1870年12月に発生した中野騒動で極刑に処された古志嘉藤太に関する史料が『館報たかやま』に記載されています。
嘉藤太の墓は四ツ谷の道端の古志家の墓地南端にある。 ただ1基の野石の墓碑、南面に「嘉藤太」「明治四年二月二十七日」と刻まれる。 その日は中野騒動の殉難者28人が処刑された日です。
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嘉藤太(43歳)たち19人の処刑理由は
「徒党に加わりめいめい獲物を携え立ち出で、東江部村庄左衛門そのほか市中人家等打ち壊し、または放火におよび、ことに県庁まで放火・乱暴いたし候始末、朝廷を憚らざる所業、不届き至極につき絞首」
とあります。
明治元年の宗門帳によると、嘉藤太(40歳)は父源左衛門67歳、母72歳、妻32歳、倅9歳、娘5歳の6人家族でした。
さて、嘉藤太は1750年ころから約百年にわたって「年寄」として高井野村の名主役を独占してきた堀之内の4軒の一つ源左衛門家の跡取です。 この「年寄」4軒による名主役独占の慣習は1857年(安政4)に起こった村の改革運動によって崩壊し、水沢・中善、久保、上赤和、新井原、紫・二ツ石、堀之内・千本松という順序で1年番で名主を勤めるように改革されました。
この改革の翌々年に起こった事件に、嘉藤太(31歳)が登場します。
安政6年春、高井野村にばくちをする者がいるとのうわさが代官所に聞こえ、取調べを受けることになりますが、村役人の奔走で一旦穏便にすみました。
ところが4月、堀之内組の啓蔵がばくち一件の密告者だという嫌疑をかけられ、久保組の清之助宅で6人の者からなぐられたり、若者つきあいをやめるぞと脅されました。
啓蔵と同じ五人組の嘉藤太たちが仲直りさせようと奔走中に、啓蔵が中野代官所へ直接訴える「駆け込み訴」という行動に出ました。
訴えるには村役人を通すのが順序です。啓蔵は郷宿に預けられ、村役人が出頭して貰いさげることになります。
このとき五人組の代表として問題の解決にあたったのが嘉藤太だったのです。
最終更新 2019年 1月28日