↑水中・滝ノ入地籍から灰野峠に至る灰野道
高井野村の
また中世には越後の上杉謙信が信濃遠征に利用した軍事道路だったとも伝えられています。
↑小布施から水中を通って灰野峠を越え豊丘に通じる灰野道
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成しました。
灰野道は雁田村(小布施町)から進んで
主な商品は中野・小布施方面からの米・綿布・菜種油などで、米は高井野まで籾で運ばれ、ここで精白されて送られました。
上州側からは干俣(群馬県嬬恋村)経由で須坂・中野方面に薪・炭・片栗粉・木製品などが移入されました。
↑江戸時代末期の北信と北上州の交通網(『信州高山村誌』より)
灰野から上州へは三原道が多く利用されました。
三原道は須坂南原で大笹街道から分かれ、灰野を通って干俣に通じる道で、干俣で南下して大笹街道に合流します。
公道であった大笹街道の「抜け道」として交易や旅人の通行に多く利用されていました。
しかし、この道は急峻で道幅も狭く、物の輸送はすべて牛に頼らざるをえなかったことから、俗に「牛道」とも呼ばれていました。
享和3年(1803年)6月、高井野村新井原組の卯平太と小布施村の要吉は、水戸藩の年間台所用の水油(菜種油)納入を請け負い、当時通行が禁止されていた毛無道の開通を希望する上州干俣村ほか4か村の同意も得て、毛無道通行許可願いを出して油を運ぼうとしました。
←駄馬輸送(『館報たかやま』より)
これに対して大笹街道の宿場のある大笹村の名主・黒岩長左衛門が強硬に反対して訴訟に持ち込まれましたが、「水戸藩御用」を理由に強行突破したようです。
後日、5か村の村役人と卯平太・要吉の連名で詫び状を奉行所へ差し出し、一件落着しました。
この一件で毛無道は通行差し止めとなりましたが、その後も卯平太は水戸藩御用達として活動しており、灰野道も利用したと考えられます。
文化12年(1815年)6月10日、高井野村水沢組(現・水中)の金右衛門は中善組(現・水中)の久五郎を頼み、胡麻油荷16駄を上州高崎へ出荷しました。
16頭の馬に胡麻油を積んで、灰野峠から仁礼宿−鳥居峠−大笹宿を経て、高崎で売ろうとしました。
しかし、高崎では油値段が安かったので、久五郎は油荷を倉賀野河岸(高崎)で船に積み替え、利根川を下し、江戸に送りました。
江戸で10日余り過ごし、油の売却代を含めて40両余りを懐にして、久五郎は7月6日帰途につきました。
その晩は鴻ノ巣(埼玉県)泊り、7日は本庄泊りの予定の暮れ六ツ(午後6時)ころ、2〜3人の追剥にあい、持ち金をすっかり奪われたというのです。
久五郎は一旦帰郷して、親・親類つきそいで報告謝罪しましたが、金右衛門は信用せず、村役人に訴え出ました。
久五郎は代金返済に困り、行方をくらませてしまいました。
『館報たかやま』より
文化12年(1815年)6月10日、中善組の源蔵等は同組の久五郎を宰領に胡麻油荷16駄を高崎へ運び売捌くこととした。
ところが、同地は安値のため5駄分を売っただけで残りの10駄は、倉賀野河岸で油樽を船積みして利根川を下り、江戸川を経由して江戸表まで運んで売払った。
しかし油の売上金は、帰路深谷と本庄の間で男2人に奪われてしまったというのである。
だが、これは口実で遊興に費やしてしまったことが発覚する。
そこで久五郎を雇った源蔵・久保組大蔵・中善組清七の3人はその油代金として37両3分2朱と銭400文を弁償するよう請求するという問題が発生した。
『信州高山村誌』より
江戸時代半ばすぎになると、江戸では燈油の需要が増えて値段が上昇し、中野や中之条(坂城町)の代官所が天領村々に油草(菜種・胡麻・荏など)の増産を奨励したこともあり、上・下高井郡をはじめ善光寺平は菜種の特産地になりました。
19世紀のはじめごろ高井野村では水沢組の金右衛門のほか、紫の源之丞と重右衛門が油しぼり機を手に入れ、営業税を1人84文納めて油屋稼ぎをしていました。
油しぼりの動力は人力と水車が使われたと推定されます。
また菜種油を絞って生じる油粕は当時の重要な金肥で、善光寺平南部でたくさん生産された
文政9年(1826年)における油粕販売状況(『館報たかやま』より)
油稼ぎ人 (株) |
油〆木 | 油粕販売量 | 代金合計 | 買い主 |
金右衛門 | 2組 | 1792玉 | 約40両 | 須坂の新七・七郎左衛門・三太夫 綿内の源次 |
重藏 (太助の株) |
片組(1組の半分) | 1140玉 | 約27両 | 須坂の伝五右衛門・新七・乙七 綿内の幸右衛門 |
重太郎 (重右衛門の株) |
2組 | 984玉 | 20両弱 | 須坂の乙七・万治郎 |
水車は江戸時代になって油搾りや米・麦・粟などの精白、生糸を繰る製糸動力として利用されました。
水車の大きさは直径5尺から1丈まで5種類あり、水車1輪に付属する臼の数も1臼から最大10臼まで様々でした。
寛政10年(1798年)における高井野村の水車数と臼数(『自然と人のふれあう村』より)
組 | 水車(輪) | 臼 |
千本松 | 2 | 6 |
堀之内 | 9 | 33 |
水沢 | 2 | 13 |
中善 | 1 | 2 |
久保 | 1 | 1 |
新井原 | 7 | 32 |
紫 | 7 | 28 |
二ツ石 | 2 | 5 |
合計 | 31 | 120 |
↑水中地区と灰野峠、山城
須坂市本郷には中世にこの地帯を支配したとされる須田氏の居館跡があり、これを取り囲むように古城(ふるじょう)、大岩城、雨引城が築かれており、水中の南の明覚山から北に伸びる尾根上に築かれた月生城は、灰野道を監視する重要なで砦であったと考えられています。
雨引城跡
大岩城跡
戦国時代、甲斐の武将・武田信玄は信濃の国に攻め入り、次々と領地を拡大して行きました。
信玄に追われた信濃の中小豪族は越後の領主・上杉謙信に助けを求め、これに応じた謙信が信濃に兵を進めて川中島で対峙しました。
戦いは天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に5回行われ、このときに越後から川中島へ軍を進めた道筋が「謙信道」とされ、川中島の合戦後、上杉謙信がわずかな手勢と共に越後へ落ちのびたときの道だったとも伝えられています。
↑高山村内の「謙信道」
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成
「謙信道」添いの水中の滝ノ入には「勝負田」の地名と、川中島合戦にまつわる伝承も残されています。
←月生城跡と勝負田の案内板
『高井村公民館報』第336号「東西南北 おらが村の名物」(昭和60年11月)より
鎌倉時代から戦国時代(1192年〜1600年頃)までを中世といいますが、水中集落の奥に、このころ築かれた山城で、地侍の須田氏一族が拠ったと伝えられる月生城址があります。
山頂の主郭部は1反歩程の平地ですが、ここで数年前、高山中生徒により能登半島の珠洲焼土器の破片(1350年頃製)が発見され、脚光を浴びました。
山腹は3条の帯郭らしいものが取り巻き、水中集落からの登路に段郭らしい跡があり、帯部の下方山腹には山城用の水くみ場と思われている、常に水の溜っている箇所があります。
←城跡の標柱
東方の稜線には2条の空堀があり、これを越えた山稜上には山城防備のためであろう列石群がありますが、これ程形の整った山城は他にないといわれております。
←列石群
この月生城東方山麓に馬場跡らしき所がありますが、この辺一帯には、川中島の合戦にまつわる伝説が語り継がれています。
それではちょっと、その伝説に触れてみましょう。
ここには「勝負田」といわれる1枚の田があります。
これは長引く川中島の合戦に決着をつけるため、武田・上杉双方から代表騎士を出して勝負させ、その結果により川中島の帰属を決めようとする物で、その勝負の舞台がこの1枚の田で繰り広げられたというのです。
また合戦当時、上杉軍はこの山麓に3千頭の軍馬を隠しておいて、川中島へはここから出撃したと伝えられているのです。
馬場跡を通過して、西南は水中峠、北東は久保集落へ通ずる道を、現在でも謙信道と伝えられていますが、これも興味深いものの一つです。
←灰野峠の案内看板
灰野道は、上州・江戸をふくむ関東の情報を北信濃に伝える道でもありました。
1870年(明治3)12月17日(本村久保から中野騒動が起こった前々日)灰野村から須坂騒動が起こりました。 その情報は、まずこの道を通って直接伝えられたと考えられます。 当時はまだ電話もラジオもなく、情報伝達は口コミによるしかありませんでした。
最終更新 2019年 3月17日