松川両岸の牧地区と奥山田地区を結ぶ藤沢橋のすぐ上流に、1970年まで利用されていた吊橋があります。
蔓草に覆われて本来の姿が見えにくくなっている吊橋は、朽ち果てながら季節ごとに姿を変えて松川の流れを見下ろしています。
『信州高山村誌』より
牧と奥山田を結ぶ藤沢橋は『長野県町村誌』奥山田村に載っている。 幅1丈(3.3メートル)、橋長11間(約20メートル)、渡りやすい川床を選んで架けられた谷底橋だが、牧側の橋に下る道は狭く足場が悪く、馬が落ちて死んだこともあるという。 山田温泉への客は高井橋ができる前は遠回りだが藤沢橋を渡って行き来していた。 奥山田の人びとの日滝原の出作り畑に通う生活道路でもあり、藤沢橋は重要な橋であった。
橋長28.8メートル、巾3.2メートルの藤沢吊り橋が架けられた時期はよくわからないが、これも常に破損し修理をしつつ、老朽が進みながらなお現役で役目を果たしてきていた。
←藤沢橋吊橋(『写真が語る高井の歴史』)
だから村内にあった六つの吊り橋のうち五つがもうすでに架け替えが済んで、永久橋になっていたので、藤沢吊り橋は村に残った最後の吊り橋であった。
昭和46年8月竣工の藤沢橋は鋼箱桁の合成橋、やや勾配がかかっており、長さ51.3メートルと吊り橋の倍の長さになっている。
吊り橋は現在朽ち果てた姿で残っているのが、新橋から眺められる。
←新・藤沢橋から見た吊橋
原滋「松川に架けた橋」(『自然と人のふれあう村』より)
藤沢の橋は、100年ほど前まで牧と奥山田を結ぶただ一つの橋であった。 江戸時代の絵図を見ると、松川を渡る道は藤沢橋の辺りだけである。 山田温泉へ行くにも藤沢の橋を渡って、奥山田の道を通った。 昔の吊橋の前の木の橋は、藤沢の酒屋(藤田屋)の入り口の辺りから渡されていた。 その橋よりまだ水面に近く渡されていた時代があったはずである。
今から138年前の嘉永7年(1854年)、須坂の勝善寺本堂を再建するとき、宮村から材木を出した。 11月19日(今の暦で1月7日)、長さ6尺余りの大木を檀家一同で引いて行ったところ、関場の坂道で引綱が切れ、かなりの谷下まで落ち込み、荻久保の徳左衛門が即死した。 急な坂道のために雪で滑り、止められなかったとみえる。
1874年(明治7年)に書かれた牧村の村誌には、「
1928年(昭和3年)ころ、駒場橋と同じ形式の吊り橋に架け替えられた。
←藤沢橋吊橋架け替え工事(『写真が語る高井の歴史』)
宮村・蕨平・天神原から3夫婦が選ばれて、盛大に渡り初めが行われた。
この吊り橋は今も残っている。
↑藤沢橋吊橋竣工記念(『写真が語る高井の歴史』『信州高山村誌』)
そして1970、71年度に3,000万円の工費をかけて、現在の永久橋に架け替えられた。 今は吊り橋の下をくぐってブルドーザーが入り、松川を渡って災害復旧工事をしている。
永久橋の上に立ち上流を見下ろすと、枯草のからまった吊り橋が見え、その前の橋、そのまた前の橋が想像できる。 それぞれの橋を行き来した人、架け替えた時代とその人々のことが想像される。
青木廣安「いいとこ見っけ」(『自然と人のふれあう村』より)
藤沢橋は牧と関場を結ぶ橋。
牧側の橋の手前から松川の川床に下ると、この吊橋と新橋が見える。
紅白の新橋と蔓からむ吊橋が、橋と季節の移り変りを語っている。
←藤沢橋 新橋と吊橋
悠久の時の流れの中で松川の冷流が深い崖を刻み、水衝部にはノッチができ、氷柱を作り上げる。 華やいだ紅葉の後の荒涼たるたたずまいであり、厳しい冬への四季の移ろいを感じさせてくれる。
吊橋は昭和3年、新橋は昭和46年竣工と銘がある。 吊橋は60余年の間に橋板が朽ち、犬でも渡れない。
←橋板のない吊橋
牧の入口の道標に「左村道山田道」とある。
上流の高井橋ができるまでは、須坂から山田温泉への湯道であり、小布施から上州へ抜ける毛無道の交差点であった。
←県道と藤沢橋への分岐点にある道標
左 山田村ニ通
右 縣道須坂山田線
藤田屋が吊橋のたもとに文化6年(1809年)に
明治初期に制作された【牧村(絵図)】には中山村境で松川に架かる橋が描かれている。
←【牧村(絵図)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
(クリックすると拡大表示します)
明治18年(1885年)に制作された【奥山田村(絵図)】には松川に架かる橋が描かれている。
←【奥山田村(絵図)(明治18年)】長野県立歴史館蔵、掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)
(クリックすると拡大表示します)
『長野縣町村誌』「牧村」より
北国東街道に属し、本村より亥の四分、松川の流れに架す。 深さ9尺、広さ7間3尺、橋長10間2尺、幅5尺、木製なり。
『長野縣町村誌』「奥山田村」より
長野町より、上野国吾妻郡草津温泉へ達する道路に属す。 架して村の酉の方、松川の流れにあり。 深さ2尺、広さ8間、橋長さ11間、幅1丈、木製なり。
1976年(昭和51年)に藤沢橋の近辺で藤沢焼窯跡が発掘されたのを契機にこの一帯を整備する計画が立案されました。
↑藤沢焼窯跡周辺整備計画(見取図)
2020年(令和2年)に藤沢焼窯跡が村の文化財に指定されたことから、吊橋の改修を含め一帯の整備の進展が期待されます。
最終更新 2020年 6月25日