↑横手山の”覗(のぞき)”から見た横手鉱山跡地と横手沢
高山村の中央を流れる松川源流域の横手山南麓から池の塔山・万座山の西山麓にかけての岩場では、江戸時代から硫黄の採掘が行われ、昭和時代には褐鉄鉱も採掘されました。
『山田村公民館報』と『信州高山村誌』に記載された横手鉱山に関する記事をまとめました。
17世紀前半に奥山田村名主を勤めた安田主水が硫黄稼ぎをしたと伝えられています。
←安田主水翁遺徳碑
宝暦年代(1655〜58年)に、江戸旅籠町の藤吉と小布施村の重右衛門が、万座白根沢と硫黄山の2カ所で硫黄問掘の請負願いを出しています。
←硫黄山絵図(『信州高山村誌』)
文政2年(1819年)に、家族で水内郡笹川村(飯山市)から中山田村に越してきた清十郎(清重郎)は、5月から9月まで横手山に小屋がけし、木具職・木地師として山稼ぎをしていました。 文政2年(1829年)に横手山産出の硫黄の売買したことに対して仁礼村役人から掛合いとなっており、硫黄の採掘をしていたようです。
荻久保の宮川霞外の顕彰碑には、「元治元年(1864年)松川源流部に銀山を開鑿しその輸送のために新道の開発に力を尽くした」と刻まれています。
『長野県町村誌』の奥山田村に「鉛山、本村寅の方木曽ノ城の内にあり、発見は文久3年亥(1863年)に起こり4カ年を過ぎ慶応3卯年(1867年)休業」と記されています。
←宮川霞外翁碑の碑文
←横手鉱山跡地と横手沢
大正期から昭和初期にかけて硫黄鉱山が開発され、第2次大戦中には褐鉄鉱の採掘も行われています。
鉱山開発者と内容
↑横手鉱山跡(『信州高山村誌』)
『山田村公民館報』第16号(昭和26年9月)より
長らく休山となっていた横手山鉱山も今度東京都の銀座に本社を持つ三京鉱業株式会社の手によって復活される事になった。
9月9日社長朝倉裏治氏、横手山鉱業所長阿部徳蔵氏等来村され、速急に契約を済ませて開発し、年内には生産をしたいとの趣である。
元山には精錬ガマ、2基を10月中にすえ、本年中には生産の予定で、村民各位の協力が望まれている。
今は世界的に硫黄が不足して居り、硫黄の鉱脈もよいのがあり前途有望であると当事者は語っている。
尚当局においては、来る18日に村会を開き、直ちに契約をすませ、早々着工することになっている。
『山田村公民館報』第19号(昭和26年12月)より
村民の期待も大きい三京鉱業会社の手による横手鉱山再開は、その後工事が着々進行し16日には温泉の原動力で50馬力のモーター、元山では50馬力のエンジンでそれぞれ索道の試運転が行われ、又同山の所長阿部氏の語るところによれば新しい大きな硫化鉄鉱の鉱脈も発見され前途有望とのことである。
現在は元山には人夫凡そ30名が居り作業中であるが、年内にはカマ2基を設けて精錬しその他は原更のままで下す予定、明年は人夫を凡そ100名に増員し本格的に操業をするとのこと、又同山で必要な副食物(そ菜、みそその他)及びナワ、ムシロ等も出来るだけ地元の農協組を通じてまかないたいと語っていた。 七味―横手間の自動車道路(750万円)も目下研究中であるが同鉱山としては索道があるので余り必要はなく村の発展の為に何とか村長と話して進めたいとのこと。
尚硫化鉄鉱そのままで出して硫酸を作る原料となり精錬して硫黄にすることも出来る、硫黄含有量は通産省の分析によると40.19%である。
『山田村公民館報』第20号(昭和27年1月)より
年頭に当り皆様にお願いと同山の情況の見通しについて申し上げて見たいと思います。
昨夏来、本邦電気探鉱界の権威九州大学野口工学博士を主班とする鉱床探査隊の応援を得、地質学的将又物理学的探査の歩を進めたところ膨大なる松尾式硫黄鉱床及硫鉱体のき去存区域を捕え、之を指針として余も又鉱山経営生活30有余年の体験を活かして鋭意探査に精魂を打ち込んで地質学的物理学的にも一致した地点を開坑其の経過を視る己に安全鉱量において40%乃至45%30万トン26%乃至30%70万トン計100万トンを捕捉したのでありますが元は横手鉱山としては鉱床分布区域の少部分に過ぎないのであり本春更に融雪をまって探査の歩を進むべく企図して居りますが取りあえず己に捕捉した100万トンの鉱物の処理を急ぐ要もありますので、
一、既存の索道を利して原鉱のまま月産1,000屯乃至1,500屯を5月まで産出します。
一、5月の融雪をまって既存の索道を2分の1屯級に改変して月産5,000屯乃至7,000屯の送鉱と共に焼取り精錬炉10基を上由地区築造する予定でありますが周囲の事情が許せば七味温泉附近に蒸気精錬法による大規模の精錬所建設するは弊社の希望するところであります。
更に又松川上流に広範囲に賦存せる硅石鉱物の処理について鉱量は現在迄の査定において己に1,500屯と確定したのでありますが衆知の如く硅石は一般硝子原料其の他炉材陶器原料其の他諸種産業資材に不可欠のものであり之がため原鉱処理工場の建設を企図しております。
此の一切の計画の達成には地元村民各位に謂れなき保護を求むるのではありませんが所要地区の解放及電力事情に御配慮を垂れ格別の御支援を賜らば誠に幸甚であります。
昭和26年に褐鉄鉱の採掘が再開され、昭和33年まで続きました。
横手鉱山の索道
年度 | 鉄鉱生産実績(t) | 品位(%) | 鉱床 |
---|---|---|---|
昭和19 | 5,484 | Fe 55 | 元山鉱床 |
昭和20 | 1,260 | Fe 50 | 元山鉱床 |
昭和21 | 100 | Fe 50 | 元山鉱床 |
昭和22 | 230 | Fe 51 | 元山鉱床 |
昭和23 | 14 | Fe 50 | 元山鉱床 |
昭和33 | 787 | Fe 50 | 金山平鉱床 |
『山田村公民館報』第45号(昭和29年2月)より
去る1月31日横手鉱山元山を襲った雪崩は、宿舎・飯場・原動場などを破壊し、本村出身の山崎春生氏(平塩)の生命を奪い、数名の負傷者を出した。 折からの猛吹雪に山田温泉より現場に急行した救助隊も困難をきわめ、2月1日には山崎さんの遺体搬出だけであった。 つづいて4日、山田消防団の温泉・荻久保・天神原の各分断が出動し、残る負傷者、従業員など30人を全員救出した。
←災害救助記事
この時の救助隊は50人、3分の1がスキー部隊、徒歩部隊はウソカケにスカリ(お化けカンジキ)をはいて、夜に備えて懐中電灯持参。 午前8時に温泉集合、望月副団長の総指揮のもと出発。三京鉱業の専務久保田氏及び同鉱山松隈氏などの出迎えをうけて七味に到着。 それより積雪丈余の道なき道を踏み固めつつ災害現場めざして進む。 危ぶまれた天候は快晴となり、極寒に備えた団員の服装は次第に脱がれ、リュックサックが大きく膨らむ。 午後1時半ようやく現場にたどり着く。 索道のワイヤーをまたいで、傾いた原動場をみれば中の機械にやっと支えられている。 炊事場は少々かたむいた程度であるが、その南側の宿舎・風呂場は雪に破られている。 裏がわに回ると一棟が殆ど焼失し、焼けただれた衣類が数多く真白な雪の上に投げ出され、天井板を掘り上げるとその下から半分焼けた雑誌が現れる。
雪を掘って床板をはぎ取り、用意していった山橇に急造の箱をつけ、重傷者3名をそれぞれ3台の橇に乗せる。 スキー部隊はそれぞれ荷物を背負い、全員出発は2時半。 一歩誤れば橇もろとも谷底へといった危険な場所は橇を担うが如くして困難を重ねつつ全員無事山田温泉に到着した。時は午後7時。
近代鉱山開発は鉱石を採掘してその場で精錬するため、周辺の森林を伐採して燃料にします。また精錬で発生する煙害で立木が枯死して行き、結果的に鉱山周辺部は皆伐され、笹野原になってしまいます。
松川の源流域で森林伐採が行われると、保水力のない地被状態となり、沢筋から山地崩壊が始まります。
笹原の斜面が谷底から山抜けし、赤い裸地が拡大し続けます。
さらに坑道から強酸性水が流出し、下流域で鉱毒が発生しています。
閉山から半世紀を経た鉄鉱山跡の様子が『信州高山村誌』第一巻自然編に記されています。
←旧坑(D抗、旭四抗、無名抗、温泉抗、赤滝抗)位置と廃滓堆積場
鉱山跡
横手沢の高井火山岩類
横手沢の熱水変質地帯
松川源流と横手沢合流点の滝
温泉坑から湧出する温泉と晶出した硫黄
最終更新 2020年 4月24日