて耕した。
 其の後盛衰により現在19戸程となる。

 観音堂の「イチョウ」の樹は樹齢千年を数え毎秋落葉によりその年の降雪を暗に示してくれ、近在の人々に親しまれている。 亦房成り「イチョウ」は全国にも稀に見る類いなり1房に多きは12、3粒実を結べり。

現在産業として主なるものは蔬菜栽培で玉葱、白菜、甘藍等を多く産し玉葱はなかでも産額も多く地味に適せり。 近年桑園よりホップ、タバコ等に転換され農業経営に大きな役割をなして居る。

部落の共同事業としては農作物の共同防除、農村道の改修等にして終戦後当時の樹木の乱採により毎年稲沢川が氾濫し被害を蒙りたるにより昭和22年川線改修と道路拡張に着手25年完成をなす。 部落総親和を以って明るい村造りにいそしんでいる。


部落紹介 坪井の巻

『高山村公民館報』第14号「部落紹介」(昭和33年5月)より

古代文化の発祥地

この部落は中山田の東北端の山峡の傾斜地で極めて立地条件は不利である。 然し水源に恵まれたことからか、文化の発祥地として、かなり古い石器、土器の無数に発掘されることでも立証される。 郷土史家の興津元校長が寺宮地籍で古代住居を発掘された。 この傾斜地農業の不利を補うために部落では、産業路線の開発に着眼し、横道部落と共同で農道、北坪井線を完成し、林道御堂線を、続いて農道5カ年計画を昨年までに完遂し部落道路網は一応整備された。

又部落の寄り合い、炉端談議の中に「坪井は良い水があるから、水道をひけばいいのだが」といい出した人があった。 大正末期の頃である。 夢のような話であったが、その夢のような話が継続して、遂に昭和25年4月夢が実現したのであった。 部落27戸の台所の給水栓から清水がほとばしり、消火栓が屋根を越える水勢を目のあたりに見て、自らの力の総和によって実現したこのさまに、部落民は今更ながら共同の力の偉大さに目がしらを熱くして歓喜した。

部落の小さな政治ではあっても、これ程部落民が等しく受益し、又これ程協力親和の基礎となるものはあるまい。

今や産業面にも世の推移とともに葉タバコ、忽布、リンゴ等の時代産業が各戸経営の重要分野を占め、新しい共和の部落として部落共営の試作農場等、老いも若きも交えての研究会も盛んである。


草津の小雨からきた人のムラ―坪井

『館報たかやま』第463号「―ムラの成り立ち―」(平成8年6月)より

坪井は南・東・北の三方を山に囲まれ、西に開けた山ふところの小扇状地です。 日当たりもよく坪井川(稲沢川)が流れて水の便もよく、4千年も昔人びとが住んだ(坪井遺跡−大杉神社の東)ほど住みよい所でした。

しかし、それから何千年の間に何回か何十回か住み替わって、今の坪井の人たちの先祖がこの地に定住するようになりました。 私たちの先祖が初めてこの地に住みついた時代は正確にはわかりませんが、私は数百年昔の戦国時代と考えています。

黒部と坪井の人たちは草津温泉の麓の小雨村から来たと伝えられています。 草津温泉の領主湯本氏の流れを汲む人たちが戦国時代のある時期に坪井に移って住みつき、この小扇状地を開発(または再開発)したのは事実だろうと思われます。

坪井はもとは湯本姓と宮崎姓だけのムラでした。 毛利姓は湯本氏の一部が江戸時代の末に、藩主からもらったのです。
 湯本氏は初め、坪井の堂の南上の湧き水のほとりに住んだともいわれます。この山陰に湧き水を利用して小さな田も開かれました。
 宮崎氏は坪井の上の方の橋の袂近くの湧き水のほとりに住んだようです。 やがて今の坪井のムラの真中を流れる川が引かれてから、その近くに住むようになりました。 この川水は坪井の堂の前で南に曲がり、山の湧き水を補強して付近の水田を安定させました。

江戸時代になると、1,700年前後の時代に宮崎氏が中山田村の名主を務めています。 毛利氏も19世紀に名主を勤めています。

坪井の奥にも「御堂」「西御堂」の小名があり、古寺の名残といわれています。 この寺ははっきりしませんが、あるいは山田から片塩(中野市)へ移った浄土真宗命徳寺の前身かもしれません。

字地名
↑高山村の地名(『信州高山村誌』より)


いちょうの大木 三郷

『館報たかやま』第337号「おらが村の名物」(昭和60年12月)より

大イチョウ  ひと目みれば、誰もが驚くにちがいない。 大人が5、6人で両手をひろげて、やっと囲めるほど太い、いちょうの木が、三郷の稲沢にある。 樹齢8百年と伝えられるいちょう。

←大イチョウ

このあたりは、昔は沼だったといわれており、この木はそのふちにあって、沼はうまったが、いちょうだけは残されたのだそうです。
 いちょうの葉が落ちてから18日後に雪が降るとか、このいちょうの葉がいちどにどっと落ちる年は、雪もどさっと降るというような言い伝えもあります。 人々は、そんな言い伝えをめやすにして、生活してきました。
 また、乳こぶと呼ばれるこぶのようなものがあり、母乳のでない人が、このこぶをとってせんじて飲むと乳がでると言われて、昔は、それをとりにきていた人もいたといいます。

さて、いちょうというと、銀杏は?、と考える人も多いと思いますが、この大木は雄株で、銀杏はできないのですが、そばのもう1本の雌株は、房に実る銀杏ができるそうです。 村中で、銀杏を取り、分けあっていた時代もあったが、今は業者にひきとってもらっているということです。 それにしても、こんな大きないちょうはみたことがない。 以前、この木を売ってくれという材木屋さんが来たことがあったようですが、断っています。 自然のままの姿で、これからもずっとその場所に大きな姿をみせていてほしいというのが住民の望みのようです。


水に沿ってできたムラ―横道・稲沢

『館報たかやま』第464号「―ムラの成り立ち―」(平成8年7月)より

横道・稲沢  坪井扇状地の末端に、つい30年前までは北から南へ点々と、湧き井戸がありました。 大昔、その井戸のそばに家が建てられ道ができました。その道が横道であり、ムラの名前になりました。 湧き井戸の水を引いて田を開き(中沖)、道から上には畠を作りました。

←横道・稲沢略図(『自然と人のふれあう村』)

稲沢は横道と直角に流れ下る稲沢川沿いにできたムラです。 稲沢の人たちの先祖は昔、裏山の「赤林」や「西の入り」の山麓に住んでいたと伝えられ、石垣や井戸の跡が残っていました。
 この伝承は事実と思われます。220年昔の中山田村の絵図を見ると、大熊坂の辺りに家が3軒あります。 その最後の家が現在地へ移ったのは、1890年(明治23)ころだったそうです。稲沢の人たちは「千石」に田畠を開きました。

しかし、江戸時代初期の検地帳(土地台帳)には、「よこ道」に21軒、「もんぜん」(大杉神社の裏の坪井川沿い)に2軒、「いなざわ」に19軒登録されています。 ですから横道・稲沢のムラは、遅くとも戦国時代末期にはできていたと思われます。

『山田邑縁起』には、木曽義仲の遺児を守って山田村に落ち延びた武士の中に、片桐・藤沢・安田氏のほか窪田氏(久保田)の名がみえます。 製材所の東に立派な湧き井戸がありましたが、その東にあった公会堂(阿弥陀堂)の東南に、久保田氏の総本家の屋敷があったと聞いています。

関原氏は、横道の裏の山麓の「山王」に屋敷神さんを祀り、その下の畠の辺に住んでいたと伝えられています。 数年前その山麓に道を造ったさい、戦国時代のものと思われる五輪塔と宝匡印塔の石が掘り出されました。 こういう石塔は、武士が死者の供養のために建てたもの、あるいは墓石と言われています。
 同様の石塔は横道の臼田氏の墓地にもあります。また、桝形城東南の中腹にある馬場の八幡社の東の、関谷マケ(横道と稲沢)の旧墓地にもありました。 これらの石塔や湧き井戸から、横道と稲沢は大昔からのムラでだったことが偲ばれます。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 4月 3日

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