高井野村紫組の久保田重右衛門は明治新政府の課した酷税に対して減免運動に奔走しましたが、明治3年12月に勃発した中野騒動の首謀者の嫌疑を掛けられて捕縛され、獄中で死亡しました。
明治4年(1871年)3月15日、高井野村紫の年寄役・久保田重右衛門が、前年12月19日に勃発した中野騒動の首魁容疑で捕らえられ、連日手厳しい拷問にかけられて罪状を糺されたにも拘わらず冤罪に服すことはなく、斬罪は免れたものの獄中で死亡しました。
前年12月15日に、重右衛門は県内各村名主の会合において、石代値下げの再願を主張したが受け入れられませんでした。
重右衛門の立場はあくまでも嘆願によって石代値下げを実現しようとするもので、一揆の首謀者とみなされることについてはいかに拷問されようと認めるところではありませんでした。
このため、2月27日に19人が処刑された際、重右衛門は除外して入牢させられ、3月15日に急性の熱病にかかって病死したというものです。
公式な死因は病死とされていますが、巷では役人に毒殺されたという噂が流れました。
←拷問道具
村民は、水責め、火責め、石責め等あらゆる過酷な拷問に耐えて村名家名を汚さなかった其の徳を称え、義人・久保田重右衛門さんと称して敬慕しています。
重右衛門の長子・慶祐らは父の冤罪をはらそうと手を尽くしましたがかないませんでした。
←久保田慶祐(『写真が語る高井の歴史』より)
右之者
当時関係町村を始め近里の者、重右衛門を評して曰く、 重右衛門は如何に責め苦に遭ふも、更に身体髪膚傷つかず。 これ神仏の守護によりてなり。否重右衛門は神なりと称せりと。以て如何に其名望家たりしかを知るべし。 而して重右衛門が水責め・火責め・石責め等あらゆる苛酷なる拷問に遭うも、冤罪に服さず、よく村名・家名を汚さざりしかば、後人其徳を称えて止まず。 以て聊か地下に瞑すべきなり。
『長野縣上高井郡誌』第三十一章第二節中野騒動より
↑久保田重右衛門の墓(右)
紫の豪農久保田重右衛門が一揆の首謀者とされたことは、常識的には不思議なことです。
幕末維新のころの一揆には豪農も、領主あるいは政府側の一味として襲撃されたからです。
事実、中野騒動のさいも江部の山田庄左衛門ら、須坂騒動でも田中新十郎などの豪農は真っ先に焼き討ちされています。
ちなみに、須坂騒動の勃発地の灰野村と中野騒動の勃発地の高井野村とは水中峠(灰野峠)を隔てて裏表です。
須坂騒動は1870年(明治3)12月17日、中野騒動はわずか2日後の19日に起こっています。
須坂と中野と県こそ違え、灰野村の騒動への動きは刻々と伝えられていたに違いありません。
さて、高井郡では上の山田・田中両家に次ぐ豪農だった久保田家が焼き討ちにあうどころか、反対に一揆の先頭に立った首謀者とされたのですから、常識とは逆です。 当の重右衛門はどんなに拷問されても首謀者であることを認めずに通しました。 そのため、騒動の翌年、2月27日に高山村の20人をはじめ28人が処刑されましたが、その中に重右衛門は入っていません。
名主織右衛門も大組頭重右衛門もおそらく最後まで、一揆にならないよう、農民たちを止めたに違いありません。 が、重右衛門が騒動の直前の15日まで、高井野村の農民の代表として、年貢米の石代値段の値下げをもう一度県庁へ嘆願しようと、他村の名主たちに働きかけたが賛成を得られなかったことがわかっています。
このこと(年貢減免運動に積極的に働いたこと)が首謀者の嫌疑をかけられた理由の一つではないかと思われます。 そして、28人という未曾有の大量処刑の後も拷問が続けられ、重右衛門はついに3月15日中野の牢内で獄死しました。時に51歳。 一説には毒を盛られたとも伝えられています。
原滋「中野騒動の殉難者たちの一面(三)」『館報たかやま』より
組頭:紫組と高井野村で最大地主で、重衛門は上高井地方の最大の不在地主でもあり、およそ500石持ちであった。 並外れた富を持ち、平均的武士を遥かにしのぐ徳川時代の平民であった。 彼は伝統的な産業と、1858年に国際貿易が始まった後の養蚕業とに投資した典型的な起業家としての地主であった。 彼の祖先は紫地区の嘉兵衛と名付けられた開拓農民であり、彼の家柄は徳川時代を通して努力して富と紫組での政治力を得た。 上高井の多くの村々で地主として小作を雇い、19世紀徳川後期を通して重衛門は小作争議の主たる標的の一人であった。 重衛門は取締役の名前のもとに、代官所と関係を持ち、それなりの影響力を反映した。 しかし、重衛門一家は位の低い開拓農民の子孫で、尊敬される郷士か田舎の格式高い侍の身分でなく、歴史ある堀之内組や千本松組の太田家や中村家のような以前の郷士を世襲とする家柄で正式な役人の身分ではない。 彼らは高い身分からは遠ざけられていた。
重衛門は、騒動の指導者であったが、1857年以前に、村の多数派である小前百姓と協力をして名主の選挙権を得、古い大地主一族による世襲制を終わらせた。 1857年以降、重衛門は村年寄役に就き、1861年と1869年には名主も務めた。 北信商社の大投資家の一人である彼は、富裕な地主たちや中産階級から小さな土地持ちの農民たちまで一緒になってこの輸出産業に幅広い投資の代表を務め、その地方の貧富に関わらない熱心な商業利益のために証人となった。
1870年に彼は紫組の組頭となり、大組頭という高い地位を得、村名主の次の位になり、他の村の名主たちと共に県に対する請願を高井地方で取りまとめた。
税金を安くすることが簡単に成功した近隣の松代藩のような積極的一揆を主唱したと言われている。
重衛門は反乱の最高指導者として逮捕された。
厳しい拷問であるにも拘わらず、自白書には決して署名せず、牢の中で死んだ。
彼は毒殺されたのだと地方の人は信じた。
重衛門は農民の為に死んだのだから、義民としての伝説的な人とされている。
しかし、彼は自分自身の為に一揆を決心した。それ故沢山の大きな不幸が引き起こされた、とする意見もある。
彼の人別帳の記録は失われている。が、どこからでも入手できる。
重衛門の墓は村の中央の家族の墓地にある。
久保田家は騒動の後にも拘わらず明治時代を通して政治経済的力を依然として持ち続けていた。
子孫は明治の新しい戸長という役に就き、家族は紫組の組頭を務めている。
久保田家の当主は19世紀後期には長野県議会の議員になった。
石高:安政6年(1859)、96.456石、高井野のこの地域は全体で500石
年齢:51歳
刑罰:牢獄の拷問による死
セルジューク・エッセンベル著、窪田博男訳『EVEN THE GODS REBEL「神々でさえも反乱す」』より
最終更新 2020年 3月12日