高井野の歴史>勝負田伝説〜二つの一騎打ち
戦国時代、北信の高井野や川中島一帯は越後の上杉軍と甲斐の武田軍がたびたび激突する舞台となりました。
特に謙信と信玄が一騎打ちに及んだとされる永禄4年(1561年)の激突は「川中島の合戦」として有名ですが、高井野には両軍の衝突にまつわるもう一つの一騎打ちの話も伝わっています。
よく晴れた秋の朝、善光寺平は中心を流れる千曲川から湧き上がる深い朝霧の底に沈んでいることがあります。
朝霧の向こうには、穂高連峰や槍ヶ岳、後立山連峰など北アルプスの代表的な山々が見渡せます。
↑北アルプスと霧に沈む善光寺平。左端が川中島付近。
永禄4年(1561年)9月10日早朝、深い霧の立ち込めた川中島の八幡原で、越後の上杉謙信軍1万8千の兵と、甲斐の武田信玄軍2万の兵が激突したと伝えられています。
世にいう川中島の合戦で、謙信と信玄が一騎打ちに及んだ激戦は、数多くの映画や時代劇、小説でおなじみです。
←八幡原史跡公園の像
永禄四年(1561年)九月十日、ここ八幡原を中心に上杉、武田両軍3万余の壮絶な死闘が展開された。
上杉謙信は紺糸縅の鎧に萌黄緞子の胴肩衣、金の星兜に立烏帽子白妙の練絹で行人包、長光の太刀を抜き放ち、名馬放生に跨がり戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見、旗本数騎を連れ信玄の本営を急襲した。
この時の武田信玄は諏訪法性の兜、黒糸縅の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。
この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。〔八幡原史跡公園の案内板より〕
↑武田二十四将図(左)と上杉十八将図(右)〔長野市立博物館蔵〕
天文22年 (1553年) |
第一次合戦 | 武田軍に追われた村上義清の求めに応じて上杉が出兵 八幡(千曲市)の戦いで上杉軍が勝利し北信の豪族は旧領を回復 武田軍が盛り返し布施(長野市)で戦い、上杉軍が勝利した |
弘治元年 (1555年) |
第二次合戦 | 武田軍が大塚まで進軍し、犀川を挟んで上杉軍と対峙 今川義元の調停で講和が成立 武田勢は川中島地方の一部を支配 |
弘治3年 (1557年) |
第三次合戦 | 武田軍が善光寺平を支配し、上杉軍は北信に進出して上野原(長野市)で衝突 武田勢が善光寺平と戸隠周辺を掌握 |
永禄4年 (1561年) |
第四次合戦 | 武田勢が北信を支配し越後侵入を謀る 上杉軍は北信に出陣し、川中島で対決 大激戦の後、上杉謙信が越後まで落ち延びた道が「謙信道」と伝えられている |
永禄7年 (1564年) |
第五次合戦 | 塩崎(長野市)で対峙 武田勢が川中島地方を支配 |
あのとき善光寺平一帯を霧が覆わなかったら、歴史は変わっていたかもしれません。
ただ信州人にしてみれば、勝手に踏み込んできて地元民を巻き込んで殺し合いをするなんて、迷惑なだけです。
高井野村の上野(うわの)地籍の南側にある水中集落の奥に、月生城(つきおいじょう)と呼ばれる山城があり、城の上がり口の滝の入り地籍に「勝負田」と呼ばれる1枚の田がありました。
甲斐の武田信玄と越後の長尾輝虎(上杉謙信)は、長引く川中島の戦いに決着をつけるため、甲越双方の代表武者に勝負させ、その結果によって北信濃の帰属を決しようとし、その勝負の舞台になったのがこの田であったと伝えられています。
↑滝の入地籍の「勝負田」
↑上野原と月生城趾(カシミール3Dで作成)
←上野と勝負田、月生城
(馬場廣幸「沼ノ入城と水沢原付近のこと」より)
先年より五箇度の大合戦、天文二十三年霜月より永禄七年迄十二年。
其中毎度に輝虎川中島へ出張、晴信と対陣に度々抹刈・刈田などの折節に、野際の物端にて、三百、四百、五百、七百出合いて討ちつ討たれつ勝負ある事数十度なり。
されども信玄は輝虎の勇才を憚り、謙信は信玄の知謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。
永禄七年七月に、信濃口の押(おさえ)野尻城に置かれ候宇佐見駿河守定行生害し、長尾政景も果て申候故、信濃堺仕置として輝虎出張。直に川中島へ出られ候。
晴信も出馬対陣なり。
十日計り対陣なりと雖も例の事なれば日々迫合計りにて勝負なし。
武田家の一門家老共信玄へ意見申候は、川中島上郡下郡四郡を争ひ、十二年の間毎年の合戦止む事なく候。 両虎の勢にて遂に勝負無之、毎度士卒の疲労申尽し難く候間、具津城付の領分計り御治め、川中島四郡は輝虎へ遣され、扨駿河表、関東筋、美濃口へ御出張候て、御手の広くなり候様になさるべく候。 川中島四郡に御係はり、剛強なる輝虎と取合ひ空しく年月を送られ候事如何あるべしと諫め申候。
八月十日の朝晴信申され候は、互の運のためしなり。 安馬彦六を召出し、組討をさせ、互の勝負を見て、其勝利次第に川中島を何方へも納むべしとて、安馬彦六を使として此者を輝虎の陣所へ申遣さる。
彦六は上杉陣所一の木戸口に行く所に、輝虎陣より直江大和守出向ひ、彦六は馬より下り、晴信申され候は、天文二三年より此方十二年の間、昼夜の戦有之と雖も、勝利の鋒同前にて今に勝負無之候間、明日は互に勇士を出し、組打の勝利次第に川中島を納め取り、向後輝虎、晴信弓箭を止め申すべく候との段にて候。 夫により即ち安馬彦六と申す者、明日の組打の役に申付けられ、是迄参り候間、器量の人を出され、明日組打仕るべしと晴信申され候由申入候。
直江大和守取次にて、輝虎返事あり。 信玄の仰尤に候間、此方よりも出し申すべく候。 明日午の刻に組打仕るべしとの趣なり。
永禄七年八月十一日午の刻に、晴信方より安馬彦六唯一騎、物具爽に出立ちて、白月毛の馬に乗りて、謙信陣所指して乗向かふ。
越後の陣所より小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出迎ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是へ罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。
小兵なれども彦六と晴の組打御覧ぜよ。
何方に勝利候とも、加勢助太刀打ち候はば永く弓矢の疵にて候べしと呼びて、彦六と馬を乗り違え、むずと組み、両馬が間に落重り候に、彦六上になり、与五左衛門を組敷き候時、甲州方は声を揚げ勇み悦ぶ所に、組みほぐれ、与五左衛門打勝ちて安馬を組臥せ、上に乗上り、彦六首を取りて立上り、高く差上げ、是れ御覧候へ、長谷川与五左衛門組打の勝利此の如くと呼ばはり候。
越後方には、覚えずして、長谷川仕候と一同に感じよどみ申候。
甲州方は無念に思ひ、千騎計り木戸を開き切って出でんと犇き候を、晴信見られ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に容易く組取られ候仕合は、味方の不運なり。
兼ねてより組討ちの勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。
違変は侍の永き名折れなり。
川中島四郡は輝虎次第と今日より致すべく候とて、翌日信玄人数を打入れられ候。
是により中郡、下郡越後の領となり候事、長谷川手柄の印なり。
即ち村上義清、高梨政頼、川中島へ移住、本意にて候。
是より武田、上杉の弓箭取合止み申候。
小山義雄「月生城史談」より
↓月生城と上野原
空中写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」を元に作成
弘治3年(1557年)の第三次川中島の合戦で戦闘が繰り広げられた上野原という場所については、長野市妻科上野原だったという有力説の他に、長野市若槻上野や飯山市静間だったという説もあります。
最終更新 2012年 3月 8日