高井野の歴史中野騒動

朝敵の首魁とされた織右衛門

明治新政府の官僚は中野騒動を明治政府に対する反乱と見なし、高井野村名主・内山織右衛門を朝敵暴徒の首謀者と決めつけて極刑に処しました。
 内山織右衛門に関する記事を引用します。


騒動で処刑された高井野村農民
騒動の組織と参加に関する高井野の村役人の処刑

内山織右衛門

名主。水沢組に政治力を以てあらわれた新小前百姓の一人。 慎み深い中級の土地持ち百姓で、彼一族は中級の収入の新興グループであり、選挙を経て名主となり、1859年の村内争議の指導者となった。 織右衛門の経済的な暮らし向きは、貧乏ではなかった。副業の稼ぎ手としての収入は、リストに上がっていないが、商業的利益のある中級の農民であったので、村内争議の先頭に立った。 しかし、明治の初期、彼の息子の長吉は、蚕種の生産者としてリストに載っているから、それは一族の商業的利益を表している。 織右衛門は元時元年(1865)に名主となり、また、明治3年(1870)にも再選された。かれは、中野県庁への請願について村の会議を主導した。彼はついに満場一致の決議で県への強訴に加わるべきだと主張し、武器の準備を指示した。 彼は税金額の譲歩を求めた一揆の裏で、県役人と交渉もしていた。 彼は明治4年(1871)1月逮捕され1カ月後に弁明をした。彼の埋葬地は未だにわかっていない。

織右衛門の息子の長吉は、彼の父が名主であった時、水沢組の半頭であった。 その一族がその地方の政治力を持っていたということを示している。 長吉はまた、蚕種業を拡大して、普通の農民の間に普及し、徳川末期から明治初期にかけて新しく絹の輸出産業を開発した。 中野騒動の後、一家の政治力は衰えて行った。

石高:慶応3年(1867)、4.061石 明治4年(1871)、4.00石
 家族:7人
 年齢:42歳
 刑罰:打首

セルジューク・エッセンベル著、窪田博男訳『EVEN THE GODS REBEL「神々でさえも反乱す」より


中野騒動の殉難者たちの一面(一)―(内山)織右衛門―

明治新政府によって高井野村が首謀村とされた1870年12月の中野騒動(世直し一揆)は28人死刑という未曾有の厳酷な処分で幕が引かれました。 そのうちの20人まで当村の人たちです。
 なぜこのような厳しい処刑が行われたのでしょうか。 それは一揆勢が中野県庁を包囲、放火し、県庁員2人惨殺したことが政府に対する反逆と見なされたからです。 見せしめのための処刑でした。

一揆の指導者とされたのが当時の高井野村の名主で水中出身の(内山)織右衛門と、紫の豪農久保田重右衛門でした。

織右衛門についての史料は乏しいのですが、翌年2月の処刑当時42歳でした。 持ち高4石余と取調べの供述書にありますが、17年前に盗難にあったときの届けには2倍余りの9石6斗余(1町歩余)と記されています。

当時高井野村の名主は1年ずつの回り番でした。 明治3年8月から水中の番で織右衛門が選ばれたのです。

織右衛門の家族は、1868年(明治元)の『人別帳』によると次のようです。
「浄土真宗普願寺旦那、持高4石6升1合、織右衛門39、女房かね39、兄甚太郎51、倅長吉16、娘ふさ15、倅定吉12、倅民吉5、倅宇作2」。 娘1人と息子が5人いました。


盗難事件

盗難事件は次のようです。
 1854年の8月29日昼飯を食べに畑から帰宅してみると、裏戸の鎖が捻じ切ってあり、泥棒に入られた後でした。 調べてみると、盗まれた品は次の衣類14点です。

小袖が5枚(小紋・黒・ねずみ等いずれも扇ノ丸三ツいちょう紋)、小紋つき夏羽織1、絹の襦袢1、上田縞の単衣物1、赤縮緬・小緞子・繻子の帯計4、赤裏あさぎ染め縮緬の頭巾1、花菱の小納戸ふりしき1です。 当時の盗品は衣類が大部分でした。 これは織右衛門夫婦が25歳で、長男長女がまだ乳幼児のころのことです。

原滋「中野騒動の殉難者たちの一面(一)」『館報たかやま』より


名主織右衛門の捨札(判決文)

信州高井郡高井野村
    名主織右衛門(末四拾弐才)
此者義去午御年貢石代値下之義、厚く御利解之上、願書下ヶ渡しに相成候を、 小前へも申諭さず、大組頭重右衛門と申談じ、是非共再願ひの上、 採用無之節は松代藩管内同様の処置(松代騒動のこと)にも致すべく、 其心得をもって用意候様、小前へ相触させ、其上ほか村々騒立て押来り候風聞有之候に付、 小前一同を村内千本松に呼集め、願意の次第申聞けべくと、一応差止メ候ても案外騒立て、 聞入れず、機会を失ふまじく候とて、中野表へ押行き、たとへ官員に打殺され候とも、 又は打殺し候共勝手に暴動致すべく申聞け候より、一同押出し右に引立られ、外村々も騒立て、 あまつさへ村内助蔵其外の者共、大塚権大属ほか壱人を殺害致し、市町人家並ニ県庁に至る迄放火乱暴に及候次第に立到り、 殊に召捕られ候とも決して白状致すまじき旨村内の者共へ誓約致させ候段、 畢竟此の者指図より事起り候儀にて、朝廷を憚らざる所業、右始末重々不届至極に付、斬首申付候也。

金井明夫「中野騒動記」より


参考にさせていただいた資料

最終更新 2020年 3月10日

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