高井野の地理>高井野の街道

毛無道〜大笹街道の抜け道〜

毛無峠←毛無峠
 江戸時代、上州・北関東と北信州・北陸地方を結ぶ主要街道は「北国街道」で、その脇往還である「大笹街道」(上州側では信州街道、仁礼街道)も慶安3年(1650年)に公道として認められていました。
 これに対し、小布施を起点として毛無峠を越え、上州の干俣(ほしまた)・門貝(かどかい)に至る毛無道は信州と上州を結ぶ最短距離の「抜け道」として利用されました。
 また高井野・黒部・牧・日滝・小布施・須坂北部の村々の山稼ぎ道としても頻繁に利用されていました。
上高井地方交通網
↑江戸時代の上高井地方交通網図(『長野県上高井誌』より)

経路

毛無道 ←毛無道の絵図。左上が毛無峠(『信州高山村誌』より)
 小布施から雁田地籍で松川を渡り、日滝原に出ます。ここから松川の左岸を東にのぼり、高井野村に入ります。
紫の辻  四ツ屋・紫・二ツ石と進んで下樋沢橋を渡り、牧・待留橋へ向かうか、黒部村の北部を東にのぼって、上樋沢橋を渡って、科ノ木地籍から待留橋(930m)を渡ります。
 ←紫の辻に立つ「二十三夜塔」
  左 すざかに至   右 おぶせに至
 牧村からは子安橋付近から福井原に進み、樋沢川右岸をのぼって待留橋を渡ります。
 待留橋から左岸の急坂をのぼり、湯沢・滝沢地籍で閻魔橋(1230m)を渡ります。 この橋からさらに急峻な道となり、針ノ木沢・水無沢・湯倉・両沢と急坂が続き、「七曲がり」と呼ばれる屈折道をのぼりきると、御飯岳(2160m)と破風岳(1999m)との鞍部にある毛無峠(1823m)に至ります。
毛無道
↑『高井村誌』に記された毛無道。高井野山と破風ヶ嶽の間を抜けて行く(『信州高山村誌』より)

毛無道 ←毛無峠を下る毛無道
 毛無峠を越えると上州で、不動沢から万座川に沿って下り、仁田沢を経由して門貝に至ります。ここで須坂から灰野峠を越えてきた三原道(灰野道)と合流し、西窪で大笹街道(仁礼道)に合流して鎌原・羽根尾を経て高崎方面に向かいます。


軍用道

南北朝時代

履中天皇(17代・5世紀後半)のころ、信濃国更級郡を本拠とする更科次郎によって父と妹3人を殺された高野辺中納言は、5万余騎を率いて武蔵国府(東京都府中市)に入り、仇の更科次郎を上野国に攻めた。 更科次郎はかなわずして本拠地の信濃国更科郡へ逃げようとしたので、中納言の妹聟(まいせい)の伊香保大夫は碓日坂(うすいざか、碓氷峠)と毛無峠に関所を構えて、更科次郎たちの逃亡を阻止した。 そして、更科次郎を捕らえて仇を討ったという。
『神道集巻四一「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」』

戦国時代

永禄4年(1561年)10月、鎌原城(かんばらじょう、群馬県吾妻郡嬬恋村)の鎌原幸重は、羽尾城(はねおじょう、群馬県吾妻郡長野原町)の羽根尾入道に敗れ、一門は佐久へ退去し、鎌原城も占拠された。 しかし、翌年6月、真田幸隆らの加勢をえた鎌原幸重は、万座の湯に入湯中の羽尾入道を襲い、鎌原城を奪回した。 不意を突かれた羽尾入道は羽尾城への道をふさがれて帰れず、万座山を越えて高井野郷に逃げ延びた。
 羽尾入道は高井野郷で二ヶ月あまりを過し、高井野の加勢をつのり、9月上旬に5百余人を率いて万座山から毛無峠を越え、上州側の米無山で鎌原氏の軍勢と戦った。 しかし、羽尾軍は大敗し、加勢した高井野の援軍はなれない山中に迷い込み、7日も10日もかかって逃げ帰ったという。


信仰の道

古代の山岳信仰と仏教などが習合した修験道(山伏)が、中世になると地方でも盛んになりました。 信濃と上野の国境に連なる四阿山や白根山は古くからの信仰の山で、四阿山は白山大権現をまつり、白根山は八大地獄を思わせる自然の熱湯沼により、修験道の聖地となっていました。 修行のため全国各地の霊山を訪れた修験者たちは、四阿山や白根山など北信濃の霊場を巡る道として毛無道を利用したことでしょう。

また毛無道は善光寺詣での道としても利用されたと思われます。 善光寺は中世以降、阿弥陀如来の信仰がさかんになると、浄土真宗(一向宗)・浄土宗・時宗の信徒をはじめ多くの人びとから信仰を集めました。
 毛無道は北関東の人びとにとって、鳥居峠・菅平を経由する大笹街道よりも善光寺への近道でした。

抜け道の碑  上州吾妻郡嬬恋村には、大笹街道の関所を避けて善光寺へ抜ける道を暗示した「抜け道の碑」が立てられています。

 揚雲雀 見聞てこゝに休ふて
 右を仏の道と志るべし 正道

←抜け道の道標
(「大笹街道を訪ねて」より)



交易の道

徳川幕府は寛文2年(1662年)、北国街道・中山道の脇往還である大笹街道(須坂・福島宿〜上州・大笹宿)に大笹関所を設け、抜け道の毛無道を通行禁止にしましたが、時間と経費が節約されることから抜け道する人が後を絶たなかったようです。

高井野村新井原の夘平太は水戸藩御用の菜種油・材木・木炭・薪などを用立てていました。享和3年(1803年)小布施村の要吉と二人で、水戸藩御用の菜種油を「万座山中道(毛無道)」を通って運搬したことが、大笹村の名主長左衛門に摘発されました。
 この道は山稼ぎ以外には通行禁止の「抜け道」だったため、代官所からさらに江戸幕府の勘定所へ訴えられ、夘平太と要吉は勘定所へ召し出されて吟味を受け謝罪しました。
 この事件の裏には、干俣・門貝・中居村(嬬恋村)などがこの道の開通を望み、陰で夘平太らを援助したふしが見られます。

この事件の翌年の文化4年(1804年)、黒部村の惣右衛門は片貝村の半兵衛から金を借り、その代償として大豆4俵を渡す約束をしました。 10月13日、村の文治郎、源治郎両人が馬を牽いて奥山へ薪を採りに行くとき、大豆2駄(4俵)を積んでいき、毛無峠で下ろしておくように頼みました。
 ところがこの2人がそのまま帰宅しないので村中総出で探しました。すると大笹村(嬬恋村)の名主・黒岩長左衛門が帯刀して鉄砲・鎗・六尺棒などを持った4、50人を連れてやってきて、二人を連れ去ったといいます。 さっそく村役人が代表して長左衛門に掛け合ったが解決せず、幕府代官所へ訴えたという事件が発生しています。


山稼ぎの道

 福井原の先の南町原から奥、樋沢川沿いの山腹は、高井野村・黒部村・日滝村から相之島まで以北と小布施の村々23か村の入会山でした。 入会村の人々は、肥料用の草や木の若枝を刈ったり、薪を採るためにこの道を往復しました。
 また高井野村・黒部村・牧村・灰野村の4か村は毛無峠と四阿山の間にある浦倉山の薪採りもできました。 これは関所のあった大笹村の名主・黒岩長左衛門に山年貢を何百文かを納めて山札(薪札)を下付され、それを携帯した者だけが浦倉山に入山を許可されていました。
 山札を持たずに毛無峠を越えると長左衛門の手下に捕らえられ、幕府代官所に送られました。


近年

明治になって自由通行となり、信州からは米穀・塩・菜種油などが上州に、上州からは木炭・板・木製品・馬鈴薯・片栗・葛粉・麻などが信州に運ばれました。

しかし明治26年(1893年)に信越本線が高崎・直江津間に開通して信越と関東方面との物資流通の主体が鉄道に移ったことで毛無道は次第に衰退し、昭和期に入ってからは小串鉱山に通ずるだけの道となり、昭和46年(1971年)に小串鉱山が閉山すると群馬県側は廃道となりました。

毛無峠から高井野を望む  毛無峠から見下ろす樋沢川渓谷と善光寺平

小串鉱山跡地  群馬県吾妻郡嬬恋村大前(国道144号交点)を起点とし、長野県須坂市大字須坂(春木町交差点)を終点とする群馬県道・長野県道112号大前須坂線は、現在、嬬恋村干俣−小串鉱山跡付近までは不通になっています。
←小串鉱山跡地


↑毛無峠


公道と抜け道

北信と上州の交通網
↑江戸時代末期の北信と上州を結ぶ交通網(『信州高山村誌』より)
 幕府公認の街道の他に何本もの抜け道が上州と北信を結んでいました。

北国街道

五街道の中山道と追分で分かれ、善光寺を経由して直江津で北陸道に通じる公道です。
 須坂から江戸まで松代道・北国街道・中山道を経由すると6日間を要しました。

大笹街道(仁礼街道、信州街道)〔脇往還〕

井上村道標  松代街道福島宿−井上−八町−栃倉−仁礼−峰の原−菅平−鳥井峠−田代−上州大笹宿
 須坂から江戸まで5日間で行ける近道で、主に馬で運搬したことから「馬の道」とも呼ばれました。

←井上の辻に立つ道標
  左 須坂中野道
  右 仁礼草津道
仁礼宿 ←十返舎一九「続膝栗毛」より仁礼宿
大笹関所跡 ←大笹関所跡

保科道

松代街道川田宿−保科−菅平で大笹街道に合流

草津道〔抜け道〕

中野−沓野−渋峠−上州草津

山田道〔抜け道〕

小布施−山田−山田峠−上州草津

万座道〔抜け道〕

須坂−高井−牧−万座峠−上州万座

三原道(灰野道)〔抜け道〕

須坂−灰野−灰野峠−上州干俣
 主に牛を使って運搬したことから「牛の道」とも呼ばれました。


参考にさせていただいた資料

最終更新 2017年 1月13日

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