高井野の地理>高井野の街道
↑「上信スカイライン」から望む山田牧場、笠岳、横手山
昭和43年(1968年)、七味温泉から山田牧場を経て村境の山稜を越え、山ノ内町陽坂(ようさか)で国道292号線と結ばれる”林道七味笠岳線”総延長12,106メートルが、8年の歳月と総工費8,805万円を投じて開通しました。
志賀高原と上州草津温泉・万座温泉を結ぶ「志賀草津高原ルート」のバイパスになり、笠岳南面の急峻な山腹を横断して松尾根に通じる林道は、眼下に開ける松川渓谷の展望の良さを全面に打ち出し「南志賀パノラマルート」と名付けられました。
↑林道七味笠岳線
↑山田牧場と笠岳
「活気づく南志賀温泉郷」
南志賀は、山田・五色・七味の温泉をもち近年は山田牧場を中心として、春は、わらび、たけのこ狩りから、夏のキャンプ、そして秋の紅葉がり、冬のスキーと四季を通じてにぎわっております。
牛のたわむれる牧場の中を通り、志賀高原のシンボル笠岳のふもとをぬけ、志賀草津高原ルートに接続するこのルートは、正にパノラマといえるでしょう。渓谷美はまた格別です。
この開通によって南志賀も活気づき、大きく変わっていくことでしょうし、発展させたいものです。
緑を破壊することなく、最大限に生かした開発を・・・・・・・・
『館報たかやま』より
7月29日に西澤権一郎長野県知事を招いて開通式が開かれました。
当日は台風4号の余波を受けて天気が悪く、山田温泉・風景館での式典となりました。
西澤知事の祝辞
「この林道は、私が山田牧場の碑の除幕式に出席した際、地元の方々から何かここを開発する方法はないかと要望されたことが始まりである。
それまで林道は、木材搬出の目的にのみ開設されて来たわけですが、ここの要望で多目的林道ということで国に働きかけ、許可になった第一号である。
地元の皆さんの構想によるものであり、そのためぜひ完成させねばならないとご苦労されたと思う。
それから、7年前と今日とはだいぶ違い車が多くなり、道があれば通る、そして道が悪ければ文句を言うが、贅沢いうなとはいかなくなった、時代の要請である。
つくったために苦労せにゃならんということもあるだろうけど、これを克服され、立派に育てて欲しい。
県も皆に喜ばれる道になるよう努力したい」
『館報たかやま』より
為政者の威信と村民の期待を担って開通した道路でしたが、一冬過ぎた翌昭和44年(1969年)春、平七沢谷頭部が崩壊し、ここを横断していた道路はあえなく決壊してしまいました。
崩壊地は幅200m、比高330m、斜面長約1kmの規模を有し、平均で30度、上部では35度以上の傾斜があります。
崩壊は笠越火砕岩層の部分を中心に発生し、上方の笠岳火山岩層まで拡大していました。
まるで開通式の天気がこの道の行く末を暗示していたかのようです。
←笠岳南面の崩壊
昭和45年に信濃毎日新聞社から刊行された『信州百山』は以下のように記載しています。
「笠ヶ岳」
笠ヶ岳の開発は南の山ろく、高山村が意欲的だ。
以前は、山田牧場は笠越えし、ツアーコースの通り道で、冬の五色、七味温泉も山スキーヤーに親しまれていたていどだった。
近ごろ、熊の湯、牧場間はハイカーの往来が急速に伸び、それが43年夏、8年がかりで開通した林道七味・笠岳線(12.5キロ)で一躍、志賀高原の”分家”として浮かびあがってきた。
七味温泉から牧場を経て笠ヶ岳の中腹を巻き、志賀・草津ルートの陽坂で結ばれる「南志賀パノラマルート」だ。
ところが、一冬たった44年春、笠ヶ岳中腹で道路が大きく決壊した。
自然を無視した開発が自然のシッペ返しをうけたのだが、それでも地元はつけ替え工事をはじめ、さらに山頂にロープウエーを架設しようと計画している。
実現性はともかく、観光開発の波は霊峰を取り巻いているともいえそうだ。
(中略)
山ノ内側は山腹から頂上にかけて国有地。
飯山営林署は治水的にも保安林を保護する方針でおり町も志賀高原のシンボルはおかさない立場をとって、通産省からしばしば回送されてくる鉱区権申請にも却下の説明をつけるなど、姿勢を保っている。
「まんじゅうがさ」から「すげがさ」の山容は、すそ野で観光の波に洗われても形を変えることはないだろう。
『信州百山』より
江戸時代には小布施から山田村を通って山田峠を越え、上州・草津温泉に通じる「山田道」と、同じく小布施を起点とし、高井野村を経由して毛無峠を越え、上州の干俣・門貝に至る「毛無道」を湯治客や荷物を載せた牛馬が頻繁に往来していました。
近世、鉄道網と自動車道路が開通するとこれらの街道は急速に衰退し、高山村は中央分水帯をなす上信国境の連山を背に閉ざされた袋小路となってしまいました。
第二次大戦後、高山村から須坂・小布施以外に車で村外へ行ける道路として、高山村牧から群馬県吾妻郡嬬恋村干俣に至る長野県道・群馬県道466号牧干俣線、通称「上信スカイライン」が開通し、定期バスが通る観光ルートとなりましたが、村の主要な観光地である山田・五色・七味の各温泉は経由しておらず、袋小路のままでした。
高山村は「南志賀」という名前で温泉やスキー場に観光客を呼び込もうと目論んで「南志賀温泉郷」と名付け、志賀高原に通じる新しい道を「南志賀パノラマルート」と命名しました。
「南志賀」はすでに知名度の高い「志賀高原」の南に位置するとして名付けた”あやかり地名”で、もともと存在していた地名ではありません。
←南志賀温泉郷のポスター
↑新道(左)と旧道(右)の分岐点
「南志賀パノラマルート」の崩壊から4年後の昭和48年(1973年)8月、笠岳の西側鞍部を経由して山ノ内町平床に通じる新しい「林道七味笠岳線」が開通し、車で志賀高原の熊の湯に行けるようになりました。
↑平床大噴泉と笠岳
昭和57年(1982年)、林道七味笠岳線は、上水内郡豊野町と下高井郡山ノ内町平穏を結ぶ県道66号豊野南志賀公園線となり、主要地方道(県道)に格上げされています。
梅雨時は”竹の子採り”の車が列をなして駐車し、夏は涼を求める観光客と笠岳の登山者が通り過ぎ、秋は松川渓谷の紅葉を愛でる車が頻繁に通過していますが、冬期間は雪に閉ざされ、スキーだけが移動手段であることは変わっていません。
↑県道66号から望む山田牧場、中倉山と北アルプス・北信五岳(平成21年10月19日)
平成8年(1996年)、高山村発足40周年を記念して「南志賀温泉郷」から「信州高山温泉郷」と観光の看板を掛け替え、平成18年(2006年)には高山村歌を改訂して、昭和55年(1980年)制定の歌詞から「南志賀」が削除され、「南志賀」という”あやかり地名”は村内から姿を消しつつあります。
行き止まりの袋小路に穴を開け、村の活性化と発展を嘱望された「南志賀パノラマルート」は名実ともに幻の道となりました。
最終更新 2012年 8月19日