山田温泉から山田牧場へ向かう松川渓谷の途中にある雷滝は別名「裏見の滝」とも呼ばれ、春から秋にかけてたくさんの観光客で賑わう村一番の名勝ですが、発見されたのは今から100年前と比較的新しい名所です。
『長野縣上高井郡誌』より
山田温泉より、草津街道を、東に向ってゆく事、峨々たる深山の下、轟々の響あり之松川の懸れる雷瀧とす。
松川の上流、四里の処にありて、四周は数十丈の絶壁をなす。
故に之れが響源を探求せんとする者ありしかども、巨岩直立して、入るを許さずして、未だ懸瀑たるを見る能わず。
只一大淵をなすらんと、名づけて雷淵と称しき。
然るに明治四十二年八月十五日、山田の有志、渇本亀吉・関谷文男・藤澤賢治・宮川浪英・関谷小次郎氏等、之れが探検を企て、非常なる危険を冒して遂に淙々たる大瀑の絶壁に懸れるを発見したり。
松川の一曲折せんとする所、数十丈の岸壁をなす。
一道の大瀑巨崖を劈ひて、崩落する事数十仭、濛々たる余沫は、深谷を覆ひて、驟雨の至るが如く。
滔々たる水声は、四周の岸壁に鳴動して、萬雷の一時に吼ゆるが如く、乾坤為に震ひ、付近数百歩の地にありては、夏季の候と雖も、尚冷気の肌を沾すを見る。
加ふるにこの瀧の背部は、一大岩崖をなし、瀑背より之れを望見することを得。
人一度茲に立てば、神気も又遠くなりて、真に魂消え霊とぶの思あらしむこの瀧たるや、その水量の莫大なる、その水声の轟然たる、殊に爆背より之れを望見し得るに至りては日光裏見の瀧の只名のみを留むるの今日、真に天下の一品たるを失わず。
今や山田青年会が、一週日の危険と苦心とは、険を夷し、棚を設け、観客をして、晏然として、この偉観を恣にせしむ。
且て探勝家某氏杖を茲に曳き、嘆賞して曰く、由来我國瀑布多し。
然れどもかくの如き偉観は、華厳をおいては、見るべからずと。
天下の勝を探らんとするもの、須く来り観よ。
「開湯二百年の湯の里―山田温泉」(『信州高山村誌』第三巻地誌編)より
雷滝は山田温泉から3キロメートル弱、五色温泉の手前にある。
90年前までは、旧草津街道で雷鳴のような響きが聞こえるだけで、絶壁に取り囲まれた滝の本体を実際に見ることはできなかった。
雷滝の存在を確かめたのは明治42年(1908年)のことである。
17、8歳から24、5歳の山田村青年団員、関谷文雄ら5人は、ありあわせの丈夫な綱1本に命を託し、1歩1歩絶壁を降りた。
血のにじむ苦闘の末ついに幻の滝の全容を見極める地点に到達した。
裏見の滝であることもわかりその感慨は
「むらの石造文化財」(『館報たかやま』No.273)より
けたたましく流れ落ちる滝を、裏から見ながら、ひそやかに奉られている。
大正8年10月、豊野からのトテ馬車の
一切の障害を打ち砕いて、人々を悟りに導くと信じられているこの不動明王の姿は、上半身裸、猛火を負って、右手に剣、左手に羂索をもち、弁髪と呼ばれる形の髪を片方の肩にたらし、目は両眼を開いているか、片眼だけ細く閉じ、下の牙で上唇をかんだ、おそろしい姿である。
「いいとこ見っけ−高山村の原風景−」(『自然と人のふれあう村』)より
この滝の見頃といえば、春から秋にかけてが一番良い。
あえて冬を選んだわけは「氷柱」がすばらしいからだ。
冬は簡単には行けないが、冬の寒さでできる氷柱は碧玉の彫刻のように見事なものだ。
氷柱は、滝とその南側の断崖に見られ、断崖の標柱は道路から見ることができる。
氷柱の青白色と崖の岩の色との調和が、神秘的な世界をかもし出している。
この雷滝のある松川渓谷は、秋の紅葉はことのほか有名で、夏でも涼を求めにたくさんの人が訪れる。
しかし冬から春にかけての雷滝の氷柱は、静けさの中に荘厳な大きさを感じさせ、自然のなす素晴らしさを感じさせてくれる。
訪れるにはアイゼンが必要になる。
改訂版『村の文化財をたずねて』より
山田温泉から渓谷を2キロメートルほど上流に向かうと、雷滝の駐車場がありそこから徒歩2〜3分ほどくだると、轟音をたてて落下する滝の側面に出ます。 「雷滝」という名のいわれは、雷鳴のように轟音をたてて落下しているからとも、落水が風を起こして稲妻のように見えるからともいわれています。 ひさし状にでた滝の岩場をくぐると滝の裏側を見ることができることから、「裏見の滝」ともよばれています。 そのまま谷の向こう側にすすむと、水煙をたてて谷底に落ちる落差約30メートルの滝の全景が見られます。
最終更新 2019年 8月 6日