樋沢川から用水を取り入れる頭首工のある龍権淵(竜権淵、竜宮淵とも)は、両側から岩盤が迫って昼間でも薄暗く、滝壺から立ち昇る水煙が漂って真夏の暑さを遮っています。
高井野を潤す用水路の要衝である龍権淵について記されている資料をまとめました。
青木廣安「いいとこ見っけ」(『自然と人のふれあう村』より)
二ツ石から樋沢川左岸の堰沿いに上る。
すすきに触れながら車がやっと通れる道を進むと、カラマツや松と雑木の混合林がつづく。
ナラやクヌギ、クリなどの雑木林は原始時代から扇状地一帯を覆っていたと考えられているが、現在、平地に残っているのは稀である。
その点でこの一帯は、中高年齢者であれば、懐かしい景観に違いない。
←龍権淵から流れる水路
堰端の道をつめていくと、岩盤の切り立つ、昼でも暗い狭隘部にでる。 堰は右手の岩盤をトンネルで引かれている。これから上部への道はない。 木の葉隠れに樋沢川本流をたどって三段の滝が望める。この滝壺と狭隘部が、いわゆる龍権淵。 四分六分堰の大口、つまり、取水口になっている。 下流に下堰、トンネルは新堰、上堰はさらに上部から取水した。
←龍権淵
龍権淵は雨水を司る龍神の住む淵に由来する命名だろう。 近くの山中には、黒部の防火・防災の神の愛宕社も祀られている。
「伝説と歴史 黒部の巻」(『高井村公民館報』第35号より)
高井、日滝原の灌漑をひきうけている樋沢せぎの取入口は、部落の東方約1,000米のところにある。 この附近は両側の山から押し出した大きな岩に狹まれて樋沢川の川巾がせまくなっており景色のよいところ。 樋沢川から取入れられた水は、ここの76米の竜権淵隧道をとおって樋沢せぎに流される。
←龍権淵の取水口
このせぎは又思川と呼ばれ、以前は割合に多くの幼い子供たちの犠牲者を出した川で、思川橋はこの部落の西入口にある。
↑高井野の堰 原滋「高井・日滝地区の用水堰」より
『信州高山村誌』第二巻歴史編より
高井村でも大正4年(1915年)に水路の整備がされている。
『写真が語る高井の歴史』に、高井村用水(上堰)の竣工記念(大正4年5月)の写真がのっている。
竜権淵における頭首工(用水取入れ口)の工事現場の写真である。
ここは通称「四分六分堰」の上堰の頭首工である。
用水の取入れには、河川の流れをせき止めて、人工水路に引き入れる。
そのため、取入れ口は上流に大雨があるたびに、せき止めた石積みが流されたり、堰口が土砂で埋まったり、不安定な箇所である。
水番もたいへんで危険がともなったり、労力もかさむ。
堰の水量を受益地に安定供給するには、頭首工の整備が必要になる。
この事業の計画施工書は不詳であるが、おそらく下流の水田地帯の水利溝や耕地整理にともなう事業であった可能性がある。
樋沢川は修水面積が広い暴れ川である。
竜権淵は岩盤が露出している狭隘部であるが、それだけに流力が強く、破壊もされる。
昭和20年代はじめにトンネルによる水路開削がされて、ようやく安定した。
←龍権淵の頭首工
湯本直嗣「黒部の用水と開発」(『須高』第28号より)
四分六分堰の用水を補強する為に、樋沢川より
←新堰
一名、思い川といわれ高井野村用水路であった。 樋沢の黒部区所有山林内にある樋ノ口(堰水を通したり、大水の時は防いだりして、余分の水は樋沢川へ落とす所)のすぐ下に分水界があるが、ここで六分(思い川)と四分(紫川)に分けている。 六分の流れの堰で、思い川の名からもかなり古い堰である。 慶長7年(1602年)の村切りの際には、黒部村と高井野村の境界の大半は六分堰になっている。 北裏を通り北荒井(後に八木沢川水系の南荒井と合併して荒井原となるが、荒井は新井であり中世成立の新堰の意味だろう)へ向う。 思い川というように川の名をもった人工の用水堰は、中世以前の開削と言われる。
明治の初期に松川扇状地の開発を計画した太田才右エ門等が開削した未完成の堰である。
源流を遠く上州の万座川に求め、毛無峠を超えて信州側に流し、樋沢川・裏原・十王堂原・四ツ屋・日滝・小河原まで堰を開削した。
しかし、毛無峠のトンネル掘削の途中で資金が尽きて、中絶した。
黒部地区内では樋沢川から竜宮淵で取水し、裏原の23ヶ村奥山道に沿い開削された。
←黒部の用水と太田堰
堰の大部分は10年程前の裏原農道の拡幅工事に際し消滅したが、一部上樋沢の上堰・新堰・23ヶ村奥山道の交差する所の杉林内に跡が見える。
←太田堰跡
最終更新 2019年 8月16日