高井野の歴史>亀原和太四郎一門〜高井の伽藍師〜

亀原和太四郎一門〜高井の伽藍師〜

高杜神社拝殿
 亀原一門は高井郡高井野郷上赤和出身の工匠一族で、江戸期から代々社寺建築をよくしてきました。
 亀原一門の社寺建築・彫刻は高井地方に限って君臨し、立川流の名声や越後系大工の進出に押される事無く、その作風を守り抜き、近年ようやくその素晴らしさが注目されています。
 『和太四郎』の名前は墓や主な建築の棟札に多く見られますが、はじめは『和田四良』と書いたこともあります(明和9年、墨坂神社の鏡台)。 明治初年の戸籍には『和田四郎』とあり、赤和の観世音像には『和田四郎』の墨書が見られます。


亀原の祖・牧善太夫嘉康

〔生年不詳〜明和6年(1769年)〕
 善太夫嘉康は初代・和太四郎嘉重の父です。
 子孫の亀原九三郎氏が『徳川幕府に仕えた巨匠・木原杢之守を師として江戸において建築彫刻の技を研鑚し、その技大いに進み杢之守より木原の性を許されしも故ありて亀原性とす。是れ其音訓相通ずればなり』と語り伝えています。

元徳寺本堂  善太夫嘉康の彫刻に、田幸山元徳寺御堂(須坂市南原町)があります。
←元徳寺本堂
向拝彫刻  棟札に
 『宝暦八寅歳(1758年)十二月六日 御堂建立
   願主 照進
   棟梁 氏四郎
   棟梁 善太夫』
とあり、向拝の彫刻は流麗な波の上に逆獅子が踊っています。
←向拝彫刻


初代・亀原和太四郎嘉重

〔延享元年(1744年)〜文政元寅年(1818年)5月24日〕
 和太四郎を名乗る初代は亀原嘉重です。
 奇しくも諏訪の立川流彫刻師の初代・和四郎立川富棟と同年の生まれであったことから、嘉重は和四郎に張り合って和太四郎を名乗ったように流布されていますが、和太四郎の名は和四郎が独立するより前からの命名だったようです。
 興国時(須坂市南原町)の旧山門(大正3年9月に大風で倒壊)の棟札(明和3年、1766年)が現山門に保存されています。
雁田水穂神社←雁田水穂神社本殿
 雁田水穂神社本殿(小布施町雁田)の棟札に
 『明和五年(1768年)文月大吉日再建
   棟梁及彫刻師 高井郡高井野村亀原和田四郎嘉重』
とあります。 本殿の向拝が欅の素木(しらき)彫り、身舎(もや)柱・垂木が松で黒塗、高欄・天井が朱塗で、中備は黒と金の額縁に極彩色の七福神の浮き彫り(三代目・嘉博の作との見方もある)がはめられており、豪華にして初々しい作品です。 この時25歳、早くも和太四郎を名乗っています。

芝宮神社(須坂市春木町)の鏡台の彫刻(明和9年、1772年)には「高井野村亀原和田四良嘉重」の銘があります。
 久保田家与治右衛門別宅(高山村紫)普請帳に
 『安永四年(1775年)
   大工棟梁 上赤和 和太四良殿』
 天明3年(1783年)久保田家重右衛門本宅(同)普請帳の筆頭に
 『大工棟梁 上赤和処 和太四郎殿』
とあります。

高杜神社拝殿  天明3年(1783年)に高杜神社(高山村久保)の拝殿を建てています。
←高杜神社拝殿
向拝彫刻  間口6.4m、奥行5.4mで拝殿虹梁上は竜を、木鼻には獅子が彫刻されています。
←拝殿彫刻
随身像と狛犬(左)  寛政年間に随身像を制作しています。
←拝殿内の随身像と狛犬
随身像と狛犬(右)  随身は門守神(かどもりのかみ)とか看督長(かどのおさ)ともいい、俗に矢大臣、矢大神ともいわれます。

墨坂神社拝殿  寛政5年(1793年)に八幡墨坂神社(須坂市八幡)の本社弊殿拝殿を建て、随身像を同10年(1798年)に制作しています。
←墨坂神社拝殿
彫刻←彫刻

浄教寺鐘楼門  寛政8年(1796年)に再建された浄教寺(高山村水中)の棟札に
  『和太四郎嘉重(花押)
   友吉嘉照(花押)
   武平太嘉貞(花押)』
と本人・弟・息子が署名しています。
 浄教寺は昭和34年、台風により鐘楼門を残して本堂が倒壊してしまいました。
←浄教寺鐘楼門
欄間彫刻  危うく難を逃れた十六羅漢の欄間彫刻(三代目・嘉博の作との見方もある)は高山村指定文化財になっています。
欄間彫刻
欄間彫刻

久保田家天神社  寛政12年(1800年)に紫の久保田家の天神社を作っています。
 『願主 久保田重右衛門光豊
  棟梁 亀原和太四良嘉重立之』
←久保田家天神社

嘉重(戒名 正眼覧道居士)の墓は3人の弟子の墓とともに臥竜山興国寺(須坂市)にあります。


亀原友吉嘉照

〔生没年不詳〕
 牧善太夫嘉康の子で初代・和太四郎嘉重の弟です。

欅原神社  文政元年(1818年)に欅原神社本社(小布施町)を建てています。
欅原神社←欅原神社本殿


二代・亀原和太四郎嘉貞

〔生年不詳〜慶応二丙年(1866年)9月24日〕
 亀原武平太嘉貞は嘉重の子で、棟札に亀原和太四郎と書かれたものは見つかっていません。

大島神社  建設年代は不明ですが、大島神社(小布施町)の拝殿と鳥居には『棟梁武平太』の銘があります。
大島神社←大島神社 鳥居と拝殿

浄教寺の棟札に名前があるほかに、文化10年(1813年)の飯縄神社(小布施町)には『武平太嘉貞』の銘があります。
 文政元年(1818年)には欅原神社本社(小布施町)や西福寺(須坂市福島)の彫刻をしています。
 文政7年(1824年)建設の神明社本殿(須坂市新田)には『後見人武平太嘉貞』とあります。
 小布施町の旧大楽院護摩堂棟札には
 『文政十年・・・同郡高井野村
   後見 亀原武平太嘉貞
   彫工 亀原悦蔵嘉重』
と父子の名前があります。
 武平太は絵を高井鴻山に、彫刻は京都の大仏師に、漢学を小布施町大島の根岸家に学んだといわれています。 このため小布施とその周辺の造立が多く見られます。
 次項に見られるように嘉博は武平太嘉貞を二代目和太四郎と墨書したことがあります。


三代・和太四郎嘉博

〔寛政10年(1798年)〜明治3年(1870年)5月13日〕
 三代目嘉博は武平太の妹が嫁いだ久保の勝山重左衛門の末子・悦蔵として生まれ、武平太に子息がなかったことから養子として迎えられました。
 高杜神社隋神像(寛政年中、初代・和太四郎嘉重作)の像内木片墨書に
 『天保十五年申辰六月奉修復 和太四郎三代後胤
  京都大仏師七条左膳門家   亀原悦蔵藤原嘉貞』
とあり、嘉博は京都で修業したことが解ります。
 悦蔵は伯父で養父の武平太に敬意を表して最初嘉貞を使ったのかもしれません。 また『和太四郎三代後胤』の署名から見ると、武平太を二代とし、嘉博自信が和太四郎三代を名乗ったと思われます。 天保期には亀原悦蔵藤原嘉重を名乗り、嘉永期になると普願寺鐘楼などにみられる亀原和太四郎藤原嘉重とし、嘉永末から同嘉博としています。 その銘は須坂市・福正寺沼目薬師堂(嘉永6年、1853年)、高山村山田温泉・牛窪神社本社(安政6年、1859年)、北斎や鴻山と合作した小布施上町の屋台飾人形「皇孫勝(公孫勝)」などに見られます。

本殿 ←高杜神社本殿
 代表作は嘉永元年(1848年)に制作した氏神である郷社高杜神社本社で、総体が素木(しらき)の一間社(いっけんしゃ)流れ造りです。
鳥居 ←高杜神社鳥居
 嘉永5年(1852年)には杉並木の参道入り口に両部鳥居を建てています。

祭屋台 小布施町の東町と上町の祭屋台を葛飾北斎、高井鴻山とともに制作しています。
←上町祭屋台
皇孫勝像 ←皇孫勝像
 特に弘化2年(1845年)の皇孫勝像は葛飾北斎との合作といわれ、何度も彫りなおしてやっと北斎が納得したものという逸話があります。

浄運寺本堂←浄運寺本堂
 天明7年(1787年)に消失した無量寿院井上山浄運寺(須坂市井上)は、寛政6年(1794年)に高井野村千本松・中村直七家の寄進によって再建されました(須坂市指定文化財では棟梁が坂口森右衛門、竹村庄左衛門となっています)。
 和太四郎嘉博による本堂の大欄間彫刻「二十四孝」は普請帳に嘉永3年(1850年)の寄進と記されています。


亀原和蔵嘉哲

〔出生不詳〜明治3年(1870年)3月〕
 嘉博の長男で、須坂市塩川の熊野三社に『彫刻 亀原和蔵』と名前が見えます。

牛窪神社  高山村山田温泉の牛窪神社(安政6年、1859年)の棟札には
 『大工棟梁 亀原和太四郎藤原嘉博
   脇棟梁 亀原和蔵嘉哲』
と父子の名前が記されています。
←牛窪神社


四代・亀原和太四郎嘉照

〔弘化2年(1845年)〜大正10年(1921年)1月12日〕
 嘉博の次男で、九三郎嘉照と称し、明治から大正期に活躍しました。

奥田神社  明治13年(1880年)に奥田神社拝殿(須坂市常盤町)を造立し、その棟札には
 『棟梁 高井村亀原和太四郎嘉照』
と墨書されています。
←奥田神社

赤和観音  明治19年(1886年)に懸崖造りの赤和観音堂を再建した際に、建設委員を務めています。
赤和観音←赤和観音堂

天満宮  明治37年(1904年)に高山村天神原の天満宮を建てています。
←天満宮
天満宮  棟札に『後見兼矩形(きく)長 本郡高井村亀原九三郎嘉照』と記され、図面を主にしていたようです。

興国寺山門  明治39年(1906年)に墨坂芝宮神社祝詞殿(須坂市春木町)、大正7年(1918年)に興国寺山門(須坂市南原町)を建てています。
←興国寺山門

 大正年代の初期にこの九三郎と興国寺山門の仕事を一緒にしたという須坂市穀町の小林弥三郎翁の話によると
「その頃は世話をやいていただけであまり仕事を手に取ってはしなかった。 この九三郎は痩せ形の長身で温和な人柄であった」由。


亀原袈裟治嘉明

〔明治24年(1891年)〜昭和8年(1933年)〕
 亀原家の家督は嘉照の四男の袈裟治が受け継ぎました。
 袈裟治嘉明は父親の九三郎と一緒に仕事をしたことがあり、天神原天満宮の棟札には『小工 亀原袈裟治』の銘が墨書されています。

大正元年(1912年)に上京して日活撮影所の大道具係として入社し、装置部長、映像部長を歴任しました。日本における映画美術の先駆者として知られています。日活の移転とともに京都へ移り、42歳で病に倒れて会社葬が営まれ、京都妙心寺塔頭(たっちゅう)の海福院(福島正則が福島家の菩提寺として開創した)に葬られています(戒名 積徳員春光浄栄居士)。
 日活社史に次のように記載されているそうです。
 「現代劇部撮影部長亀原嘉明氏 建築家出身の氏は大正元年日活に入り向島撮影所建設に参与し、竣成後引きつづき営繕係として在勤し、のち舞台装置部に転じその主任となり、多年の研鑽を積み、今や斯界第一人者の称がある。 現に装置部長及び所長秘書を兼ねる池永氏の股肱として重く用いられている」


亀原家

大正8年(1919年)4月7日、亀原家の先祖の法要準備の際に出火し、昼火事となって全焼するとともに、近隣にもその災いが及ぶ大火となりました。 このため亀原一門の成果を示す資料は残されていません。その後、同家は赤和の海福寺境内の建物に移りました。

袈裟治嘉明以降、亀原家で建築を継ぐ者はいませんが、一門の伽藍師は高井地方の社寺に生きています。
亀原和太四郎 系図


参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 8月14日

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