高井野の地理>高井野の街道
↑小池峠の馬頭観音と標柱
奥山田の淵の沢から登る小池峠は山田から寒沢を経て湯田中に至る「湯田中道」の要衝で、近年まで山田の若衆が温泉街を目指して越えた峠でした。
この道は戦国時代に越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄との戦いに川中島に向かって進んだ「謙信道」とも伝えられています。
湯田中道と小池峠に関して『須高』『館報たかやま』『間山区史』などに記載された内容をまとめました。
片桐昭「小池峠と盆じゃもの」から引用
宮村からとちのきり地籍を蛇行する山道を登り、ひと山越えて山の内の菅、寒沢へ通じる峠、ここが小池峠である。 下高井から宮村方面に通じる峠ということで、下高井では宮村峠と呼ぶ人もいる。
小池峠の語源となっている「小池」はとちのきり山の中腹にあって、長さ2メートル、幅70センチほどの小さな池である。 年中、水枯れがなく、昔からイモリが池の主だったという伝説も残る。
←「小池」の案内板
峠の南斜面は昭和30年代まで宮村の入会草刈場であった。
晩秋の頃、取り入れた干草は唯一の労働力を提供する牛馬の餌となったり、田畑の有機肥料として活用された。
当時は全戸の約8割が牛か馬を飼って母屋に同居していた。
しかし、農業の機械化、化学肥料の普及などに伴って秣場の必要もなくなり、林業公社の手によって杉や落葉松に変わってしまった。
峠の北斜面を曲折する道路は中野地籍の一角を経て山の内町へ通じるのであるが、県道にも編入されて拡幅、舗装工事も進んで昔の面影を一新しているが、一部の区間が崩落し、交通は不可能である。
「オラー、それがたのしみで稼いだもんださ」
こんな話で座をにぎわした古老も順に姿を消してしまった。
多くは、明治40年頃までに生まれた人たちである。
この峠路がにぎわったのは大正時代から昭和初頭にかけて、行き交う人々は宮村近辺の若者、寒沢、菅方面からの商人だったのである。
「オラも若かったなあ、よめし(夕飯)食って、そっとうちから抜け出てサ、2里半の山道を1時間半ぐれですっとんだもんだ、さんざ(充分に)遊んで夜の明ける頃は自分のふとんにもぐってたぜ、そしてまた炭焼きに行ったさ」
こんな話に泡をとばした人たちこそ、湯田中遊郭通いのご常連だったのである。
大正初期に開業して今に至っているという菅の酒屋の主人、Nさん(75歳)は当時の思い出を
「昔は、宮村方面の若いしょが湯田中へ通ったもんだ、百姓姿で峠をこえて、わしらうちで着替えてネ、パリッとした姿で遊郭へ走っていったっけ。
当時、親父は山田温泉の湯本旅館へ酒を運んでいやした。
寒沢のYさんは宮村へ米を運んでいたもんで、うちで待ち合わせしては馬の背いっぱいの荷物で出かけたもんですぜ。
あの頃、米1升が40銭、酒1升が60銭とおぼえていやすナ」
こんな話をそばで聞いていたNさんの母親Mさん(96歳)は、
「わしがここへ嫁いだ頃、宮村の若いしょといっしょに踊ったもんですぜ、『盆じゃもの』ってのが盛んでしてな、若いしょ、湯田中で遊んだ帰り、わしらの輪に入って、それはそれはにぎやかなもんでした。」
6〜70年も昔の新妻時代の思い出をこんなふうに話された。
人はいつの時代でも、苦しみの中に相応なたのしみを求めて生きるのが人情のつねでもあるが、今の時代では到底考えられないエピソードが峠の歴史に刻まれているのである。
『館報たかやま』から引用
奥山田から小池峠を越えて角間・湯田中・須賀川方面に通じる道は、40代以上の人ならきっと、遠足で何度か通った記憶があるでしょう。
この道は山田・高井方面から角間・湯田中・渋温泉へ湯治に行く人たちの通った道です。
長野電鉄線が開通してからでも、須坂や小布施へ出て電車で行く人はごくわずかでした。
宮村と蕨平の境を流れる淵ノ沢に沿って少し登り、淵ノ沢と分かれて北へ向かって登ると小池峠に達します。
峠の頂上には、小さな馬頭観音が奥山田側を向いて立っています。
文字の上に馬の首が浮き彫りしてあります。
「藤沢駒蔵」と建立者の名前が彫ってあります。
奥山田の宮村の人で、大正初期に建立されたようです。
←馬頭観音
小池峠(標高1065メートル)から菅まで、幅1間ぐらいの道がずっと続いています。
草におおわれていますがりっぱな道路です。
ただ、1か所崩れていて道上のやぶの中を歩かなくてはなりません。
この道は下高井方面から山田温泉・奥山田へ酒や米などの物資を運ぶ交易路としても、江戸時代から明治・大正・昭和初期まで利用されました。
馬の背に積んで運んだのでしょう。
←小池峠から菅に下る道
奥山田側にわずか下ると、道端に小さい池があるので、「小池峠」と呼ぶようになったようです。
峠を登って乾いたのどをうるおすのにちょうどいい水飲み場です。
←「小池」
しかし、小池峠のことを、以前は山田峠とか宮村峠と呼んでいました。
小池峠道は「謙信道」ともいわれます。「謙信道」とは古道のことです。
古い5万分の1の地図で見ると、今の峠道の東方にもう1筋、淵ノ沢の上流から登る峠道が描いてあります。 昔は天神原・荻久保方面の人はこの道を歩いたのかも知れません。 この道をまっすぐ東へ登ると山田牧場へ通じています。
小池峠を間山側では昭和前半期まで山田峠とも呼んでいました。
↑県道66号豊野南志賀公園線から小池峠に登る山道(カシミール3Dで制作)
『信州高山村誌』第二巻歴史編から引用
淵ノ沢左岸に沿ってしぼう山となろう山を抜けきると、とちのきり(山田入)に出る。 この山の中腹をなだらかに蛇行する道を登りきったところが、中野方面を一望できる小池峠である。 峠から尾根伝いに東に向かうとなろう峠に着く。 この峠は、江戸時代から山稼ぎ道としても使われてきた。 また、峠から西のほうへ尾根を進むと、山ずみをへて、とや山の北部を通り、中山田村の中塩に出る。 この道は、中山田村の出稼ぎ道として利用されてきた。
さて、小池峠を北にくだったふもとの集落が菅(山ノ内町)である。 菅の人びとは、峠の南麓最寄の集落が宮村ということで、峠を「宮村峠」とも呼んでいたという。 この峠道はすでに中世に存在した。 江戸時代後期からは、湯田中・渋・角間などへの入湯人の利用もあった。 とくに、角間の湯は、俗に「冷之湯」といわれ、やけど・傷・吹出物などに効能が大きいとされ湯治でにぎわった。 宮村の若者たちが慰安旅行で峠越えで角間の湯をめざした歴史は古い。
昔から親しんできた峠道も、時代とともに人影はとだえているが、江戸時代からの生活道への思いは深く、地元宮関の人びとによる峠道の手入れは、平成の今に受け継がれている。
↑菅・湯田中道と周辺の地名(『信州高山村誌』より)
小池峠は、宮村・蕨平など奥山田から角間・湯田中・須賀川に通じる道で、江戸時代から明治・大正・昭和初期まで利用されていた。 幅1間ぐらいの立派な道で、下高井から山田温泉・奥山田へ酒や米などの物資を運ぶ交易路であり、山田・高井から角間・湯田中・渋温泉へ湯治に行く人たちが通った道でもある。
←間山道と湯田中道(『信州高山村誌』より)
『間山区史』から引用
南の山田郷へ通じる道もいく筋かあった。
阿夫利神社(石尊社)の尾根道を東南へ登ると、小池峠に出る。小池峠(昭和前半期まで山田峠ともよんだ)をくだると、奥山田の宮村・関場をへて松川を渡り、牧村にでる。
ここから毛無峠を越えて上州に通じる道も、古い道である。
峠をくだって南に折れると、奥山田の中心蕨平へ出る。
なお、小池峠をくだらずに、尾根道をさらに数百メートル登ってから、南にくだる道もあった。万座方面へいく近道である。
戦国時代、甲斐の武将・武田信玄は信濃の国に攻め入り、次々と領地を拡大していきました。
信玄に追われた信濃の中小豪族は、越後の領主・上杉謙信に助けを求め、これに応じた謙信が信濃に兵を進めて川中島で対峙しました。
戦いは天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)までの12年間に5回行われ、このとき謙信が越後から川中島へ軍を進めた道筋が「謙信道」と伝えられています。
上杉の居城・春日山城から富倉峠(飯山市)を越えて信濃に入り、飯山から木島平、山ノ内の
高山村内には
↑高山村内に伝えられている「謙信道」(カシミール3Dにより作成)
小池峠から宮村集落に下り、関場の日向平(ひなただいら)か藤沢で松川を渡って牧の集落に入ります。(赤の破線)
←小池峠と標柱
牧から福井原の下部を通って樋沢川を渡り、黒部の裏山の西裾を越えて黒部の集落に入ります。
←樋沢の案内標識
黒部の集落西端を下って、北裏地籍から城山に登ります。
←北裏から城山の登り口
ツツジ公園のある城山から赤和の谷地地籍に下ります。
←谷地のツツジ公園案内図
赤和集落の中ほどにある庚申塔の脇から八木沢川を渡って勝山に至ります。
←谷地の案内標識
勝山の乗越し(のっこし)を越えて久保集落に下ります。
←勝山の乗越し
久保の集落から上野(うわの)地籍を横切って水中の集落に至ります。
←「謙信道」と伝えられている上野の畦道
水中で中野・小布施方面と上州とを結ぶ「灰野道」と合流します。
←「灰野道」と案内板
滝ノ入地籍には「勝負田」の地名と川中島合戦にまつわる伝承が伝えられ、明覚山と尾根には戦国時代の山城跡もあります。
←水中の史跡
滝ノ入地籍から山道を灰野峠まで登ります。
←明覚山と灰野峠
須坂市との境になる峠を高井側では「灰野の乗越し(灰野峠)」と呼び、須坂側では「水中峠」と呼んでいます。
←灰野峠の案内看板
灰野峠から明覚山の尾根を登ると、頂上に雨引城趾があります。
←雨引城跡の案内看板
○牧には、間山峠から平塩に至り、「稲久保」で松川を渡って「頓原(どんばら)」に出てきた道筋も伝えられています。(青の破線)
○奥山田には山田牧場から笠岳の肩を越えて山ノ内に至る道も伝えられています。(緑の破線)
灰野峠から豊丘(須坂市)へ下り、八町から馬越峠を越えて綿内(長野市若穂)に下ると上杉謙信陣屋跡があり、ここを通って松代に至る道筋が伝えられています。
←上杉謙信陣屋敷跡(長野市若穂綿内)
上杉謙信 陣屋敷跡
下剋上の戦国時代、天文二二年(一五五三)から永禄七年(一五六四)の十一年間、北信濃の覇権を懸けて激しい攻防を繰り返した、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄。
上杉謙信は、大軍を山峡(やまがい)に潜ませるには極めて都合が良く、且つ飲み水として天然の湧水が各所(陣屋敷窪、宮王窪、道川窪、明徳水源他)に出る、戦略上最適な立地の此処に陣を張り、大峰城、葛山(かつらやま)城(芋井富田)に待機する味方の軍勢に向けて、ほぼ一直線内に在る自軍の春山城(城ノ峰)を中継の狼煙(のろし)台に使って作戦の指揮を執った。
全五回に及ぶ両雄の戦いの内、最も激しかったのが永禄四年(一五六一)九月の四回目の戦いであった。
謙信は此処の陣を発って、妻女山に本陣を構え、信玄は自ら本隊を率いて茶臼山から八幡原に布陣する。
此処に、上杉軍と武田軍が「川中島」を挟んで対陣した。
このとき謙信は早暁、妻女山からの奇襲作戦で朝霧の「雨宮の渡し」(千曲川)を渡り、八幡原の本陣めがけて急襲を仕掛け、上杉軍と武田軍の軍勢が烈しく衝突した。
戦いは大乱戦となり、此処に至りて戦いの前半真っ只中、謙信は、信玄目掛けて総本陣へ突入、謙信、信玄の二人の「直戦」が展開された。
古書の『甲信越戦録』にはこのときの戦況を「・・・上杉の十二人雄花の穂先を抜きつれて切り込むを、十二人は君の向うに屏風となりて火花を散らして相防ぐを、謙信公は左の方へ廻り、只一騎にて床几の元へ乗りつけて、三尺一寸小豆長光にて切りつけるを、信玄腰をかけながら軍配団扇にてはっしと受止め、たたみかけて九太刀なり、七太刀は軍配団扇にて受けられしが、二太刀は受外し肩先に傷を受け賜う。」とある。
上杉軍一万三千、武田軍二万の軍勢が烈しく衝突し、両軍一万人以上の戦死者を出した壮絶な戦いでありました。
然し、此のことを「甲越川中島合戦」と云うが、その先鋒には信州の「地侍」も用いられていたので、信州人同士の血戦を何回もさせれていたのである。
従って川中島合戦という観光の表の蔭に、覇権制覇の渦に巻き込まれ、戦場となった川中島一帯北信濃の豪族達、民百姓は、非常な艱難辛苦をなめさせられ、人、物とも多大な犠牲を払わされてきたことも我々は忘れてはならないことである。
平成十七年十二月 山新田地区活性化プロジェクト
小池峠を通る軍用路について『間山区史』から引用
中野→更科→間山→山田→高井野→須坂→綿内→保科→川田と、山沿いに松代へ通じる道が中世には重要な交通路だった。 大熊村の前、小沼あたりは湛水(沼地)でとおれなかったからという(『中野古来覚書』)。 この道も中世は軍用路であり、また、中野の市への往還道でもあったのだろう。
さらに、裾無瀬川沿いにくだり、新野をへて山際や山腹をとおり、大熊・桜沢から雁田・小布施へ通じる山裾のみちもあった。 延徳田圃は湿地帯で歩行困難であった。
↑未通の県道342号と県道54号(Mapionから)
小池峠を通る湯田中道と間山峠を通る間山道は昭和初期まで上下高井を結ぶ主要な交易路で、現在は、それぞれ県道342号と県道54号に指定されていますが、どちらも境界の山間部は未通です。
↓県道342号の概要(Mapionから)
長野県道342号宮村湯田中停車場線は、長野県上高井郡高山村宮村と下高井郡山ノ内町の長野電鉄長野線湯田中駅を結ぶ一般県道。
上高井郡高山村から小池峠・中野市域を経て下高井郡山ノ内町の区間は自動車通行不能。
湯田中駅から旧国道292号を経て夜間瀬川と角間川の合流点に架かる星川橋を渡って国道292号佐野角間インターチェンジまでの区間は、湯田中駅から志賀高原へ向かう主要ルートの一つになっている。
主なポイント
◎起点:長野県道66号豊野南志賀公園線交点(上高井郡高山村大字奥山田字宮村)
←県道66号豊野南志賀公園線の大カーブの交点
ここから淵ノ沢に沿って登る
←淵ノ沢から分かれて小池峠に登る道
←国道292号佐野角間インターチェンジの北原跨道橋(山ノ内町佐野)
←湯田中駅入り口交差点(山ノ内町星川)
◎終点:長野電鉄長野線湯田中駅前=長野県道478号湯田中停車場線交点(山ノ内町平穏)
←長野電鉄湯田中駅
最終更新 2020年 3月25日