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日滝村との水争い

日滝村の用水

日滝の堤  高井村で飲み水に使われたり水田を潤した四分六分堰(紫川と思い川)の水は合流して日滝村に下り、「日滝の堤(つつみ)」と呼ばれる溜池に流入します。
 昔から高井村の西方に隣接する日滝村では、樋沢川から引いた四分六分堰の余水や、八木沢川、山崎堰の水を生活用水や潅漑用水に利用してきました。
←日滝の堤
高井野の堰
↑高井野の堰 原滋「高井・日滝地区の用水堰」より

古い資料によると「日滝の堤」は戦国時代にはすでに使われており、延宝7年(1679年)にはほぼ現在の広さまで拡げられて日滝村の大事な用水源になっていたようです。


水争い

江戸時代に開発が進んで水を多く使うようになると、干魃の度に日滝・大谷・高橋・相森の日滝4か村は上流の高井野村を相手にたびたび水争いを起こしました。
 安永7年(1778年)6月、日滝村が用水・分水について高井野村名主重右衛門を訴えました。 これに対して高井野村の名主・年寄・組頭・百姓代が、幕府の御影代官所(小諸市御影)の遠藤兵右衛門代官に返答書を提出し、このときは日滝村が訴えを取り下げています。

高井野村の主張

自分たちが使った余水を日滝村が使用しているだけで水利権は高井野村にある。
・古堰は黒部村御林内から引通している。
・紫新田の用水・飲み水を補充するため、寛永19年(1633年)に願い出て下堰を高井野村自普請で引き、村中の用水・飲み水に使用してきた。
・古堰・下堰は黒部村御林内を流れて合流し、高井野村境で2筋に分かれる。南堰は思い川といい、高井野村本村の飲み水・用水に使用している。
・北堰は二ツ石・紫両組の用水・飲み水にし、紫組下方、腰マクリの水田、及び四ツ屋・千本松の用水に使い、高井野村の水田全部の田植えが済み次第、その余水を日滝村へ与えてきた。
・下堰については、紫・二ツ石に専用権があり、日滝村はもちろん、高井野の本村にも水利権がない。 堰浚い・水掛け・水はずし等は紫・二ツ石両組で行う。 ただし堰口の決壊、大石抜け落ち等の大工事は本村の人足が行い、日滝村4カ村の人足が出たことはない。
・古堰は堰口が悪くなり、100年前につぶした。
・天和〜元禄年中に願い出て公費御普請で新堰が開鑿された。
・このとき日滝村から為替人足の申し入れがあり承知した。その関係で新堰浚いの時は日滝村からも人足を出している。分水ではなく、前々から分水したことはない。

日滝村の訴え

寛政6年(1794年)の干魃で、日滝村が田用水・飲用水の不足を富竹(長野市富竹)役所に訴えました。

分岐  六分堰(思い川)は高井野村のものであるが、四分堰(紫川)は日滝堰であり、日滝側にも同等の水利権のある組合用水である。
 紫川筋にある高井野村新田は切開畑田成のため水行が悪くなっているので、思川と紫川の水は五分五分にし、紫川筋の畑田成を全部つぶして残らず日滝村へ水を落としてもらいたい。
←四分六分の分岐

裁定

寛政9年(1797年)4月、幕府評定所の裁決が下りました。

・黒部村地内で双方立ち会い、6分は思い川へ4分は紫川へ分水し、高井野村の田用水にはもちろん、飲み水にも使用し、その余水を日滝村へ引き取ること。
・苗代・田植え時や渇水の時は、両村境で日滝村の水を締め切り、高井野村へ3日引き取り、その後、高井野側の水口を締め切り、日滝村へ3日引き取る。
・字四ツ屋地籍で思い川への漏れ水がないようにする。
・水車については在来のものは別として、新規には許可しない。

(イ)樋沢川から引いてくる堰は上堰と下堰があり、上堰は古来からの下堰が享保8年(1723年)秋の満水で壊れたため、新たに作られたものであるが、 この上下堰について両堰が組合普請、組合分水と主張することは、古来よりの証拠書類などもないので、組合用水とはきめがたい。

(ロ)樋沢川から用水堰を通し、二ツ石部落の所で思川と紫川に分けるのであるが、この紫川については高井野村では紫川と呼び、 日滝村では日滝堰と呼んでいるが、たとえ組合分水の場所だといっても、高井村地内にて日滝堰と呼ぶのはおかしい。 従って、高井野村では紫川と呼び、日滝村は自村に入ったら日滝堰と呼んでよいが、ここでは紫川と呼ぶこと。

(ハ)紫川筋にある高井野村新田は、切開畑田成のため水行が悪くなっているので、思川と紫川の水は五分五分にし、紫川筋の畑田成を全部つぶして残らず日滝村へ水を落とすように日滝村が申し出ているが、 安永の検地帳に少少の新田切開畑田成が載せられているのでこれは潰せない。 それ以後の新田畑田成はなく、これからも畑田成は行わないということにする。 五分の水を残らず日滝へ下したのでは、高井野村の2百余石の田方が干上がってしまうのでこれもできない。


しかし3日間も水を止めると生活に支障が出てしまうのでこの裁定は実情に合わず、その後も両者は争いを繰り返しました。

小競り合い

寛政9年(1797年)5月14日の四つ時(午前10時)、日滝村役人が先頭に立って小前(中下層の百姓)7、80人を召し連れ、高井野村には沙汰なく堰浚いにやってきた。 日滝村の堰浚いは、すでに5月1日、2日に行っているはずである。 高井野村の小前百姓が不審に思ってすぐ村役人に連絡すると、年寄(名主を補佐する村役人)の弥五右衛門がすぐに駆けつけてきて、日滝村役人の平十郎と伝之助に掛合をはじめた。
「きょうはいったいどうして当方に連絡もなく大勢引き連れてきて堰筋の幅を切り落としたりなさるのか」
「水の流れが悪いので堰浚いに来た」
「こちらに無断でこのような理不尽なことをされては困る、早々に引き取ってもらいたい」
 両者が掛け合っている間にも日滝村の小前はどんどん堰浚いを続けた。
 そこへ近所の作場にいた高井野村の小前百姓15、6人が駆けつけ、騒ぎは大きくなるばかりである。 そこで、とにかく日滝村の百姓にはいったん引き上げてもらうことにしてその場の騒ぎは収まった。
 その夕方、日滝村の組頭2人が弥五右衛門宅を訪れ、どのような理由で堰浚いを止めたのか伺いたい、と詰め寄った。
 しかし弥五右衛門は名主の源左衛門の家に行っていたので、そちらへ行くようにいわれたが、その日は名主の家には行かずに帰ってしまった。
 翌15日、日滝村名主の使いとして小前百姓の伝蔵他1名が弥五右衛門宅へ行った。 昨日組頭が申し入れた返事を伺いたいというのである。
 この時も弥五右衛門は留守で、かわりに割本(名主の支配者)の七郎右衛門が
「私は、昨日のことはその場にいなかったので知らないが、一体、あの堰は貴殿方もご存じのとおり、古来より日滝村堰場ではなく、たとえしきたりにしろ、当村地内は入られるのに我々に挨拶もなく堰筋へ手出しするとはどういうことか。 以後こんな理不尽なことはないようにしたいものだ」
と言い、日滝村の小前はそれで帰った。
 翌16日、またまた組頭2人が弥五右衛門宅へ来て
「一昨日より2回伺ったが留守であったので、聢(しか)と返答を承らなかったので、今日またそのことで来ました。 なぜ私共の堰浚いを差し留められたのか今日は聢と承りたい」
と詰め寄った。弥五右衛門は
「今日はこちらから組頭を差し遣わすつもりでおった。全体、其の方たちは如何様のつもりで当方へ無断でこのような理不尽なことをするのか。 すでに堰浚いは5月1日、2日に済んでいるはず。何の心得をもって理不尽なことをしたのか確かに挨拶を承りたい。 帰ったらこのことを名主に伝え、挨拶されるよう待っている」
と答えた。両人はそれで帰った。
『長野県上高井誌』歴史編より
樋沢普請←堰浚い

示談

寛政9年(1797年)の10月にようやく示談書を取り交わして、水争いが解決しました。
 『為取替申示談書之事』とされた示談の内容は
「田植え時の渇水の節は、四分堰の水を暮六ツ(18時)から朝六ツ半(7時)まで高井野へ、朝六ツ半から暮れ六ツまで日滝村へ流す」
というものでした。
 以後、文化2年(1805年)と弘化2年(1846年)にも水争いが起こりましたが、結局、この夜と昼の番水の示談規定を守ることで解決しています。
 こうした水争いは、昭和47年(1972年)に日滝原潅漑事業が竣工するまで、200年近く毎年のように繰り返されてきました。

観世音  いまは堤の辺に立てられた二十三夜塔、庚申塔と観世音菩薩が堤の水面を静かに見守っています。
←観世音


参考にさせていただいた資料

最終更新 2012年 3月31日

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