高井野の地理高井野の水利

水不足との苦闘〜松川扇状地の開発

高山村から須坂市にかけて広がる松川扇状地は、近世から近年に至るまで人々は飲み水にも事欠く水不足と闘いながら開発してきた歴史があります。

↑樹園地が広がる松川扇状地


「日滝原と水」

小林謙三「日滝原と水」より

日滝原は北は小布施、東は高山村に接する、須坂市の北東部に広がる約760ヘクタールに及ぶりんごと巨峰を主とする一大果樹地帯である。
 小布施町と境する松川が作った扇状地の扇央部に位置し、およそ東西4.5km、南北2.5km、標高340m〜485mの範囲で、平均25分の1の西南傾斜地である。 また、地質は洪積層の上に沖積層の礫層が堆積しており、表土は薄く下層は礫土となっている。
 自然の流路が無く、地下水を得るにも極めて困難な地であり、昔から水に不自由してきた土地である。
日滝原  主な集落は相森(おおもり)高畑(たかはたけ)虫送(むしおくり)であるが、そこには水不足と戦いながらこの地を切り開いて行った先人の苦闘の歴史が刻まれている。


「水と生活」

私は学校の子どもたちと日滝原の開発について調べてみたのだが、十数年経った今でも、そのときに集めた幾つかの忘れられない言葉や話を思い出すことができる。


日滝原は”ほうろく”畑

これはある子どもが家の人から聞いてきた言葉である。
 ”ほうろく”と言っても、今ではほとんどの台所(こんな言葉も懐かしいほどだが)から姿を消してしまっていることと思う。 このときでさえ、子どもたちにわかってもらうために、物持ちのよい家からやっと実物を提供してもらったほどであった。
 ある辞書には”ほうろく《焙烙》”とは、食品を炒(い)る素焼きの浅い土なべ。と出ているが、この辺でいう”ほうろく”とは、言ってみれば、今のフライパンだと思ってもらえばいい。 直径1尺かそこらの、平たい鍋底ようの丸い鉄器に耳がついていて、そこにかかった針金をいろりの自在鉤に掛けて、豆をいったり、せんべいを焼いたり、お焼きを焼いたりする、まことに利用度の高い便利な道具だったのである。 当然その鍋底は灼熱の温度のはずである。
 日滝原での夏炎天下の労働は、この”ほうろく”の中で働くようなものだと、そのあまりの暑さを嘆いた農民の声なのである。 知る人ぞ知る、実に実感のこもった言葉ではないかと思うのである。


相森の川へ入って焼け死ぬな

これは私自身が直接、相森町の故二ノ宮一雄氏から聞き取った話である。
 前にも書いたように、相森は水に恵まれない所であった。 豊洲村の方で、千曲川などの洪水騒ぎで半鐘を鳴らすほどの年が、「今年は相森陽気だ」と言ったというくらい、雨に恵まれない土地だったのである。
相森堰  相森堰という川はあっても、高井や日滝村との約束で、そちらの村が用水として使わなくなる8月15日から翌年の3月15日までしか水を流してもらえなかったという。 この約束、取り決めはいつまで続けられたのであろうか。

←千本松から流下する相森堰

水の来ない川は、子どもたちの遊び場でもあったのであろう。 かんかん照りに焼かれた川底の石は、大袈裟でなく、本当にやけどするほどに熱かったのかもしれない。 これが「相森の川に入って焼け死ぬな」という、やや誇張かも知れないが、一面真実味のこもった言葉として語られたのであろうと思う。 これ又言い得て妙といえよう。

水神様の謂れ  なお、かつては日滝方面から相森の集落に入る北東の位置には、ずっと遠くからでもすぐ目につくほど大きいサワラの木が1本聳えていた。 そして、その木を傘のようにして水神様が祀ってあり、高井の方から来た水はここで二分されて、一方は県道の下をくぐって西側の道沿いに、一方はそのまま県道の東側を南へ流れ、各家に貴重な生活用水を提供していたのである。

←水神様の謂れ

今もこの流れに変わりはないと思うが、昔は道に面した家の、更に奥に居住する人達の為に、この東西分岐点近くから、更に枝別れした「新川」という細い堰が、道路に面した家とその奥の家との間の屋敷内を、やはり南流して八木沢川に落ちていたのだ。

水神様  水神様も道路の付け替え拡張工事に伴って、元の位置より少し東の位置に移されている。 それでも村祭りには、今でも必ずこの水神様の前での獅子舞奉納はずっと続けられているという。
 土地の人の水への思いが、こんな形で残されていることはありがたいことだと思う。

←水神様


”おたや”での迷子

これも二ノ宮一雄氏から聞いた話である。
 1月14日の夜から15日にかけては、今でも小布施には昔から伝わっている”おたや”という祭がある。 今は”おたや”なんていうより”小布施の安市”というほうが通りがいいが。
 その”おたや”で、一人の男の迷子があった。 どこから誰と来たのかと聞いてもさっぱり埒があかない。 そのとき、いかにももの知りのような老人が出てきて、じっとその子の顔を見ながら、「多分、これは高畑か相森の子だろう」と言ったという。 果して結果はその通り相森の子だったというのである。
 さてその老人に、なぜそう思ったかと尋ねたら、あんまり風呂へなど入ったような顔には見えなかったから、そう思ったのだと言ったという。 ちょっと誇張があり、作り話っぽいし、高畑や相森の人には失礼な話だが、一面、なるほどなと胸に落ちる話として、今も私の心に強く残っている。

昔はどこでもそんなに風呂へなど入らなかったのだろうが、その中でも相森の留め湯は格別だったようである。 何日も湯を代えないで立て続けたので、しまいには、風呂から上がるときには体を揺すって出ないと、浮いている垢が首輪のようについてしまったと、笑い話のように聞かせてくれた老人もあった。

「夕立には石臼の目にも水を汲め」これも二ノ宮一雄氏に聞いたもののように思う。


日滝原と集落

相森

相森は17世紀中頃に出来た新田集落と言われている。 地下水位が低く、10〜20mも掘らなければ水は得られない。
相森堰の分水口  その水も不足するので、日滝・大谷・高橋の3カ村の許可を得て、高井野村境の千本松より相森堰として引水して開発を進めた。 樋沢川から取水し、二ツ石、紫を通って来る水で、高井方面での開発が進むと、当然そちらでの需要が増え、下流への流量はその分減るわけで、そういうことで起きた水争いの記録も残されている。

←千本松にある相森堰の取水口
 左:溜池へ; 右:相森へ

高井野の堰
↑日滝・高井野村の堰 (原滋「高井・日滝地区の用水堰」より)


高畑

高畑も水の便が悪く、しかも土地も痩せていて旱魃の多いところであった。
 ここを松代藩の奨励で、開発に取り組んだのはこの地の西にある小河原村であったが、とても割に合わない開墾なので藩へ返上しようとした。
 これを聞いて、自分がそれを引き受けて新田開発をしたいと申し出た男がいた。 それが岡沢与左衛門である。 彼は更級郡丹波島村(現長野市)の人で、文化13年(1816)、松代藩の許しを得てこの開発に取り組んだのである。
 水は南の相森や、西の小河原からの貰い水や、天水桶に受ける雨水に頼り、20メートル余(最も深いものは35メートル)の深さまで掘った井戸も、水が出たものは、5カ所のうちたった2カ所だったという。 それさえも十分な水量ではなく、長い縄つるべで、1戸あて2バケツの水をもらうために、朝夕行列が出来たほどだったという。
 このような苦難な道を経て、高畑新田は小河原村東組へと成長したのである。
観光農園  現在の巨峰を中心とした観光農園の盛況ぶりを先駆者岡沢与左衛門はあの世でどんな思いで眺めているのだろうか。

←国道403号沿線・高畑の観光農園

岡澤與左衛門翁碑

岡澤與左衛門顕彰碑 岡澤與左衛門顕彰碑背面
↑岡澤與左衛門翁碑と背面の碑文

 天水
 旱魃に耐え二百年
 岡澤與左衛門翁
  令和元年五月三日

   岡澤與左衛門
  與左衛門は北国街道丹波島宿の旅宿 加賀屋に生まれる。
 文化年間頃松代藩小河原村は旱害と瘠地で生産力が無く年貢もままならず
 藩に土地を返そうとした。この事を聞いた與左衛門は松代藩に願いでて
 又小河原村・南組 北組 新田組と話し合いの上 百二十四石の年貢未納地を
 引受けこの地に東組 現在の高畑を成立させ生活用水を確保する為井戸を
 掘り 天水桶で生活用水を確保して区民協力で生活を始め 天保年間
 十三戸の集落ができた。
 岡澤與左衛門没後二百年に当たりこの碑を建立するものである。
 弘性院仁譽寛道居士
  岡澤與左衛門文政二年五月三日没
 興徳院一翁禪心居士
  岡澤常八  文久三年十月二十六日没

『長野縣町村誌』「小河原村」より

東組、文化十三年薄地にして、民力に甚難く、上知せしが、同十四年、更級郡丹波島村農、岡澤與左衛門なるもの、開墾して貢租百二十六石一斗九合を収む。 天保十五年に至り、人家十三戸をなす、則東組といふ。


虫送

宮川善兵衛翁の碑  虫送(本郷町)には、この地からはるか東方に位置する高山村荻久保(旧奥山田村)から出作りしながら、やがてこの虫送集落の草分けとなった宮川善兵衛翁の碑がある。

←宮川善兵衛翁碑(『自然と人のふれあう村』より)

碑の表には、開祖 宮川善兵衛翁碑と刻まれている。 右側面には、昭和4年11月健之とあり、裏面には、

 翁ハ上高井郡山田村字荻久保農栄蔵氏長子也
 天保拾弐年壱月六日誕生
 明治弐拾壱年五月当地移住之発端ヲ開キ爾来専心農蚕業ヲ営ミ大正拾壱年拾壱月三日行年八十八歳ニシテ逝去ス
 其後亥子作君継グ

と記されている。
 これで見ると虫送の開発が始まったのは明治21年頃のようである。 善兵衛翁の孫に当たる功氏に聞けば、5間(9m)ほどの井戸はあったが、年間通して安定して水が得られる井戸ではなく、高井野村の紫地籍から分水してもらった水が流れる9月末から翌年の5月にかけては、この堰からのさし水で井戸の出も良かったが、それ以外の期間にはあまり出が良くなく、近くの水涸れしない井戸を持つ家から貰い水をしたものだという。
 上高井誌の社会編にも、次のような記述が見られる。 「井戸は水面まで26〜27メートルに及んでいるものもある。 各戸は井戸を持つが、なお冬は涸れる。 ただ一つ村の中央部のものが涸れないので、その時はもらい水するという」と。
 なお、広域農道開設の際、この井戸をどうするかが問題になったそうだが、功氏はこの井戸の歴史的遺産を思い、コンクリートで蓋をし、その上に土盛りをして保存したという。 だからいつの日か、何かの研究で調査しようと思えば見ることはできるのであろうと思う。 私も郷土開発にかかわる歴史的遺産の一つとして、今後も大切に残しておいて欲しいと思う。
 昭和33年(1958)、水道が敷設され生活用水の悩みは解決された。 善兵衛翁の入植から70年後のことであった。

「須坂市日瀧原における出作りと定住化−明治期以降の動向を中心に−」より

宮川善兵衛翁碑が建碑除幕された1929(昭和4)年11月に読まれた「喜びの辞」によれば、
「…豆腐屋へ三里酒やへ二里と云ふ淋しき原林に居を構ひ、熱心なる翁が努力を以て芝切りの鍬を第一番に振られたり …(中略)… 一農夫たる翁が一挺の鍬を擔ぎ或は新川の水利権のままならぬに袖を絞り人に罵られ或は嘲られ、粟飯に腹をふくらまし麦湯に咽をうるをし荊を伐り拂ひ石ころを片付け 井戸を自ら掘り、土地の発展に子孫の繁栄に力を盡されたるは言葉につくしがたし…」
とあり、当時の日瀧原虫送における開墾作業と定住化がいかに困難を伴っていたかを伺い知ることができる。


日滝原新田の開発と出作り

原滋「出作りと豪農」『自然と人のふれあう村』より

1629年(寛永6年)に開発人たちが須坂藩に願い出て許可を得、日滝原の開発が始まった。 松川左岸扇状地の扇央部であり、日滝本村の北側である。

宮川善兵衛翁石碑跡  ここは水の便が悪いために開発が遅れた土地で、江戸時代を通して出作りであり、ここに集落ができたのは、1888年(明治21年)奥山田村荻久保の宮川善兵衛の定住が最初である。

←宮川善兵衛翁石碑跡の記念碑

『高山村の人物小誌』より

宮川 善兵衛(みやがわぜんべえ) 1841-1922
 日滝原虫送への最初の移住者。奥山田荻久保、栄蔵の長男。 明治21年(1888)5月、それまで住む人のなかった日滝村虫送地籍(須坂市)の出作地に移住入植した。 用水の便のない同地に、天水をすすり、小作地買収等により耕地の開発を図った。 以来農蚕業に励み、新たな移住者があれば迎え入れ、記念に必ず梅苗一本を贈った。 同地に開祖宮川善兵衛碑が建立されている。

日滝原新田の開発は中山田村・駒場村・高井野村・小布施村の開発人を中心として始められた。 開発人は藩の許可をもらうと、血縁・地縁の農民を集めて開墾を進めた。 山田・高井の人たちは日滝村(本郷)の裏、小布施地区の人たちは大谷・高橋村の裏を主に開発した。

日滝村絵図 ←【日滝村之図】(クリックすると拡大表示します)
 明治14年制作、長野県立歴史館蔵
 掲載許可者:長野県立歴史館(平成24年3月7日)

開発人は組頭となって、自分の組下の農民から年貢を集めて直接須坂藩役所へ納めた。 その点、組頭は村々の名主・庄屋と同じ役柄であり(下っ原の名主さんとよばれた)、日滝原は一人の住人もいないけれども、ひとつの村並みに扱われたのである。
 組頭のうち駒場には3人(後に1人)、中山田に2人、高井野に2人いた。 中山田の(島田)九郎左衛門・(水橋)九右衛門、高井野の(瀬谷崎)吉左衛門・(内山)九郎右衛門、駒場の(涌井)六之丞・太兵衛・新之丞であった。 島田家の先祖は笹平(上水内郡中条村)から移ってきた武田浪人と伝えられる。 水橋家は18世紀後半に中山田村の名主を務めており、瀬谷崎家も明治期に高井村の助役などを務めた。

1707年(宝永4年)に須坂藩は地詰検地を行い『日滝原新田山田・高井より入作地詰帳』を作成した。 小布施関係分は『日滝原新田六川入作地詰帳』である。 これが江戸時代を通して日滝原新田の年貢納入の基本台帳となった。
 この地詰帳によると、1707年当時には、山田・高井からここへの出作人は335人(軒)である。 当時は山田・高井の全域にわたっていて、いかに開発熱が盛んであったかわかる。 時代を追って山田・高井の遠方地区は減少し、駒場・千本松・堀之内などの近隣地区と、奥山田・牧の人たちによって占められるようになる。 奥山田・牧が多いのは、寒冷な気候のため生産力が低く、出作りの方が有利だったためだろう。


日滝原の畑地農業

『信州高山村誌』より

高山村と須坂市にまたがる日滝原は、千曲川の支流、松川の左岸にゆるやかに傾斜しながらひろがる扇状地である。 現在、ここにはりんご・ぶどうなどの広大な果樹園が広がっている。 しかし、昭和30年(1955年)ころまで、堀之内・千本松の集落に近いところには桑園も見られたが、ここは、奥山田・牧などの出作り地帯となっており、麦・大豆などの栽培が中心におこなわれていた。

この地域の降水量は、年間を通して1,000ミリメートル程度、農作物の成長期にあたる5〜9月は、600ミリメートル程度と少ない。 日照りがつづくと3週間も雨が降らないこともあり、たびたび旱魃の被害を受けてきた。 また、耕土が浅いうえに扇状地であることから、砂や小石の混ざった粗い砂礫質の地層が厚く堆積している。 そのため水はけはよいが、地下水の水位は低く、井戸を掘って農業用水を得ることは困難であった。 さらに、すぐ北側を流れる松川の水も、下流の小布施町に水利権があること、また鉱毒水であるため、農業用水として利用することは不適であった。

八木沢川と松川
↑八木沢川と日滝原・高井原(「川の名前を調べる地図」より)

日滝原に畑を持つ農家の中には、リヤカーや荷車で八木沢川から畑に水を運ぶ人もいた。 しかし、当時の農道は、畑から掘り出した石を境界に積んだだけの土手道で、その数も少なく屈曲や凹凸道であった。 また農道からの馬入れも整備されておらず、水を運ぶことができるのは、農道沿いの条件のよい場所に畑を持つ農家に限られた。 川から遠いところにある農家は、雨水だけが頼りで、旱魃のときは収穫をあきらめざるを得ない状態であった。


昭和30年代の大旱魃被害

昭和36年(1961年)、37年(1962年)と2年つづけて、日滝原では大旱魃の被害を受けた。
 37年の旱魃では7月下旬からの日照りつづきで、りんご園では木から葉や実が落ちたり、例年に比べて果実の大きさが小さかったりした。 また大豆には莢がほとんど付かなかった。
 とくに日滝原では、日ごとに被害が拡大するありさまであった。 りんご園ではスピードスプレヤー、揚水機、給水ホース等で潅水を行ったが、そのような応急対策にも限界があった。

高山村旱魃対策協議会の調査によれば、この年のりんごの収量は例年の半分近くに落ち込んだ。 その被害は減収量が817トン、被害金額が2,042万円ともっとも大きく、農家に経済的な大打撃を与えた。

昭和37年高山村における旱魃の被害状況
作物名 作付面積
(ha)
減収量
(t)
作況指数
(%)
被害金額
(万円)
りんご 成木 97
未木 83
817 55 2,042
大 豆 160 121 50 617
雑 穀 25 34 31 86
秋野菜 39 690 41 759
たばこ 23 2 20 60
ホップ 40 2 20 100
飼料作物 5 400 90 120
養蚕 70 40 462

畑地灌漑の取り組み

こうした被害を防ぎ、生産量を伸ばすために、畑地灌漑施設を整備する地区がみられるようになった。
 高山村の高井原では、大旱魃のあった昭和37年の9月から、畑地改良組合が中心となり、紫地区の湧き水を用水源に利用して、スプリンクラーによる灌漑施設の整備を進めた。 この設備は、落差を利用した地上配管移動式のもので、35本のスプリンクラーの立ち上がりが設けられた。 総工費800万円をかけて、翌年7月に完成した。 これにより115人の農家が共同して、畑地35町歩の潅水ができるようになった。

同じころ、須坂市の相森地区でも相森町潅水組合をつくり、20ヘクタール程の果樹園を共同で潅水することを始めた。

これらの取り組みの成果から、潅水した作物は非常に生育がよいことがわかった。
 そのため、より大きな灌漑施設をつくって多くの農家がその恩恵を受けられるようにしようという声が高まった。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2021年 4月30日

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