高井野の歴史中野騒動

供養

法運寺

法運寺←法運寺本堂
 「中野騒動」によって中野県庁舎が焼失したため、1871年(明治4年)正月から同年7月25日に中野県庁が廃止されるまで、隣接している法運寺に仮庁舎が置かれました。
 法運寺の土蔵が逮捕された暴徒の牢舎に使われ、吟味(裁判)も法運寺で連日執り行われました。

犠牲霊供養

聖観世音菩薩  1979年(昭和54年)9月、中野騒動の犠牲者の霊を供養するため法運寺境内に聖観世音菩薩が建立されました。
←聖観世音菩薩像

聖観世音菩薩の台座←台座

中野騒動は明治の政局不安の折、凶作水害
相次ぎ、年貢相場乱騰し、贋札横行して世情不
安をまねき、農民を窮乏におとしいれたことから起る
べくして起った農民一揆である。その勢北信濃を席捲
し、動員無慮数万人を数えたのであるが、その結末たるや
もと天領下の一揆であったため多大な犠牲をはらった
にもか丶わらず、益するところ零という一大悲劇を生んだ
のである。すなわち数百人に及ぶ入牢仕置、処刑された
者百数拾人、ほかに病死早死数しれず。ことに処刑
者は現世にあっては拷問の生地獄、死しては墓なく供
養する人もなく、魂魄宙にさまよい今日を迎えたので
ある。思うに処刑者は勿論、騒動にかかわった県官、
罹災者はひとしく時代の犠牲者である。今後決して
中野騒動のような不幸を再び繰り返してはならない
のである。われわれはここに中野騒動犠牲霊供養
のため、聖観世音菩薩を建立安置したゆえんである。
  昭和五十四年九月二十四日
   中野騒動犠牲霊供養
   聖観世音菩薩建立安置奉賛会

犠牲者の碑

大塚政徳の碑  聖観世音菩薩の隣には、一揆勢によって惨殺された大塚政徳の慰霊碑が建っています。これは明治7年2月に有志によって新町口に建てられ、その後、移設されたものです。
 霊祭には元大参事高石和道、権知事立木兼善以下県官から供養料が届けられました。


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参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月31日

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