高井野の歴史中野騒動

殉難者・織右衛門と嘉藤太

1870年12月に発生した中野騒動で極刑に処された内山織右衛門と古志嘉藤太に関する史料が『館報たかやま』に記載されています。


中野騒動の殉難者たちの一面(一)―(内山)織右衛門―

明治新政府によって高井野村が首謀村とされた1870年12月の中野騒動(世直し一揆)は28人死刑という未曾有の厳酷な処分で幕が引かれました。 そのうちの20人まで当村の人たちです。
 なぜこのような厳しい処刑が行われたのでしょうか。 それは一揆勢が中野県庁を包囲、放火し、県庁員2人惨殺したことが政府に対する反逆と見なされたからです。 見せしめのための処刑でした。

一揆の指導者とされたのが当時の高井野村の名主で水中出身の(内山)織右衛門と、紫の豪農久保田重右衛門でした。

織右衛門についての史料は乏しいのですが、翌年2月の処刑当時42歳でした。 持ち高4石余と取調べの供述書にありますが、17年前に盗難にあったときの届けには2倍余りの9石6斗余(1町歩余)と記されています。

当時高井野村の名主は1年ずつの回り番でした。 明治3年8月から水中の番で織右衛門が選ばれたのです。

織右衛門の家族は、1868年(明治元)の『人別帳』によると次のようです。 「浄土真宗普願寺旦那、持高4石6升1合、織右衛門39、女房かね39、兄甚太郎51、倅長吉16、娘ふさ15、倅定吉12、倅民吉5、倅宇作2」。 娘1人と息子が5人いました。


盗難事件

盗難事件は次のようです。
 1854年の8月29日昼飯を食べに畑から帰宅してみると、裏戸の鎖が捻じ切ってあり、泥棒に入られた後でした。 調べてみると、盗まれた品は次の衣類14点です。

小袖が5枚(小紋・黒・ねずみ等いずれも扇ノ丸三ツいちょう紋)、小紋つき夏羽織1、絹の襦袢1、上田縞の単衣物1、赤縮緬・小緞子・繻子の帯計4、赤裏あさぎ染め縮緬の頭巾1、花菱の小納戸ふりしき1です。 当時の盗品は衣類が大部分でした。 これは織右衛門夫婦が25歳で、長男長女がまだ乳幼児のころのことです。


中野騒動の殉難者たちの一面(二)―(古志)嘉藤太―

嘉藤太の墓  嘉藤太の墓は四ツ谷の道端の古志家の墓地南端にある。 ただ1基の野石の墓碑、南面に「嘉藤太」「明治四年二月二十七日」と刻まれる。 その日は中野騒動の殉難者28人が処刑された日です。

←嘉藤太の墓

嘉藤太(43歳)たち19人の処刑理由は
「徒党に加わりめいめい獲物を携え立ち出で、東江部村庄左衛門そのほか市中人家等打ち壊し、または放火におよび、ことに県庁まで放火・乱暴いたし候始末、朝廷を憚らざる所業、不届き至極につき絞首」
とあります。

明治元年の宗門帳によると、嘉藤太(40歳)は父源左衛門67歳、母72歳、妻32歳、倅9歳、娘5歳の6人家族でした。

さて、嘉藤太は1750年ころから約百年にわたって「年寄」として高井野村の名主役を独占してきた堀之内の4軒の一つ源左衛門家の跡取です。 この「年寄」4軒による名主役独占の慣習は1857年(安政4)に起こった村の改革運動によって崩壊し、水沢・中善、久保、上赤和、新井原、紫・二ツ石、堀之内・千本松という順序で1年番で名主を勤めるように改革されました。

この改革の翌々年に起こった事件に、嘉藤太(31歳)が登場します。 安政6年春、高井野村にばくちをする者がいるとのうわさが代官所に聞こえ、取調べを受けることになりますが、村役人の奔走で一旦穏便にすみました。
 ところが4月、堀之内組の啓蔵がばくち一件の密告者だという嫌疑をかけられ、久保組の清之助宅で6人の者からなぐられたり、若者つきあいをやめるぞと脅されました。 啓蔵と同じ五人組の嘉藤太たちが仲直りさせようと奔走中に、啓蔵が中野代官所へ直接訴える「駆け込み訴」という行動に出ました。
 訴えるには村役人を通すのが順序です。啓蔵は郷宿に預けられ、村役人が出頭して貰いさげることになります。 このとき五人組の代表として問題の解決にあたったのが嘉藤太だったのです。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2019年 1月28日

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