↑高杜山頂の奥宮石祠
地理院地図に
↑高杜山・勝山・高杜神社と杉並木
『延喜式内高杜神社史』より
高杜神社の前方、堀之内の裏の、八幡添遺跡付近から東南を眺めてみよう。
高杜神社背後の勝山の後方の山並みの中にひときわ目立つ三角形の峰が見える。
これが
↑久保地区と赤和地区に挟まれた勝山の麓に鎮座する高杜神社と紫子萩山(地理院地図)
頂上は標高1112.7メートル。
須坂市との境界をなす
ここから下る尾根筋は土塁状になっている。
牧の馬
←高杜山から下る尾根筋の土塁状の道
その端の奈良山側に小さな石祠が立ち、その前に高さ1.5メートルほどの
←篠原旭仙が高杜山頂に立てた石祠の台石と鳥居
高杜山の資料上の初見は、江戸時代の文政7年(1824年)である。
高杜神社の神主勝山
寛延3年(1750年)、京都の吉田家から全国の神社御改めがあり、高杜神社の神主勝山家が社号の出願をして同年3月に高杜神社の社号を認められた。
同年2月に勝山紀伊守忠勝が吉田家から神官裁許状をもらっている。
その勝山神官は、のちの文政6年(1823年)と7年の二つの書状のなかで、高杜神社号の授与当時を振り返って、つぎのようにのべている。
一 高杜神社は、高井野村の
二 その高杜神社は往古からの
三 寛政3年中に当国一統の神社御改めがあったので、同年2月、坂木(更級郡坂城町)代官の浅岡彦四郎の添書をもって吉田家へ申請した。
そして、同3月中、高杜神社の社号御免を頂戴した。
四 それからのちは、勝山家代々の神官裁許状にも高杜神社神主と記されている。
『長野縣町村誌』「高井村」より
高さ175丈、周囲1里30町17間、村の東方に在り。
山脈、南は室岩山に駢列す。樹木鬱蒼たり。
登路2條、一は赤和より登る、険にして近し、28町。一は黒部を経て登る、易に遠し、登高1里6町。
高村庄五郎「高杜神社考」より
赤和石尊神社の御神体である石棒は、縄文晩期か弥生時代に作られたもので、古い形の原始信仰だと推測される。
従って、古赤和地籍にはこの頃から人が住んだものと考えられる。
この古赤和の奥を登頂した所に高頭(高遠)の山がある。
その稜線では特別に目立つこの山が、高杜神社の奥院であると言い伝えられていて、後世になり、そこに祠が造られた。
信仰の対象として神社が建てられるようになるのは、蘇我王朝の八世紀以後のことであり、それより前の時代は、天・太陽・月・山岳・岩・水というような、自然や生殖が神として人々の心を捉えていたのである。
高頭山が畏敬の山として信仰の対象となり高杜神社の奥院とされたことも、古赤和の住居跡と並べて見て不思議ではない。
作家の金達寿氏が、高は高麗に通じ、もり(杜)は朝鮮語の頭である、と指摘している。
五世紀頃かそれ以前に、大陸・高句麗より渡来した移民帰化人と、高杜神社が現在地に建てられる前の高頭山とを、その時代の人達の立場になって考察する必要がある。
昭和20年(1945年)、赤和の篠原旭仙氏が発起人となって高杜山頂に石祠を建立しました。
石材は篠原敏郎氏らが担ぎ上げました。
笠石には「旭仙」、背面には「発願人 篠原旭泉」と刻まれています。
←石祠の背面
篠原旭仙氏の孫の篠原一氏によると、旭仙氏の亡き後、篠原家は神官に依頼して石祠の御魂抜きを執り行い、区切りを付けたそうです。
頂上(奥宮)は長径約20メートル、短径数メートルに削平されており、長い楕円形をなす。
←高杜山(奥宮)試掘調査実測図
平成11年(1999年)7月、氏子総代の依頼により、考古学研究の人たちが、高杜山頂の削平部分の試掘調査をおこなったところ、近代以前の遺物は発掘されなかった。
その結果、ここが古代・中世いらいの奥宮であったかどうかは、現在のところ、確かなことはわからない。
そして、この頂上の削平地がいつ何のためにおこなわれたのか。
また、高杜山と勝山の
最終更新日 2022年 9月27日