高井野村と西側の日滝村、小河原村に広がる松川扇状地は、渇水期には飲み水や生活用水にも事欠く旱魃常襲地帯で、水田ができる場所は限られ、大部分の耕作地は麦や豆、雑穀などの畑作でした。
↑高井野・日滝原と分水嶺(黒字の山)(カシミール3Dで制作)
このため新たな水源を探し出し、用水路を敷設して美田を開発しようと、幕末から明治初期の社会が大混乱していた時代に、村の指導者による私財を擲った引水事業が遂行されました。
しかし彼らが山野を駆け巡って探し出した水源と高井野との間には標高2,000m級の脊梁山脈が連なっており、分水嶺を越えて引水するという、かつてない大事業となったのでした。
文化年間(1804年〜1817年)、紫組の豪農・久保田源之丞は小河原村字高畑地籍(須坂市高畑町)に深さ7丈(21.1m)余の井戸を掘って耕耘回復策をはかり、小河原村東組の基を開きました。
さらになお夏場の水枯れを克服するために、隣接する上野国の万座川からの引水に着目し、およその測量を終え、いよいよ幕府の許可を得ようとした矢先に死去し、実行されませんでした。
○久保田源之丞(実業家)
久保田氏の支家に生る、性侠気に富み公益事業に尽くせる事少なからず、 豊洲村字高畑開拓と高井村字浄土原及日滝村字日滝原引水計画とは其重なるものなり、 文化年中大旱歳を重ねしかば、高畑二百七十余石の地収穫無く住民尽く他に転じ該地は終に官に帰するに至れり、 此時に当り領主真田信濃守は源之丞に托するに耕耘回復の事を以てせり、氏之を諾し先ず深さ七丈余の井を穿ち漸く飲用水を得、 次で家屋を建築し有志を募り戸数二十余戸に達せるを以て永遠居住の策を講ぜり、現今の小河原東組これなり。 斯くして猶足れりとせず上信国境より湧出する萬座川を引用せんと、深山を跋渉して測量をなし水路を断定し、 幕府の許可を受くべく出府せしが惜しむべし途にして没せり
『上高井歴史』より
久保田源之丞の志はその後40年を経て、堀之内組の太田才右衛門に引き継がれました。
↑引水測量図(『写真が語る高井の歴史』より)
計画の概要は次の通りでした。
←毛無峠と樋沢川の渓谷
上州万座川の水を分水して毛無峠を経、信州牧村地籍二十三か村入会山の樋沢川上流に入れる。
その水を下流の黒部村竜宮淵(りゅうごんぶち)で堰に揚げる、為替水(かわせみず)である。
用水堰の水は、黒部村裏原−高井野村二ツ石前−紫前−神明下−四ツ屋裏−下原を通して日滝村へ入れる。
日滝村で二流に分け、一方は字相森組へ、もう一方は小河原村字(高畑)から同新田組などを灌漑し、共に八木沢川に放流する。
これによって高井野から日滝原にかけて770町歩の畑を水田化する「畑田成り」を実現し、渇水地域を豊かに変えるのみならず、「国益」の向上に寄与しようという壮大な目論見でした。
↑群馬県側から見た上信国境の山々と北信五岳(カシミール3Dで制作)
太田才右衛門は文久元年(1861年)、上信国境の万座山に数日間野宿して、万座川から毛無峠に至る引水の可能性を調査しました。
それから10数年、毎春夏実測を重ね、堰路開鑿の計画を練りました。
万座山中に探し当てた水源地は上野国吾妻郡干俣(ほしまた)・大前両村の入会地にあり、水源の湧き水をもらい受ける交渉が幕末期には成立しませんでした。
明治維新後、太田才右衛門は久保田源之丞の本家三世の孫・久保田慶祐を誘って願人とし、さらに日滝村・小河原村の有力者二人ずつを願人に加えました。
高井野・日滝・小河原3カ村は、干俣・大前両村の戸長らに宛てて、万座山の内、字ウクシカ嶽並びにトラフン山の中央よりの出水を作場(耕作)用水として使わせて欲しい旨の依頼状を渡し、その返答文書「差出申一札之事」が明治8年(1875年)11月に作成されました。
両村小前取糺(とりただ)し候処、国隔たるとは申しながら、素々(もともと)隣村同様之自愛を以て故障これなし。然る上は、御勝手次第に御引取り成らるべく候。
こうして万座山中の出水引取り(使用)に関する許可状が高井野村ほか2カ村に与えられました。 さらに用水路開鑿に係わる水路沿いの立木の伐採も許可され、新堰開鑿に必要な示談(相談取決め)が成立しました。
(1)明治8年12月
太田らは長野県権令・楢崎寛直あてに「以書付奉願候」という新規水引願書を提出しました。
提出人:高井野村開素人・太田才右衛門、願人総代高井野村紫組・久保田慶祐、同日滝村相森組・同本澤平兵衛、同小河原村新田組・永田辰之助、同同村東組・岡澤六三郎、3村各用掛及び副戸長
※しかし、この計画は採用されませんでした。
(2)明治9年(1876年)5月
開素人・太田才右衛門ほか3カ村の願人らが、高井野村吏宛に「指出申規定書事」を提出しました。
概要:
1.ケナシ峠より樋沢川へ引水し、川から出水するときは、村吏立会のもとに、樋をいけ「平水」にして取水をし、下流出口舛にても余分な水のないよう出水量を確かめる。
2.引水口・出口ともヤライ(矢来)を建て、錠をかけ戸締めをして、6月1日より8月30日までは10日ごとに水の分量を確かめる。
錠は村吏が預かり、異常があるときはいつでも確認する。
3.「新堰揚口御改並諸人費」として今後のために金百円を備金として出金した。
4.上州よりの引水が減じて流水できないときは、揚げ口での水取りをしない。
(3)明治9年9月
松川(樋沢川)の水利権を持つ小布施村など15カ村に対しても「新規水引示談書」を提出しました。
(4)明治9年10月
※10月5日付けで第18大区副区長の奥書を添えて再提出しましたが、このときも受け入れられませんでした。
なお、この年に高井野村と黒部村が合併して高井村となりました。
(5)明治10年(1877年)6月
長野県権令・楢崎寛直あてに明治8年12月とほとんど同じ内容の「新規引水願書」が提出されました。
開素願人・太田才右衛門と変更され、願人に日滝村相森組・和田要吉が加わり、第18大区長官(副区長・高井辰二)の奥書が添えられました。
願書の概要:
1.私どもの村々は、以前から用水乏しく畑地ばかりで飲み水にも困っています。
高井野村太田才衛門が総名万座山の内字ウクシガ嶽の中央並びにトラフン山の中央より出る落水を探しあて、地権者干俣・大前両村との水貰い受けの示談も済みました。
2.ついてはドヲフンより引水し、ケナシ(毛無)峠絶頂より4、5丁下った樋沢川上流に引水枡をを設けて落とし入れ、80丁(8,720m)下流の龍宮淵辺で筧により分水します。
樋沢川水系の高井野・日滝両村への川借用の示談も了解済みです。
3.龍宮淵から黒部村内の官有林までは旧堰形跡を水路にして、ここに取入口同様の枡を設けて水受けし、そこからは耕地や草地を買い受けて新規用水堰を開削し、通水します。
そうすれば、多くの畑田成り(水田)が生まれ、小河原村両組では飲み水の助けともなります。
4.さらに引水堰辺の耕地では、多くの下等地は中等地に、中等地は上等地になって、人民が永続し、ひいては「国益」をもたらします。
目的書・山見取り絵図や源水貰い受け証控えを別紙提出しますので、本事業をご採用くださるよう懇願いたします。
↑願書に添付された「新堰開鑿絵図」(『高山村誌』より)
※明治11年(1878年)3月にこの願書が認可されました。
明治10年6月の計画では新用水堰の全長は約22.8kmで、このうち群馬県側が約12.4km、長野県側が約10.4kmでした。
この水路掘削に要する修繕人足(労働力)の総計は1万4031人で、うち87%が群馬県側の山岳地帯を掘削する人足でした。
水路区間 | 水路長 | 水路幅 | 面積 | 修繕人足 | 日当 (当初計画) |
万座山の内水源字牛池〜信濃 国字ケナシ山上信両国境迄 |
6,888間 (約12,400m) |
1間 | 2町2反9畝 | 12,162人 | 30銭 (12.5銭) |
高井村字浦原龍宮淵〜字下原 日滝村境迄 |
2,628間 (約4,730m) |
4尺3寸 | 6反5畝 | 961人 | 25銭 (10銭) |
日滝村字境塚〜字虫送り分水 迄 |
467間 (約840m) |
4尺2寸 | 1反0畝 | 169人 | 25銭 (10銭) |
同村字虫送り〜字行人塚従前 用水落合迄 |
559間 (約1,000m) |
3尺0寸 | 9畝 | 153人 | 25銭 (10銭) |
同村字虫送り〜字地蔵原小河 原村境迄 |
561間 (約1,010m) |
3尺3寸 | 1.0反 | 154人 | 25銭 (10銭) |
小河原村字雁田道南沖〜字新 田組沖従前用水落合迄 |
755間 (約1,360m) |
3尺0寸 | 1反2畝 | 207人 | 25銭 (10銭) |
同村雁田道南沖分水〜字六 川道西沖右新堰落合迄 |
816間 (約1,470m) |
3尺1寸 | 1反4畝 | 227人 | 25銭 (10銭) |
合計 | 12,674間 (約22.8km) |
3町4反7畝 (約3.44ha) |
14,033人 |
高井村他2カ村における新用水路の敷地(堰敷)の面積は1町2反余で、買収金額は約203円、1反あたり16円80銭でした。 堰敷となった潰地は官有地に編入され、税金免除の対象となりました。
地種 | 反別 | 地価 |
田 | 29歩 | 3円52銭 |
畑 | 5反4畝8歩 | 42円69銭 |
宅地 | 1畝16歩 | 3円13銭 |
山野 | 2畝20歩 | 4銭 |
官林 | 2畝20歩 | − |
合計 | 6反3畝16歩 | 49円38銭 |
↑引水計画図 御飯岳東麓の集水路と作業小屋(『高山村誌』より)
群馬県から御飯岳の中腹を横切り、毛無峠(標高1,823m)を越えて長野県に通水するため、群馬県側は標高1820m以上の山岳地帯を通過する水路の掘削工事となります。
↑毛無山腹の開鑿跡(Google Earth)
毛無峠の嶺上から東北に向かって堰路を開鑿し、巨岩を横断し、原始林を伐採する工事で、堰路に沿って作業人足の簡易滞留宿泊所が建てられ、大量の食料や開鑿関係資材が峠を越えて運び上げられました。
↑黒部の水路図と太田堰(原滋「高井・日滝地区の用水堰」より)
樋沢川から龍宮淵(りゅうごんぶち)で取水し、黒部の裏腹の二十三か村奥山道に沿って新堰が開鑿されました。
↑黒部に残っている太田堰の跡
また下流の小河原村では新規に通水する用水に備え、明治9年8月頃から新堰掘削作業が始められていました。
明治12年(1879年)9月に、延べ1万2162人の人足を要して群馬県側の工事が落成しました。
長野県側の3カ村でもそれぞれ新堰の掘削を続け、翌明治13年(1880年)5月には新規引水堰全コースの開堰が終了しました。
群馬県から分水嶺を越えて長野県に下り、高井野と日滝原を潤すために新規開鑿された水路を、指導者の名前を冠して「太田堰」と呼ぶようになりました。
落成直後にまとめられた「太田堰」開鑿にかかった概略費用は以下のように報告されています。
項目 | 金額 |
測量費合計 | 665余円 |
示談集会及雑費 | 357余円 |
堰敷買揚価 | 248余円 |
水路開鑿 岩石砲発 筧等の費 | 1,880余円 |
合計 | 3,150余円 |
新堰開鑿事業費の出資は以下の通りです。
村 | 出資者 | 出資金 |
高井村堀之内 | 太田才右衛門 | 2,550円 |
高井村紫 | 久保田慶祐 | 350円 |
小河原村 | 永田辰之助 岡澤六三郎 |
1,100円 |
日滝村相森組 | 本澤平兵衛 和田要吉 |
1,100円 |
合計 | 5,100円 |
全堰が竣工した明治13年の夏には、流水が極端に減ってしまいました。 発起人・願人一同が水源の万座山を探索すると、字ウクシカ嶽の小字八丁ゴウロで堰敷の穴から漏水し、下流の新堰が干上がっていることを発見しました。 ゴウロという地名は石がゴロゴロしていることが多く、八丁ゴオロと呼ばれる土地は岩石の崩落地帯で、漏水しやすかったようです。 万座川支流から集積した落水の本数が不足していたこともあって水量が十分に確保できず、明治13年の夏には水路が干上がって「田用水甚乏し」という状態となり、新堰は機能不全に陥ってしまいました。
太田才右衛門らは第1次引水堰が開通する前の明治13年(1880年)3月には、新規引水路線の再検討を行い、奥万座川上流の殺生沢に水源を見出し、毛無峠と岩場をトウ(水路用トンネル)で貫いて通水する新たな水路開鑿を計画していました。
↑万座からの引水測量線図(『高山村誌』より)
↑第1次水路(青)と第2次計画水路(緑)の推定図
※この地図は国土地理院発行の「数値地図50000(地図画像)」と「数値地図50mメッシュ(標高)」を利用してカシミール3Dで作成しました。
引水量を十分確保するため、毛無山頂より80間(145m)下った場所にある岩場(字ケナシ)と、字板橋地籍に水路を通すトウを掘削するというものです。
工事内容 | 水路長 | 水路 | 修繕人足 | 賃金 (日当) |
新規堰開鑿 殺生沢水源〜毛無峠 |
4,400間 (約7,920m) |
幅6尺、深さ3尺 | 22,000人 | 8,800円 (40銭) |
水トウ掘削 字ケナシ |
486間 (約875m) |
丈5尺5寸、幅3尺5寸 | 19,440人 | 9,720円 (50銭) |
水トウ掘削 字板橋 |
100間 (約180m) |
丈5尺5寸、幅3尺5寸 | 4,000人 | 2,000円 (50銭) |
合計 | 45,440人 | 20,520円 |
第2次開鑿事業費の出資は以下の通りでした。
村 | 出資者 | 出資金 |
高井村堀之内 | 太田才右衛門 | 1,150円 |
高井村紫 | 久保田慶祐 | 388円 |
小河原村新田組 | 永田辰之助 | 617円 |
小河原村東組 | 岡澤六三郎 | 150円 |
日滝村相森組 | 本澤平兵衛 和田要吉 |
95円 |
合計 | 2,400円 |
明治13年9月から明治15年(1882年)4月まで、字ケナシの岩盤を貫くトンネル掘削工事が進められましたが、高山の岩壁が意外に堅く、工夫一人一日あたり5分あるいは1寸以上進むことができず、群馬県側から60間、長野県側から60間の合計120間を掘り進めたところで工事は中断しました。
この間に使役した人足は4,800人、支払った賃金は2,400円で、資金が底をついた時点で工事は頓挫しました。
←毛無山
明治15年9月、太田才右衛門は病床に伏す身となり、自力での開鑿事業の遂行は絶望的となりました。
このため発起人らは県による事業継続を働きかけることとし、明治17年(1884年)2月21日に長野県令あてに特別保護嘆願を提出しました。
提出したのは起業人総代理・太田才右衛門と久保田慶祐及び高井村長・内山沖衛門で、新規引水事業の歴史的経過・事業内容・経費・日滝原開拓による経済的利益などが盛り込まれていました。
しかし、県が新規引水堰開鑿事業を採択したという記録はなく、開鑿された用水堰を活用して開田が進んだという記録も残されていません。
結局、分水嶺を貫いて引水する「太田堰」の開鑿は未完に終わりました。
明治17年(1884年)8月14日、太田才右衛門は卒中で死亡。享年65歳でした。
太田才右衛門らが心血を注いで開拓を進めた「太田堰」の一部が、高山村紫の神明社前から分水された新堰、別名「相森堰」として利用されています。
↑「太田堰」の案内板
しかし莫大な費用と労力の大半を注ぎ込んだ群馬県側の開鑿水路跡は背丈より高い根曲がり竹(チシマザサ)に覆われ、冬期間は深い雪の下に埋まっているため、今日では痕跡を確認することは難しくなっています。
黒湯山の中腹を取り巻く長野県道・群馬県道466号牧干俣線(通称・上信スカイライン)の道路脇に建っている「太田堰源流之地」と刻まれた石碑が、唯一、先人の遺徳を偲ぶよすがとなっています。
←頌徳碑
高山村太田才右エ門は 明治の初め(一八七〇年)地元有力者と日滝原七百ヘクタールの水田化のための堰(用水路)建設を計画 県に助成を陳情したが却下され自力建設を決意 用地の買収 提灯を用いた夜間測量 弓池からの補助水路等の水利権取得に奔走し 明治九年着工 須坂市小河原迄水路延長二十四キロ米は明治十三年完成 直ちに通水したが 山腹を迂回した毛無地区の水漏れが甚だしく計画を変更 正面の御飯岳に樋沢川へ直通するトンネル掘削を決断 工事は難航し 資金捻出のため酒の醸造を始めるなど手を尽くしたが私財も底を尽き 才右エ門は失意の中 未完成のまま明治十七年没す 享年六十五才
太田家十四代 三郎記(石碑より)
太田堰は日本列島分水嶺を越えて水源を確保するなど日本灌漑史上先駆的開発であった その一部である信州高井郡日滝原の新川・相森堰は今に流れる 翁を讃え源流の地に頌徳碑を建立する
平成十一年(一九九九年)六月
長野県上高井郡高山村史談会(石碑より)
毛無峠に立って高山村側の谷底を覗くと、開鑿した水路を流れる水が樋沢川に落ちていったときの関係者の歓声が風に乗って沸き上がってくるようです。
←毛無峠から見下ろす樋沢渓谷と北信五岳
←太田才右衛門
文政三年高井村字堀之内に生る。性温厚にして博愛心に富む。
高井村字紫日瀧村字相森・豊洲村字小河原の内新田組・東組の地、日常の用水乏しく、火災の際の困難も少からず。
因りて此困難を除き且高井村字浄土原及日瀧村字日瀧原広漠の地は、収穫少き耕地たるを憂ひ、灌漑の便を計り、耕地整理をなし一面稲田となさば、地方の利潤大なるべしと、引水の大志を起し、明治六年中、源水を上野國吾妻郡干俣村・大前村入会山総名万座山字ウクシカ嶽の中央、
並にトラフン山の中央に探り索め、以来寒中丈余の積雪中を跋渉する事、十数回漸くにして、水路筋の踏査を終り、水源より毛無山上信境迄、新水路六千八百八十間を穿ち、樋澤川へ落し入れ、八十丁余合流し、龍宮淵にて分水し、黒部より二ツ石・紫表を経て、高井・日瀧境迄、
新水路二千六百廿八間四尺二寸、日瀧村字境塚より字虫送り分水迄、新水路四百六十七間、同虫送りより字行人塚従前用水落合迄新水路五百五十九間及同虫送りより字地蔵原・小河原境迄、新水路五百六十一間三尺、小河原字雁田道南沖より新田組沖従前用水落合迄、七百五十五間一尺二寸、
同雁田道南沖分水より字六川道西沖右新堰落合迄、八百十六間二尺四寸の大工事を企て、紫・相森新田組・東組の賛同を得て、明治九年三月本県権令楢崎寛直の許可を受けて着手しぬ。
後関係町村の故障等幾多の障害を排し、資金を投する事四千余円、内二千余円は全く自費を擲ち、着々進行せるに惜いかな毛無峠の落水充分ならざりしより、隧道を開くことと決し、明治十五年三月より九月に至る総長四百八十間の内、百三十間の竣工を見たるも、氏老衰の上、
偶々病に罹りて中絶し、翌々十七年八月十四日没す。
『長野縣上高井郡誌』より
←太田才右衛門家の墓
福島正則の側医師太田道三の後裔たり。
『上高井歴史』より
最終更新 2012年 6月23日