高井野の歴史>村の伝説と歴史

蕨平

 公民館発行の『公民館報』などに掲載された村内各地区の紹介記事をまとめました。
『館報たかやま(高山村公民館報)』及び合併前の『高井村公民館報』『山田村公民館報』から村の成り立ちや言い伝えとともに、昭和20〜30年代の暮らし向きを振り返ることができます。


分館めぐり 蕨平の巻

『山田村公民館報』第29号(昭和27年10月)より

安田主水翁を生む!

交通・産業の中心地

青、黄、赤と次第に深みゆく初秋の山々、黄金波打つ田園の山裾を砂塵をたてて豊野−山田間を走るバスもやがて農協支所前に止まった。 居並ぶ分校、村営の教員住宅もあり、そして村社諏訪神社の「こんもり」と繁れる森の端を登ると戸数22戸の屋根が点在する、人口は116人で此の内洋服屋1軒、大工1軒で残りはそれぞれ農業を営み平穏な空気が流れている。 此れが蕨平部落である。

 此の部落には其の昔、偉業を残し今なお其の名を伝え慕われておる=安田主水翁=が住まわれ、現在の分校旧校舎の所に其の家があった。
安田主水翁遺徳碑  安田主水翁は寛永2年鎌田堰を開き、同7、8両年に亘っては村民の要望に挺身し、幕府に願いで鷹飼山を民有にする等と其の業績は非常に多くして、翁は寛永10年に逝去されたが村民長く其の恩恵にあずかりしたため、此の偉業を後世に伝える石碑が諏訪神社の西方に建ててある。 又この神社は翁の屋敷神であった。

←安田主水翁遺徳碑

先代は西原附近に存在したと伝えられる此の部落も、時代の移り変りとともに現在では水田42反畑81反を耕し、平均の耕作反別は約6反歩余である。 特殊作物はホップ5反、桑園15反でそれぞれ栽培も年次盛んとなり、其の所得も又多い。

東西に走る県道と部落の真中をゆく林道蕨平線により交通は全くよく戸毎に自動車も入る程である。
”文化の発展は道路から”と叫ばれる如くまことにその良さがある。

山田村のそして奥山田の交通、産業の中心地として分館の活動も活発となり、又区民の収穫に勤しむ姿も余念がない。


部落紹介 蕨平の巻

『高山村公民館報』第8号「部落紹介」(昭和32年10月)より

歴史と文化の中心地

諏訪神社秋宮本社  蕨平は奥山田の中心に位置し、天をつく諏訪神社の杉の老木は移り行く人の世の歴史をじっと見守りながらその平安を願うが如く今日もその枝を振わせて居る。

←諏訪神社秋宮

戸数21、人口凡そ91で、農家1戸当りの耕作反別は6反余りといったコジンマリした部落。 しかし小学校の分校あり、農協支所の所在地でもある。 又当部落は以前より奥山田の経済、文化の中心地として発展して来ただけに歴史的にもその要を成している。

この辺でちょっと歴史の跡をたどってみよう。
 県道より部落内への道をわずか入った左手に目をひくのは安田主水翁の遺徳碑である。 翁は寛永8年(凡そ340年前で徳川時代)衆に挺して幕府に請いて当時鷹飼山と称され江戸幕府の御領地であった広大な山林を民有に帰せしめ、その他農道、水路の開発等幾多の偉業をなされた人である。

この他幾多の歴史的人物を生んだこの部落は山間の地としては珍しく耕地に恵まれて居り、現在では換金作物の栽培が盛んで、中でもホップは代表的なもので、その耕作者は農家戸数の3分の1以上を占め、その他タバコ、野菜等と続いている。

奥山田会館の新築とあいまってますます奥山田の中心地として発展するものと思われている。


伊勢からお越しの鎮守さま 蕨平

『館報たかやま』第341号「おらが村の名物」(昭和61年4月)より

皇大神宮  蕨平の氏神様は皇大神宮と呼ばれ、「天照二所皇大神宮」と書かれた軸がご神体となっています。 「二所」とは、伊勢皇大神宮の内宮と外宮をさしているのだそうです。

←皇大神宮社殿

地元の方のお話によると、江戸時代の初めごろ、伊勢の落武者が蕨平の地に隠れ住み、その時に屋敷神として持ち運んだのがこの軸で、しばらくは自分の家の守り神として祀りあがめていたものが、いつの時代か蕨平区の鎮守神として崇拝され、今日に至っているとのことです。 ちなみに例祭は毎年10月13日となっています。


屋敷平付近から開けたムラ―蕨平

『館報たかやま』第459号「―ムラの成り立ち―」(平成8年2月)より

蕨平では、現在の集落から東の田んぼへかけて、平安時代の土師器(はじき)という土器が発見されていますから、かなり古くから開発されたに違いありません。

しかし、大昔の蕨平の耕地開発の中心は今の集落の裏の上西原・西原の広い扇状地だったでしょう。 淵ノ沢の豊富な川水が容易に利用できるからです。その上流の屋敷平あたりに住んでいた人たちもいたようです。 平安時代の土師器が出土していること、「屋敷平」の地名からそのことが推測されます。

大昔はまず小さい沢水などを利用して田が開かれました。 淵ノ沢の対岸の村先からも土師器が出土しています。宮村地籍ですが、おそらく屋敷平の村先とみなされてこの地名がつけられたのでしょう。 蕨平の前方の長峯丘陵や、その下の中平や平林の河岸段丘も古くから開けたようです。 日あたりが良く、昔の人たちが好きな場所です。

確かな史料では室町時代の1451年、諏訪下社の文書に「蕨平村」が出てきます。 これは山田郷・高井野郷の中で、駒場村に次いで古い文書です。 おそらくこのころ、有力農民あるいは小武士(地侍)がムラの中心になって蕨平に諏訪神社を勧請したのでしょう。

蕨平の有力農民あるいは小武士といえば『奥山田史』(『倭田邑縁起』)や『万覚』に出てくる安田氏以外には考えられません。 おそらく安田主水の祖先が長い年月蕨平を支配し、諏訪神社を勧請したのでしょう。 安田氏の屋敷は旧奥山田小学校付近にあったと伝えられています。 蕨平と天神原の間の扇状地は川水が少ないので、鎌田堰を引いて水田を開きました。 それは安田氏の力だけではなく、天神原の藤沢氏など村中で協力して引いたに違いありません。

奥山田地名
↑奥山田の地名(『信州高山村誌』)


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 4月 3日

上に戻る