正月 | 戊辰戦争始まる。天領をすべて没収する。 | |
3月 | 代官所閉鎖。中野代官所は尾州藩の取締にまかされる。松本省庵ら着任する。 | |
14日 | 五箇条のご誓文を発す。 | |
4月 | 太政官札発行。人々は余り喜ばなかった。 | |
25日 | 飯山に小戦おこり、尾州藩兵中野に着陣、松代藩兵らと共に安田方面に向かう。 | |
5月 | 8日 | 延徳沖大洪水、千曲川水位24尺に及ぶ。 |
8月 | 伊那県創設され、中野はその分局となる。 | |
12月 | 米価高騰し1両に1斗8升となる。この年も各地に一揆が起こり、贋造貨幣が流通する。 |
3月 | 28日 | 都を東京に遷す。 |
4月 | 金札不融通につき度々お触れが出る。 | |
5月 | 6日 | 伊那県中野局となった旨の告示、下方弥七郎、小池武国(後の大蔵大臣)らの県官が着任する。 |
6月 | 高井郡内の蚕種渡世人315人に鑑札下付。 | |
7月 | 延徳沖大洪水。 | |
9月 | 延徳沖大洪水、稲の被害甚大。 | |
9月 | 太政官札と旧貨幣との引替のお触れがある。掛屋の任命。 | |
12月 | 物価騰貴し米は1両に9升5合となる。 北信商社設立、これが騒動の一原因となる。 他国からの生糸、蚕種の仲買人が贋造貨幣を多数持ち込む、官札もまた信用薄く物価騰貴に拍車をかける。 |
正月 | 旧貨引替のため官札25,000両到着。中野で引替える | |
6月 | 輸出用蚕種、中野管内で49,500枚許可となる。(北信商社で検印) | |
9月 | 中野で、局の差図により安米を売る。 | |
10日 | 平民の名字が許可になる。 | |
10月 | 1日 | 伊那県を分けて中野県を置く。中之条、御影出張所も管下となる。 中野町と唱えることになる。 |
19日 | 中野町松川村の穀屋が米の仕入れができない旨を県へ愁訴する。諸人の生活極度に困窮。 | |
11月 | 16日 | 高石大参事(知事)中野へ着任。 県より物価引き下げの通達を出す。(命令だけで方策なし) 村々から年貢安石代の嘆願書を出す。直ちに却下される。 |
25日 | 松代に大規模の騒動起こる。 | |
12月 | 13日 | 六川に騒動起こる。 |
12月 | 17日 | 須坂に騒動起こる。 |
19日 | 県より中央弁官に騒動の起こる気配を報告する。 夕刻、騒動は高井野方面より勃発する。 官員大塚政徳が同僚と新町尻へ出向いて制止しようとして惨殺されたのは19日の夜半であった。 町内数ヶ所から火の手があがり、折からの北風に次々に燃えて行った。 高石大参事以下は身を以て逃れて、六川方面へ落ちて行った。 |
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20日 | 正午近くになると、岳北へ出た一隊が木島平の人々を誘って南下して来て町へ入った。そして昨夜焼け残った家々へ火を放った。 消失 中野町松川村合計486戸 残り341戸 〃 郡部 74戸 暴徒願いの筋は、小布施へ引き返した一群の手から、折良く中央から来合わせた篠塚巡査属へ渡され、要求(御年貢石代3斗計算、商社をやめることなど)は一応容れられた。 |
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21日 | 暴徒は朝までにそれぞれ引き上げ、間もなく松代藩兵60名程が駆けつけた。この一隊は当分町の治安の中心になった。 | |
24日 | 大塚政徳の遺骨が静岡県の遺族へ渡された。 | |
28日 | 大参事を除く官員殆ど帰県して、法運寺仮庁舎で評議する。 |
正月 | 元旦 | 県より小屋掛料5両ずつ下される。外に米15日分下される。 |
2日 | 中央から北代庶務正ほか2名の官員到着。 | |
4日 | 暴徒の召捕り始まる。 | |
9日 | 官軍(佐賀藩兵)600名の大部隊が鼓笛隊を先頭にして到着し、附近の民家寺院へ止宿した(正月23日引き上げる)。 | |
12日 | 権知事に林友幸新任され着県、法運寺に入る。 | |
13日 | 沢巡察使の一行10名中野へ到着。 | |
14日 | 高井野方面から190名捕らわれて入牢となる。 2月中旬にはその数600名に達したという。牢舎は郷倉や法運寺の土蔵を使用した。 |
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21日 | 騒動の要求、御相場3斗は県より取消され、2月5日限り上納せよとの厳達がある。 | |
2月 | 新庁舎を小館城趾に建設することに決まり、設計図も出来上がった。 この頃連日、法運寺にて吟味(裁判)が行われた。 |
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20日 | 林知事に替わって立木兼善が権知事に新任され、3月10日着県する。 | |
27日 | 高井野村・織右衛門ら28名が御仕置場にて処刑された。 斬首 6名(久保組3名) 絞首 22名(久保組10名) 徒刑 124名(久保組2名、不明2名) 牢死 高井野村・重右衛門外若干名 旧善光寺領長野村その他が中野県管下に編入される。 |
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3月 | 7日 | 中野県善光寺取締出張所心得が発布されて官員2名が善光寺詰となり、前記長野村その他数ヶ所が管轄されることになる。 |
22日 | 知事がこの日より村々を巡見して民情を見る。 | |
4月 | 11日 | 小館城趾において官民共同にて、神武天皇祭が行われた。 |
21日 | 知事東京へ出張、以後新県庁の建設について中央官庁と種々打合わせを行った。 | |
26日 | 中野町駅逓の役人を選挙する。(官営運輸) | |
5月 | 10日 | 県より中央弁官に「長野村の内善光寺町に県庁を造営し、長野県と改称したき旨」の意見書を差出す。 |
6月 | 松代藩領吉田、中御所村等、中野県善光寺出張所の管下に移る。(いよいよ長野県の基板が出来上がる) このとき中野県下の全人口は155,842人、戸数 35,067軒、石高 153,636石 |
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22日 | 中野県を長野県に改める旨の太政官布告が発せられる。(町役人はまだこの事は知らなかった) | |
7月 | 4日 | 町役人はじめて長野県庁のことを知り狼狽。 |
8日 | 知事東京より帰県する。 | |
9日 | 中野町松川村の役人連印にて県存置の嘆願書を提出する。(直ちに却下された) | |
13日 | 村々連印にて中野へ出張所設置の嘆願書を提出。 | |
14日 | 廃藩置県の詔下る。 | |
25日 | 知事(乗馬)以下22名、中野町役人を召連れて、長野へ移る。(残務のため若干の官員と徒刑人が残る) | |
27日 | 長野西町西方寺の仮庁舎にて開庁式を行い、長野県の第一歩を踏み出す。総勢44名によって左中右3局が構成された。 | |
8月 | 1日 | 長野県より中野町役人へ慰労金として金2千疋(50円)下される。 |
10日 | 断髪令が出る。 華族平民の結婚自由。 |
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17日 | 4月公布の新戸籍取調はじまる。1軒毎に木札を打つ。 | |
28日 | 穢多非人の称を廃し、自今平民となる。 | |
10月 | 14日 | 県より学校取建の通達がある。 区制が定められ、中野町ほか8ヶ村は第23区となり、区長に町田菱雄、副区長に細野平作任ぜらる。各町村には旧のまま名主組頭が存続する。 |
11月 | 22日 | 全国は3府72県に統合され、信濃は長野県と筑摩県に統合される。(筑摩県は明治9年に長野県と合併した) |
24日 | 門衛・島野半蔵の法要が法運寺で行われた。 徒刑人は殆ど長野または飯綱山麓へ移された。 |
最終更新 2012年 3月 8日